第2話 蓮池

「う、うう、ああ、死にたい」


 泥酔した倉田が、おぼつかない足取りで、田舎道を歩く。

 街灯がぽつりぽつりあるだけで、片方を水田、他方を雑木林に挟まれ、道は薄暗い。遠くに駅前のあかりが霞んでいる。


「おえ、うぐう」


 悪心に耐えられなくなった倉田が、口を押さえてうつむく。農道の真ん中で吐くのは気が引けた。倉田はせり上がる酒に耐えながら、雑木林に分け入っていった。


 げえええ! げぼ、ゴホゴホ!


 月の光も入らない、真っ暗な雑木林。倉田は思いきり吐瀉物をまき散らす。

 一通り吐いて、吐いて、むせてから、大きくため息する。吐くみたいに呟く。


「あああ、死にてえ……」


 霞んだ目で顔を上げる。雑木林は暗すぎて、もう前も後ろもわからない。

 倉田はてきとうに歩き出す。


「もう疲れた。いやだ。何も考えたくない。死にてえ」


 一瞬母の葬儀のことが倉田の頭をよぎったが、その辛さを乗り越える間も与えられず、会社に使い潰される日々に戻る。そんなのに耐えられる気がしなかった。


 ぐらぐら揺れる視界。暗くて何も見えない。

 倉田はバランスを崩して膝をついた。


「このまま、しにてえ よ」


 ぎゅうと目を閉じて、ゆっくり開く。


「……?」


 目の前に本が落ちていた。さきほどまではなかったような気もするが、酔っていて気づかなかっただけかもしれない。


 美しい本だった。翡翠色の布張りで、不思議な文様が刻まれている。雑木林は真っ暗なはずなのに、本だけ妙にはっきりと見える。


 倉田は吸い寄せられるように本に触れる。


 すると、視界が開けて光に満ちた。


 驚いた倉田は顔を上げる。

 そこには淡く光る池があった。大きく美しい蓮の花がいくつも浮かび、透明な水底には宝石が転がっている。夏でもないのに蛍が舞っている。


 そして池の中央には、一際大きな蓮の花。そこには、美しい幼女が鎮座していた。


 あまりの美しさに、倉田は言葉を失う。

 景色はもちろんのこと、何より蓮に座る幼女が美しかった。その小さな体よりずっと長いであろう、月を紡いだような髪。なめらかでやわらかそうな肌。凛とした目鼻立ち。閉じられた大きな目。


 瞳は何色なのだろう。


 倉田が思うと同時に、幼女が目を開けた。

 オパールを思わせる、虹色の瞳だ。

 倉田は息を飲む。


 眠たげな瞳で、幼女が微笑む。


 すると倉田の視界が一回転し、暗転し、何も見えなくなった。

 泡の音がする。ごぽごぽと耳をくすぐって、心地いい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る