終.
岡島は第二艦隊軍港より潜水艇に搭乗し、その現場へと向かっていた。
暗い海の中を進む。魔動力の断続的な重い音だけが響く。搭乗員の心もみな、深く暗く沈んでいた。艇内は沈黙に包まれていた。
そこには、直視しがたい惨状が広がっていた。
第四皇子の計画は順調だった。
ことはすべて彼の思惑通りに進んでいた。
「400年前。我々の祖先は、棺を海溝の底へ沈めてしまえばそれでもう安心だと思った。少なくともキールニールが目覚めるそのときまで、だれも棺に触れることは叶わぬと。それは甘い見通しだった。
だが、祖先を責めることはできない。常識とは更新され続けるもの。まさか深海の底に手が届く日が来るなど思いも寄らなかったのだろう。魔工業に通じていた僕は、10年以上前から、技術的にその暗き底へ人類が踏み入る日もそう遠くないと気づいてしまった。
その予感は、今こうして実証された。もはや目を逸らしてはならない。我々は再び棺を前にした。600年後の子孫のため、我々は今、できることを、すべきことをしなければならない」
彼の主張にはだいぶ無理があるように思われたが、現に棺が引き上げられてしまった以上受け入れざるを得なかった。それは脳震盪を引き起こすほど強烈な「論より証拠」だった。
「独断で棺を引き上げるなど信じがたい暴挙だ」
「いつかは向き合わなければならない問題? ずいぶんと強引に向き合わされたものだ」
「あの皇子は狂っている。正気じゃない。だが、こうなってしまった以上は応じるほかないだろう」
各国の反応はだいたいこのようなものだ。
九ヵ国封印の更新のため各国は最高の魔術師を招集せざるを得なかったし、自然な流れとしてアイゼルがこれを主導した。それらは煩雑な事務手続きを必要としたが、それらの工程は驚くほど迅速に執り行われた。シャピアロンが封印施行の際より高い機密性を要求したくらいで、流れは非常に円滑だった。誰もが一刻でも早く、あの忌まわしい棺が地上にあることを忘れたかった。すぐにでも再び棺を沈めてしまいたかったのだ。
今度は深海などではなく、よりもっと深い叡海へ。
第四皇子は近衛ロイを連れて、永続海底研究都市へと棺を運んだ。地殻下を流動する叡海に繋がる調査抗を中継するための都市だ。わざわざ海底に建設されているのは地上より岩盤が薄いためである。創死者の目的のため、共業党主導で建造され、それは第四皇子の利害とも一致した。
そして、彼らは潜水艇で海底都市へ入り、6kmに及ぶ昇降機を降り、叡海深度地下ラグトル調査坑の眼前へ立った。
――おそらく。
棺を投げ入れた結果が、これなのだろう。
永続海底研究都市は、その名も虚しく建造からわずか2年で海の藻屑となった。
今や、その残骸が海底に散らばるばかりである。
本当に棺が原因だったのかはわからない。だが、結果だけ見ればそれは起こってしまった。
海上にまで噴出して見えたという巨大な噴煌は永続海底研究都市を壊滅させ、その場にいた第四皇子や同行していた各国の外交官、都市の職員や警備の軍人など、一人残らず死滅させた。生存者はゼロ。現場を目にして、望みは一欠片もないことを知らしめられた。
誰一人予見していなかった最悪の悲劇が、起こってしまった。
***
「ルール・カティアという男はどこだ!」
「不明です。死亡した可能性もあります」
「死んだ? 死んだだと? やつは不死ではないのか? このふざけた結末の責任はやつにもあるんじゃないのか? ええ?」
「わかりません。第四皇子殿下のご決断は――」
「あの馬鹿め。くそ、大馬鹿者め。いや、我々も同じか。キールニールを舐めていた。この期に及んで舐めすぎていた。まさかこんな……なぜあんなことが起こった?」
「噴煌の発生原理ですら正確なところはわかっていません。今回の事件で既存理論の大幅な見直しも考えられるくらいです。常に穴が開放されている調査坑では圧力がかからないため噴煌の危険性はないというのが専門家の見解でした。封印建材の投下実験などはすでに何度か行われていますが、目立った変化は観測されませんでした」
「こうなる危険性が万が一にも予見できていたなら、あの馬鹿を現場に立ち会わせるなどしなかったものを……。レイティリス魔工はなんといっている?」
「彼らを責めることはできません。海底の水圧に耐えるため都市はかなり頑強に設計されていました。万が一の事故が発生した際にも、緊急脱出手段やダメージコントロールの用意もありました。しかし……」
「もうよい。棺は? 棺はどうだ? どうなっている?」
「第二艦隊が海底を隈なく探索していますが、現在まで見つかっていません。叡海深度へ繋がる竪穴も埋まっています。おそらく、叡海への投下自体は実行され、どこか叡海を漂っているのではないかと」
最悪の場合、噴煌に巻き込まれどこか遠くへ飛ばされた可能性も考えられたが、岡島は今の第三皇子にそれを告げることはできなかった。
「そうか。なるほど。一応、あの馬鹿の企み自体は成功したと。で、その状態でキールニールが目覚めたらどうなる?」
「まったくの未知数です」
「そうだな。なにもわかっていなかった。なにもわかっていなかったというのに、我々は、熱に浮かされたように、あの馬鹿の思いつきに乗っかって、根拠のない妄想に……」
