第6話 泡の姫神の夢
『どうか、お眠りください』
倉田が目を開くと、あたりは真っ暗だった。数メートル先も見通せない。宿の部屋には窓があった。三つの月がのぼり始めているはずだった。こんなに暗くなるわけがない。ここはどうみても、宿じゃない。
倉田の前には、長い黒髪の男がひざまづいていた。青・白・黒の三色でできた荘厳な服を着ている。足元は、泡の意匠で装飾された長い杖を横たえている。
男は囁く。
『泡の姫神よ。その眠りはなぜ覚めようとしているのですか』
『……いから』
少女の声が聞こえ、倉田は振り返る。
月光を結ったような美しい長髪。なめらかな肌に薄いネグリジェ。
倉田が酔って森に迷いこんだあの日、異世界に飛んだあの日の少女がそこにいた。あの夜と同じく、宝石が沈む透明な泉の上で、大きな蓮の花に横たわっている。
少女が薄目を開けた。オパール色の瞳がうすく光る。
「……夢か」
確かめるように呟く。倉田が瞼を開けると、今度こそ宿の天井があった。
窓の外はほんのり薄緑色に染まっている。この世界の朝焼けは薄緑色なんだな、と倉田は見たままを思う。三つの月が沈み、太陽ものぼっていない、この時間が一番暗いのかもしれない。
「夢、だな」
倉田は寝返りしながら、もう一度呟く。
使命は神の眠りを覚ますことだと聞かされていた。しかし黒髪の男は姫神とやらに『お眠りください』と繰り返し囁いていた。だから、きっとただの夢だ。
俺があの日見た女の子が、その神と決まったわけでもないし……。
しかしなぜか嫌な感じが晴れない。
二度寝しようか迷っていると、扉の外から物音が聞こえてきた。ロサか、ウバロバイトか、他の客か。倉田にはわからなかったが、いずれにせよ少し心配に思えた。まだ筋肉痛の残る体を起こす。
扉を開けると、昨日と同じ姿勢でカウンターにいるルブライトが目に入り、倉田の胸がぎゅっと締めつけられた。
その正面、昨日倉田が座っていた席には、ロサがいた。父に寄り添うみたいに伏している。
まさかと思ったが、寝息で背中が上下していた。倉田はほっとため息する。
「おはよう、クラタ」
小さな声でウバロバイトが言う。厨房に勝手に入り、料理をしていたようだ。それいいのかな……と思いつつも、倉田は小声で「おはようございます」とかえす。
ウバロバイトは石の台に刻まれた魔法陣の上に鍋を置いていた。杖先でつついてみたり、鍋をゆすったりしている。火のつけ方がわからないのだと気付き、倉田は近くの赤い宝石を裏返した。ぼっと台座に火が灯る。ウバロバイトが小さく礼を言う。
この仕草も、昨日ルブライトがしていたものだ。見て覚えたものだ。それを思い出し、倉田はまた寂しくなった。
ルブライトは、知的で親切な男だった。少し話しただけで別れがこれほどもつらい。だからきっと、辛抱強く育てられたロサはなおさら……。
倉田はロサの方を見やる。
カタン。ウバロバイトの手が滑り、石のカップが倒れた。ロサがぴくりとみじろぎする。
「……ん」
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