泡沫の果てのロクス・アモエヌス

千住

第1章 花と宝石の大地

第1話 母

「病院のベッドで手をにぎってさ、がんばれがんばれって叫んで、それでもダメだった。みたいなお別れならわかるんですよ。納得いきますよ」


 ヒノキのテーブルに涙がぼとぼと落ちる。居酒屋の客たちは、スーツのアラサー男を横目にちらちら見やる。男の嗚咽おえつは続く。


「それが、朝起きたら死んでるとか、そんなのあんまりですよ」


 男は顔をあげ、日本酒をいっきに飲んだ。首から社員証が下がったままだ。大きく無骨なフォントで書かれているものだから、誰でも彼の名前『倉田くらた 有里あり』を読むことができた。


「しかも会社休めないとか、あんまりですよぉ……。母親が死んだんですよ?」


 倉田の隣にいた上司は、彼に気取られぬよう小さくため息した。言いたいことを飲みこむように、ビールをあおる。帰りたそうに腕時計を見る。

 そんな上司の様子に気付く様子もなく、倉田は続けた。


「こーんなお小遣いみたいな安月給で、毎日毎日タバコ臭いデスクに閉じこめられて、そこそこがんばった修士論文とぜんっぜん関係ないことばっかやらされて。日曜日は疲れて動けないし、有給取れないから友達にも会えなくて疎遠になっちゃったし、恋愛なんかする暇もないし。そのうえ母親が死んでも休めない。なんなんすか? 俺の人生いったいなんなんですかよぉ!」


 いいかげんろれつが回らなくなっている。

 上司はがたんと椅子を引き、立ち上がった。


「明日からは休めるんだから、しっかり喪に服せ」


「今日が一番大事だったんですよぉ!!!!」


 突っ伏し、机を殴る倉田。


「なんなんすか、俺の人生! どうなってるんすか! 誰のための何なんすか! ねぇ!」


 倉田が泣きながら顔を上げると、上司はいなかった。振り向くと、会計を済ませて出て行く背だけが見えた。


「ああ、もう……」


 倉田は髪をかきむしる。


「死にたい」


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