女中の怒り

「ロア様。ロア、起きてください。……もう」


 ロアが目を開けると、マリアのしかめ面がそこにあった。


「おはようマリア。今日は少し涼しいね」


 今日は湿度が低いのだろう、いつもよりさらりとした空気とほどよい室温で、布団の感触が心地よかった。


「いつまで寝坊しておいでですか。もう10時ですよ」


 部屋の置き時計を見ると、確かに針は10時を指していた。

 最近は暑さのせいか目が覚めるのも早かったので、ここまで寝坊するのは久しぶりだ。

 やってしまったな、とロアが頭をかいていると、マリアがじっと、枕もとに置いてあるものを見ていることに気が付いた。

 昨日の晩、ロアが眠る前まで読みふけっていた本だ。


「それ……」

「はは、昨日書庫で見つけたゾンビもののパニック小説。結末がどうなるのか気になって、つい最後まで読んじゃって………すごく面白かったから、マリアも読む?」


 ロアの言葉に、マリアは実に不愉快気に顔をしかめた。


「私はゾンビは嫌いです」


 マリアは短くそう言って、少し乱暴な手つきで掛け布団を退ける。


「マリア」

「あんな目に遭っておきながらよくそんな題材の本が読めますね」


 勢いよく音を立てて、閉ざされていた遮光カーテンをマリアが開ける。

 急に部屋に差し込んだ白い光がまぶしくて、ロアは思わず目を細めた。

 逆光だったが、マリアの横顔、その瞳に光るものがあったのをロアは見逃さなかった。


「マリア」


 足早にその場を離れようとするマリアの白い手首を、ロアは掴む。

 そのまま強く引き寄せて、膝の上に抱きかかえた。


「ちょっと!」


 マリアは身をよじって暴れたが、ロアは構わず背中から腕を回し、彼女の身体を包み込む。


「ごめんね。嫌なこと思い出させちゃったね」


 マリアの耳元で、なだめるようにロアはささやく。

 マリアは暴れるのをやめて、ぎゅっと膝の上で拳を握った。


「……無神経です、貴女は」

「うん」


 ロアの短い返答に、本当に分かっているのですか、とマリアは語気を強めた。


「私がどう、ということではありません。貴女が貴女に対して無神経だというのです。

 貴女は心が痛まないのですか。悔しくはないのですか。

 殺されたのは貴女なのに! 貴女は……っ」


 マリアは言葉を詰まらせた。

 それ以上先は、言ってはいけないと自制して。


 ロア・ロジェ・クロワは一度、死人ゾンビに命を奪われた。

 人間であることを、彼女はその時手放してしまった。


 今でも、マリアはあの血だまりを夢に見る。

 だというのに、当の本人は何の気もせずこんな題材の本を読んで。


 マリアが怖れているのは、彼女の心から人間性が薄れていくことだ。

 身体が人間でなくなってしまったあと、心は一体いつまで変わらずにいられるのだろう。

 あるいは、彼女はもうすでに、人間が持つべき死の恐怖を忘れてしまったのだろうか。


 かたく握っていたマリアの手を、ロアの掌が包む。

 ロアの手は少し、冷たかった。


「……死ぬのは悔しかったよ。怖かったし痛かった」


 ロアの、少し寂しげな「過去形」の言葉に、マリアは我に返る。

 同時に、やはりこの話題を口にすべきでなかったと後悔した。

 この三月の間、互いにあえて触れずにいたのに。


「一度死んで、少し達観してしまったのは認める。でも、おかげで気づいたんだ」


 ロアの手がマリアの手を掬うように持ち上げた。

 マリアの指先に、ロアは軽く口づける。

 触れた箇所が、やけに熱く感じた。


「私はマリアが本当に大好きで、マリアと一緒にいたいんだって。

 恥ずかしながら、私を私たらしめるのはこの感情しかないみたい」


 ごめんね、と再度ロアは謝罪した。


「……どうして謝るんですか」

「重いかなって。私はマリアに想いを寄せてばっかりだから。だから、ごめん」


 苦笑するロアに、マリアは言う。


「貴女の気持ちが重たいのは前からです」

「うぅ、そうだね」

「だから構いません。重くても」


 ん? とロアは尋ね返す。


「そのままその気持ちを忘れないでほしいと言ったんです!」


 マリアのぶっきらぼうな言葉に、ロアは思わず破顔した。

 マリアは出来るだけそっぽを向こうとしているが、後ろから彼女を抱きかかえているロアからは、逆にマリアの様子がよく分かる。


「耳、真っ赤だよ」


 髪を結い上げているせいで無防備なマリアの耳に、ロアは唇を寄せて軽く食むようにキスをした。


「っ、」


 驚いたのか、マリアは微かに艶のある声を零し肩を震わせた。

 慌てて耳に手をやって、潤んだ瞳でロアのほうを振り返る。


「反省してないでしょう!?」

「してるよ。でもマリアが大好きだって気持ちのほうが今は大きいかな」


 そう言って今度はマリアのこめかみにキスをする。

 何を言っても動じない今のロアに、マリアはいよいよ眉を八の字にした。


「……、朝からあんまり恥ずかしいことしないでください……」


 じゃあ、とロアは甘い声で囁く。


「夜ならいいの?」

「よくないですッ‼」


 マリアは勢いをつけて立ち上がり、ロアの拘束から逃れた。

 ロアは空いた両手を眺めて苦笑する。


「ふふ、残念」

「残念とか言わない!」

「……じゃあ楽しみにしてる」

「何をですか」


 ロアはにっこりと笑った。


「いつか、君が『いい』って言ってくれる日を楽しみにしてるね」

「……ッ」


 この日、マリアはかつてないほど顔を真っ赤にして、部屋を出ていった。

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