領主と女中の戯言
「暑い。あまりにも暑い」
「暑い暑い言わないでください。余計にそう感じます」
本日のボルドウの最高気温は36度。
室内にいても33度は優に越している。
湿気を含んだうだるような暑さにデスクワークもやる気が起こらず、ロアは愛用のロッキングチェアにぐったりと身を任せていた。
我慢の限界なのかシャツの胸元はだらしなく開いており、下手をすれば下着も見えそうなほどだが、マリアもこの暑さで注意をする気も起きない。
逆に
「マリアもこんな暑い日は無理してその給仕服、着なくてもいいのに」
窮屈な襟元の黒のワンピースに、白いエプロンをきっちり着こむマリアに、ロアはそう投げかけた。
「屋敷の中ではこれを着ないと落ち着かないんです。それに、夏物の服はあまり持ち合わせていませんし」
「私のお下がりでよければクローゼットにあると思うよ? 探してこようか」
「……いえ、お気持ちだけで。きっとサイズが合いません」
主に、バストが。
「胸元は緩いほうが涼しいよ?」
「……私、何も言っていないんですけど」
「……」
「……」
固まった空気を誤魔化すように、ロアは呟いた。
「……はあ。海とか行きたいな。プライベートビーチなら人目も気にならないしね……」
「プライベートビーチなんてお持ちじゃないでしょうに」
ボルドウは山間部にある小さな街で、海とはほとほと縁遠い。
「今朝の新聞で、海水浴の広告が出てたんだよ。ほら見て」
ロアはテーブルの上に置いてあった新聞に手を伸ばし、一面の写真付き広告を開く。
白い砂浜で、マリアに言わせればまるで下着のような少ない布面積の水着を纏った女性たちがはしゃいでいる。
どうやら、ビーチを一面貸し切って海水浴が楽しめる、旅行プランの広告らしい。貸切と言うだけあって、値段はかなり高額だ。
「こんな娯楽にこの額を支払う人の気が知れません。避暑目的なら水風呂に入ったほうがよっぽど効果的です」
マリアの率直な意見に、ロアはそうか、と身を乗り出した。
「それだ! そうしよう。マリア、水着の手配をお願い!」
「いや、どうして水着が必要なんですか。普通に服を脱いで入ればいいじゃないですか」
「えっ。だってマリアも一緒に入るんだよ?」
当然とばかりにロアは言った。
「ど、どうしてそこで私が一緒に入るんですか!」
「だってひとりで入ったって楽しくないじゃない!」
「楽しいとかそうでないとかの問題ではなく! 仮に水着でバスタブにふたり入ったところで馬鹿みたいじゃないですか! というか馬鹿ですよ!」
マリアの反論を聞いて、ロアはふむ、と真面目な顔をする。
「じゃあ全裸ならいいの?」
「馬 鹿 で す か」
マリアが久しぶりに本格的にキレたのがロアには分かった。
「……おいたわしい。ロア様は暑さで頭がやられてしまったようですね。ここで冷水を頭からぶちまけて差し上げても?」
マリアの冷ややかな目に、ロアは少しだけ背筋を寒くした。
「すみませんでした」
「本当に馬鹿なことばかり言って。……まあ実際、水風呂はあまり身体によくないでしょうから、いっそ熱いお湯に浸かってきれいさっぱり汗を流されては……」
ふとマリアが視線を落とすと、広げられた新聞広告の隅にまた別の広告が載っていた。
小さなジャグジーで仲睦まじそうなカップルが笑顔で湯に浸かっている。
夕日が沈むロマンチックな水平線を眺めながら貸切露天風呂、と書かれてあった。
「…………」
「マリアはそっちのほうがいい?」
新聞広告に気を取られている隙に、ロアがマリアの顔を覗き込んでにこにこと笑っていた。
「……こんなの贅沢です。無駄遣いはいけません」
「ふふ、残念。マリアが行きたいって言うなら、どこへだって連れていくのに」
そう言ってロアは椅子から立ち上がった。
「シャワー浴びてくるよ。馬鹿なことばっかり言ってごめんね。ちょっと熱にやられちゃったみたい」
「…………」
シャワールームに向かうロアの後姿を見送って、マリアはぽつりと言葉を零す。
「貴女がどうしても、と言うなら……行かなくもないのに」
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