22.
「ずいぶん急だな。どうした?」
岡島は〈風の噂〉の友人ロギンに会っていた。彼はあいかわらずベレー帽を深く被っている。
緊急ゆえ人気のない路地で、壁を背に立ちながら。
「だいぶ不在がちだったようだな。長官はずいぶん怪しんでいたよ」
「それは都合がいい。さて、用件のみで悪いが頼みがある」
「内容によるな」
「俺はこれからヒステミス霊山脈に向かう。そのことを噂として、それとなく局内に流してほしい」
「ふむ……?」ロギンは首を傾げる。「よくわからんな。それだけか?」
対し、岡島は少し考える。
「……いや、それで十分だ。頼む」
「そういう意図のわからん頼みごとは困るな。発信源は俺とわからない方がよいのか?」
「任せるよ」
「お前が自分から話したということは?」
「どちらでもよい、が、いずれ気づかれることだ」
「気づかれる? 誰に?」疑問符を浮かべながらも、その答えにロギンは自ら閃く。「……罠のつもりか?」
「そんなところだ」
「誘いにしても、さすがにあからさますぎないか?」
「来ればよし、来なければよし、だ」
「そうか。だが、さすがに“タダで”というわけにはいかんな」
「以前、レンシュタインの疑惑について聞いてきたよな。あれに関する情報がある」
「ほう?」
「ただ、まあ、どうにも説明が難しい。今は話せない。ことが上手くいけば話せるようになる」
「思わせぶりだな。口から出任せじゃないだろうな」
「そこは信頼してくれ」
「ふうん。ま、適当にやるさ」
***
山の中腹。開けた場所。色とりどりの花々が咲き乱れ、風が吹き花びらが舞う。そこは天国すら思わせる花畑にも見えた。
だがその実態は、邪悪なるものアイダの本拠地。
彼女は追い詰められていた。
アイダは翼を広げた。黒い炎の、二対の翼。
睨み合いが続く。二人の男がアイダの前後を囲む。そのうえ、背後の男はアイダにとって未知の戦力だった。
〈邪悪タコ〉を瞬殺したことからも、かなりの強者。〈消憶〉が通用しないことからも100年以上の歴戦。
心当たりがない。正体がわからない。
わかるのは、カティアにとって彼こそが隠し玉であり切り札。それで勝てるつもりでいること。
仮に彼の戦力がカティアと同程度で、カティア二人を同時に相手にするとなれば――敗北の可能性は否定できない。
あってはならない。アイダは構えた。背を丸め、前傾姿勢をとる。後手に回るのは得策ではない。
「
赤く染められた鋭い爪で、掬い上げるように遠隔爪撃を繰り出す。標的は眼前のカティア。彼の戦力ならわかっている。だから、まずは彼から潰す。
躱される。その動きをあらかじめ読んで放った二撃目はたしかにカティアを捉えた。
そして背後。この隙に仕掛けてくるはずだと読んで、翼を大きく広げ、斬り裂くように振り向く――!
「なっ」
双剣の男はただ静かに立っていた。気負いもなく、ただ静かに。アイダが振り向くのを確認してから無造作に剣を振る。遠隔斬撃――避けるのは容易い。ただ、過ぎ去る凄まじい風圧が身を裂くかのようだった。
その動きはあからさまな囮。彼があの程度で死ぬはずがない。
すなわち、カティア。直撃の間際に刀で防いでいた。それでも傷はついた。巨大な猛獣にじゃれつかれたかの生々しい爪痕が身を抉っていた。
しかし、カティアは怯まず向かってくる。上段に大きく刀を振りかぶって。
「
唐竹。岩をも砕く剣。アイダは黒い翼を重ねてこれを受ける。衝撃に、空気が震えた。
翼は斬れない。なぜなら岩より硬いから。だが、刀とはそもそも押して斬るものではない。
「
カティアは刀を引く。するり、と翼が斬り裂かれ、その斬撃は貫通しアイダの頭部から鎖骨にかけてを薄く皮膚に傷をつけた。功を奏したのは、その直線上に左眼が含まれていたこと。致命には程遠い一撃、しかし致命へと繋がりかねない一撃。
「あぐっ!」
背を、双剣で斬られていた。X字に深い切創が刻まれ、鮮血が散る。