ガエルは歯噛みした。怒りか悔いか哀しみか、その名すらわからぬ感情に焦がされ、向ける相手もわからずにいた。
「いずれにせよ、あの馬鹿は望み通り歴史に名を遺したな。それがよいのか悪いのか、どちらとも判断はつかないがな!」
「……もう一つ、心当たりがあります。私は今からそこへ向かいます」
***
その人物は、かつては家族と共に皇都で大きな邸宅を構えていた。
今はヴァント州の片隅にある小さな町で、小さな家に移り住んで静かに暮らしている。
「あ、岡島さん。こんにちわ。どうぞ中へいらしてください」
訪ねたのはラガルド・ユーサリアン私邸。迎えたのはその妻リニム・ユーサリアンだった。
「夫にご用件だとは思いますが、あいにく留守でして。少し前に誰からか〈伝書鳩〉を受け取ってから出かけて、それっきりです」
「その差出人や、向かった先など心当たりはありますか」
「そうですね……。その日は、いつもは異なる姿で出かけていました。えっと、ご存知ですよね?」
「あ、はい。固有魔術〈変容〉ですね」
岡島は少し驚く。
ゲフィオン=ユーサリアンは人間ではない。
創死者デュメジルによって生み出された魔術生命、
人間を遥かに超える魔力、不死に近い生命力を持つ。彼はその主の命に従い、軍で将軍の地位まで登り詰め人間社会に潜入していた。
その彼にとって、彼女との結婚はあくまで身分偽装を目的にしたものに過ぎないはずだ。その相手にここまで包み隠していないものかと意外だったのだ。
ただ、すでに正体は公にバレてしまっているのだし、考えてもみれば当然ではあったのだが。
「それはどのような姿だったでしょうか」
「若い男性です。モデルがあるのか、彼の造形センスによるものかはわかりませんが、鼻筋がキリッと通っていて……顔立ちも普段とはずいぶん違っていましたので、ドキッとしてしまいました」
「なるほど。単に若返った姿でもないと。他にはありますか? たとえば、そうですね。カティアと名乗る男に心当たりなどは?」
「カティアさん、ですか。はい。たしか、三か月ほど前ですね。そのような方が訪れました。ルール・カティアと、そのように」
「失礼ですが、ラガルド氏とどのようなお話をされていたかは?」
「それについては存じ上げません。ただ、夫は彼のことを“師の旧友”だと紹介してくれました。外見上は夫より若そうでしたが、まあ、あの方にとって姿は自在に変えられるものですしね」
「ありがとうございます。ラガルド氏は、実のところその彼と共に行方不明になっているのです」
「まあ」と、思わず大きく空けてしまった口元を手で覆いながら。「まさか駆け落ちですか。浮気ですか。それはさすがに許せませんね」
「いえ、そういうことではなく……」
夫であるゲフィオンと違い、彼女はただ夫の帰りを待つだけの一人の女性に過ぎない。「死亡した可能性がある」などと告げるのは岡島にも躊躇われた。すべてを話すにしても事情が込み入りすぎていた。
「とにかく、我々は彼の行方を追っています。必ず見つけますのでご安心を」
「お願いします。いったいどこで遊んでいるんでしょうね」
奥方は上品に笑む。それは信頼によるものか。彼がまさか死ぬなどとは夢にも思っていないのだろう。
岡島が礼をして立ち去り、その背を見送った後、リニム・ユーサリアンの姿はぐにゃりと歪み、変質した。代わりに現れたのはラガルド・ユーサリアンその人だった。
「なんだ、俺と浮気で駆け落ちって」
家の奥から、カティアが姿を現した。
「岡島がすっかり騙されているのがおかしくて、つい悪戯心が芽生えまして」
「あのですね、岡島さんからの私の心証も悪くなってしまうんですからね」
さらに姿を現したのは本物のユーサリアン夫人だ。
「お前が嘘をつくのが苦手だというから代わりに私が出たんだ。私も人を騙すのは心が痛む」
「ならゲフィオン。なにも彼をこんな形で追い返すこともなかったんじゃないか?」ツッコミを入れるのはカティアだ。
「いーや、カティア。彼はあなたに“協力する”と申し出ておきながら、なにもしなかったんですよ。聞けば“白”を誘い込むために利用したと。それにちゃっかり棺も回収。そんな薄情ものはこのくらいがちょうどよいでしょう」
「しかし、お前もあの男に因縁があるとは知らなかったな」
「なにかと説明のややこしい関係ですけどね」
「それよりも、どうするんだい?」口を挟むのは生首のぺスタだ。「永続海底研究都市は壊滅したって。棺も行方不明。ずいぶん酷い事態になってしまったけど」
彼らがアイダの残り火で生死を彷徨っている間、事態はかなり悪い方向へと進行していた。
彼らですら、これは想像もしていなかった結末だった。
「……我々には時間がある。なにか手を打たねばなるまい」
「俺は〈塔〉を目指す」
そう切り出すのはカティアだ。
「〈塔〉、ですか。かつて父もそこへ辿り着いたと」
「らしいな。そこへ至るまでの条件はまったくわからんが、キールニールの行方を探るにはそこしかあるまい」
「もう発たれるのですか?」
「いつまでも居候というわけにもいかないからな」
そうして、ルール・カティアは旅立った。
厄災は目覚めず 饗庭淵 @aebafuti
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