厄災は目覚めず

饗庭淵

序.

 かつて世界の半分を焼き払ったとされる神話上の災害がある。

 もとは口承のものであるため詳細は不明だが、それはただ「キールニール」と呼ばれている。

 それが史実だとするならば、数千年前になにか大災害が起こったのだろうということになる。が、そのような痕跡は発見されていない。歴史学者や考古学者の見解では、噴煌災害を目の当たりにした当時の人々が世界の終わりを連想し、口伝により話が肥大化していった結果ではないかと推察されている。

 すなわち、それは常識的に考えても虚構フィクションにすぎない。


 だが、凪ノ時代に起こった出来事は紛れもない現実である。

 人類を脅かす厄災。100年以上猛威を振るい、人を殺し街を壊し国を滅ぼした。あるいは地形すらも変え、その痕跡は「大鋭湾」として地図にも残っている。彼はやがて神話上の災害と同一視され「キールニール」と呼ばれた。我々が注釈なしに「キールニール」と呼ぶとき、今やそれは彼のことを指す。


 魔術とはもとより個人の資質によってその能力に大きな差が生じる現象だ。ゆえに、国家は軍を組織するにあたり、指揮階級とは別に魔術階級を用意する。魔術能力の差により戦力に大きな違いが生じ、運用法も変わってくるからだ。

 現在のアイゼル皇国では小さい順に、兵士・衛士・重士・獅士・騎士と区分されている。その実力差は、兵士を数百人から千人ほど揃えてようやく騎士一人に対抗できるかどうか、というほどに離れている。

 むろん、実際にはそこまで単純に換算できるものではなく、それほど力の差があれば兵士側は士気の維持も難しい。騎士一人が兵士数百人を打ち倒すのは難しくとも、逃げるだけなら容易い。ときとして現れる個人にして過剰な魔術能力を有する狂暴犯罪者を捕らえるには、いくら烏合の衆で数を用意しても闇雲に死体を積み上げるだけの結果になりかねない。ゆえに、個人戦力には同程度に高い個人戦力をぶつけるのが基本運用だ。


 キールニールは、そういった枠組みをはるかに逸脱する特異だった。

 現在の皇国最強戦力である騎士団の前身とされる「グラスハドール剣友会」。

 北の帝国シャピアロンにおいて国中から有能な魔術師が集う「魔術師協会」。

 国境を越え、術現時代より刃を研ぎ澄ませていた「17人の英雄」。

 あるいは、ブリュメ王国にてあらゆる人道・倫理を踏み躙りながらも魔術の粋を凝らした悧巧りこう兵器。

 そのすべてが、彼を前には烏合の衆に過ぎなかった。

 たった一人の魔術師を前に、国家はかつての諍いを忘れ、手を取り合いながら、総力を挙げて彼に挑んだが、惨劇だけが繰り返された。


 彼の名を呼ぶことは最大の禁忌とされた。彼は叡海干渉魔術師であったイニアの右腕を食らい、〈言霊支配〉という固有魔術を奪っていたからだ。彼はその魔術をもって、「自らの名が呼ばれるたびに力が増す」という法則ルールを組み上げた。当時の彼はまだ力に飢えていた。

 だが、彼はそれが大きな失敗だったことに気づく。度を越した力は彼に退屈をもたらした。誰も彼もが彼に抗うことすら諦め始めていた。彼を崇拝し彼に殺されることを望む宗教団体「グロウネイシス」の登場は、そのことを端的に示していた。グロウネイシスは彼の名を積極的に唱え続けたし、彼に敵対する勢力の排除までし始めた。彼は自らを崇拝するものなど求めてはいない。彼が求めていたのは彼に底なしの憎悪を向ける敵だった。なにより、グロウネイシスはあまりに彼の趣味に合わなかった。彼はできるだけ無視していたが、煩わしさが許容値を超えたため、のちにグロウネイシスを地上から消し飛ばしている。

 彼は人類を諦めさせないため工夫を凝らすことにした。グロウネイシスの存在は不快ではあったが、彼にアイデアも与えた。グロウネイシスの排斥に人類が活気を取り戻していることに気づいたからだ。すなわち、勝てそうな敵なら戦うという選択も生じる。まずは勝てそうな相手を用意しなければならない。

 生体要塞・喰城の建造もその一環である。「彼には勝てないかもしれない。だが、喰城なら――」そんな小目標を人類に与えた。本拠地ということにしてあるので、喰城の攻略は彼にとって打撃となりうるはずだ、という口実も与えた。

 あるいは、隠れて跡を尾けていたつもりでいた女を捕らえた。彼女は「魔族アイダ」を名乗った。はじめこそ挑んできたが、手加減を誤ればすぐに壊れてしまいかねない脆い存在だった。叩き、蹴り、地を這わせ、彼女はやがて泣きながら許しを請うた。そして、彼女はキールニールへの従属を誓った。グロウネイシスのように彼を崇拝し、彼の趣味には合わない女だったが、彼女は手ごろな魔術戦力を有していた。彼には足元にも及ばないが、人類相手ならおそらくほどよい。彼女を部下として取り入ることも、人類に適度な小目標を与えることになるだろう。


 ――あまりに楽観が過ぎた。

 喰城にも、アイダにも、人類の牙は届かなかった。

 彼が思った以上に人類は弱すぎた。疲弊しすぎていた。もはや失望しかなかった。いつしか、グロウネイシスのように人類同士で足を引っ張り合う光景も頻繁に見られるようになった。彼らはもう敵にはなりえない。

 ゆえに、彼は眠った。「飽きた」「1000年経ったら起きるから」そう言い残して、自らに封印魔術を施した。

 残された人類は呆然としながら、その対処に追われた。封印状態にある彼に対して考えうるかぎりの火力をぶつけ、封印ごと殺そうともした。もちろん、なんの意味もなかった。よって、より厳重な封印を上から重ね掛けすることにした。彼自身の封印魔術より強力なものはどうあってもあり得なかったが、少しでも気休めが欲しかった。

 アイゼル、シャピアロン、エンベル、エルシャリオン、トラハディーン、ローレシア、エクリプス、アルトニア、螺旋巻ねじまき。九ヵ国がそれぞれに、当時最高水準の封印を施した。その内容はそれぞれの国家で現在も機密扱いに指定されている。

 そして、封印体は深海の底へと沈められた。


 もう一つ、封印しなければならないのは彼自身だけではない。

 彼の名もまた、この地上から抹消しなければならなかった。誰かが彼の名を口にするだけで彼の力はさらに増してしまうからだ。

 大規模な超国家計画。あらゆる国々から最高の魔術師が集い、イニアの遺体を媒介に多重術式を組み上げ、〈言霊支配〉の疑似叡海干渉魔術を発動させた。それは、すべての生物記憶・文献記録・術式から彼の名を抹消するものである。

 もう二度と彼の名が口にされることはなくなり、彼の名を知ることすらできぬように。

 その結果、現在残っている当時の文献で彼の名が記されているものは、得体のしれぬ黒塗りとなり、決して復元できない状態になっている。

 ただ、その魔術はあまりに巨大すぎた。人類が焦りすぎていたためでもあるし、実証試験が不足していたためでもある。それは人類に制御しきれるものではなかった。その影響は意図した範囲に留まらず、あらゆる知識、あらゆる記憶に混乱をもたらした。

 結果、人類の歴史に大きな空白が生じる。これを「イニアの断絶」と呼ぶ。凪ノ時代の終わりが400年前に過ぎないにもかかわらず考古学の領域に属するのはこのためである。


 彼――キールニールは今も、大海溝の底で眠っている。

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