「くそが!」
一回転。翼で殴りつける。
命中。男は彼方へと飛ばされていく。回転の勢いのまま追い打ちに爪撃。これも命中。男はズタボロに引き裂かれた。
「
休む間もなくカティアの刀が、心臓へ向かって突き出される。
アイダはそれを、両の手で掴む。掴んで止めてみせた。刃を、素手で。
鋭い刀身を素手で掴めば、当然斬れる。刃は上を向いている。血で滑る。ずるずると、その刃は心臓へと向かっていく。切っ先が胸骨を小突いた。
窮地。心臓を刃が貫くまであと一歩。地を突き破って出でる触手が、カティアの肩と腹を貫いた。カティアを勝利から引き剥がしていく。
「〈邪悪タコ〉くん、ふっか~つ」
切り刻まれ三分割された魔獣。しかし、その程度では死なぬようできている。争いの裏で、魔獣はひっそりと零れた身体を拾い集め、元の形へ戻っていた。ただそれだけで復活する。生命の再現には程遠いでたらめだからだ。
「ほらほら、不死身! カティアくん親近感湧くでしょ?」
カティアは自身を貫いた触手を斬り払った。奥深くまで食らいついた触手の先を引き抜く。斬り離され、打ち捨てられたあとも、それは蚯蚓のように這い回った。
魔獣本体は触手を地に刺し、植物のように根を張っていた。
斬られた痕もまだ残っている。かろうじて形を保っているかのようだ。あらゆる生物をごちゃ混ぜにした禍々しい姿。なによりも嫌悪感を催すのは人の顔だ。見えるだけでも七つ、苦痛に歪んでいる。一度斬り刻まれたことで内側から漏れ出たのだろう。
「その魔獣、人も混ざっているな」
「んー? なんのこと?」
「なぜ人を混ぜた」
「ただの飾りだよぉ。鳴き声も欲しかったし。えーんえーんって」
はあ、とカティアは軽くため息をつく。
「いかにも陽気に飄々と振る舞って見せても、貴様の根っこはただの駄々っ子。寂しがりだ。それでいて臆病。人間に構って欲しいが、反撃も怖い。だから〈消憶〉の影に隠れて魔獣遊びで満足したつもりになっている」
「なにそれ。挑発のつもり? 〈消憶〉なんて捨ててかかって来いって? だっさ!」
「哀れな女。キールニールの言いつけを守ることもできずに、かといって無視することもできない。彼が目覚めたなら、お前は真っ先に捨てられるだろうな」
「ふーん。あっそ。私を貶して溜飲下がった? 失望したなぁ。カティアくんそんなので気持ちよくなっちゃう人なんだ。タコくんの方がよっぽどかっこいいよ! ほら!」
魔獣〈邪悪タコ〉。
あれでなにがタコなのかと思っていた矢先、蛸の漏斗にも似た排泄口からなにかが飛び出してくる。
卵だ。一つ、二つ、三つ。計八つ。次々に吐き出されていく。白くやや細長い瑞々しい卵は、胎動していた。
すぐに殻が破れ、産まれる。大型犬サイズの、蛸のような生き物。あるいはヒトデ。触腕は棘に覆われている。
いずれにせよ、それは生まれながらに殺意の本能を持ち、カティアに襲ってきた。
「カティアくんって子供つくれないんだったよね。代わりにつくってあげたよ!」
跳びかかってくる醜悪な落とし仔を、カティアは斬り落としていく。斬る。斬る。斬る。だが、いくら斬っても、斬られた落とし仔は半身のまま蠢き、再び結合する。節操なく、それは元の半身同士ともかぎらない。そして、すぐさまカティアに群がっていく。払いきれず、脚に組みつかれる。脛を齧られる。文字通りに、汚い咀嚼音を立てて貪っていく。
「そぉら」
アイダが急接近。右のハイキック。隙だらけの左側頭部を蹴り抜く。
――はずだった。
「あれ?」
右脚が、足首の先からなくなっていた。ぽとり、と、それは地に落ちる。カティアに隙などなかった。アイダは構えられていた刀に向かって蹴りを打った形になる。
「なっ、うそ、なんで」
爆発音。巨大な火柱が上がり、肉塊が飛び散る。醜悪なる魔獣〈邪悪タコ〉は消し炭になっていた。
仕掛けたのは双剣の男。先の攻撃で少なくとも重傷までは与えていたはずの男は、無傷。服は破れ、血はついている。幻だったわけではない。だが、傷はない。男はなにごともなかったかのように立っていた。
「……な、んなんだてめーは! いったい誰なんだ!」平静を失ったアイダは口調が荒れる。「〈17人の英雄〉は! 残らず死んだ! 誰なんだよお前は!」
「業炎」
アイダが狼狽える裏で、カティアは広域炎熱魔術を発動。自らを巻き込みながらも、仔の群れを一斉に焼き尽くす。カティアはこの程度では死なない。一方で、群がる魔獣は焼け死ぬ。キー、キーと金切り声のような悲鳴を上げながら、その命を終える。
双剣の男は、復帰したカティアに目配せをする。応じて、カティアは首を横に振った。
「ふむん。このまま黙ってた方が面白そうだから、教えない方針でいくそうだ」
「はあ!?」
二人はじりじりと間合いを詰める。
アイダの表情に余裕はない。敗北を予感していた。粘ついた汗が額を伝った。
そのなかで、アイダは斬り落とされた自らの右足を鼠の魔獣に拾わせ運ばせていた。足元で接合させ、骨針で固定する。このまま安静にしていれば三日ほどで癒着するだろう。
一連の動作は意図的に見せた隙だ。だが、敵は誘いには乗ってこない。
アイダにとって、カティアはいくら遊んでも壊れない玩具だった。だが今は、その壊れにくさが恨めしい。双剣の男も同程度には頑丈だ。時間さえあれば、〈邪悪タコ〉は今一度復活する。だが、彼ら相手では長引くほど不利になるだろう。
双剣の男が動く。距離をとったまま、放つは――
「天雷」
魔術雲より落ちる雷撃魔術。アイダにこれは直撃。全身の神経、細胞を焼き切るような痺れ。
アイダはこれをあえて受けた。決着を狙って近づいてくるのを待った。しかし、来るのは双剣の男一人。彼らは一発逆転を常に警戒し、同時には仕掛けてこない。やむを得ずアイダは、一人を相手に奥の手を出さざるを得なかった。
「
黒鉄の長槍がアイダを中心にして放射状に召喚される。さながら棘皮。男は回避が間に合わず、うち5本によって刺し穿たれた。肩、胸、腕、腹、脚――人間ならば致命傷だ。肺や肝臓、重要な臓器をいくつかを貫いている。
しかし男は、まるで意に介していなかった。罠がある可能性を考慮しながら、罠を発動させるために突っかけてきたのだ。それでもなお、「死にはしない」という自負がゆえに。
身体中を槍で貫かれながら、血を吐き垂らしながらも、死からほど遠い存在がそこにはいた。
その男にとっては、さすがに致命傷に近い、身動きのとれぬほどの損傷。だが、しかし。
その喉の奥に、なにか得体の知れないものが潜んでいたのだ。
「天雷」
喉の奥に潜むなにものかが放ったのは、まさかの同じ手。だが有効だった。先の痺れはまだ切れてはいない。さらに加えられ蓄えられた雷撃の痺れは、アイダを指の先まで動きを奪った。
黒槍は一時の夢。役割を追えれば露と消える。
すなわちそれは、カティアからアイダへの道が、綺麗に開かれたことを意味した。
「
刃を上に向けた刀の刺突が、アイダの右腹部を背から貫く。
「あっぐ……ぁ!」
終わらない。ここから止めを刺す。
「
斬り上げ。腎臓を貫き、肝臓を両断し、肋骨を斬り進み、肺に刃が通る。道はやがて鎖骨へ至り、ついに刀身は、肩から抜ける。
アイダの身は、血飛沫を上げ、白い肋骨を露わにしながら、裂けていった。
そして、重さを忘れたように、倒れ、伏す。
顔は苦しみ悶え、焦点すら合わず、もはやまともに呼吸もできていない。打ち上げられた魚のようにぴくぴくと痙攣するのみ。確実な致命傷。勝負は決した。
「か、ひゅ、ひゅー……、ぁ、ひ」
カティアはそれを見下ろす。口を開けば神経を逆撫でする憎まれ口ばかりを叩き、暇さえあれば醜悪なる魔獣を生み出し、ときに気まぐれで人里へ放つ。享楽奔放、それでいて誰にも咎められない魔術があった。
その悪魔をついに斃した。ついに。
一人では成し遂げられなかった。すべては彼のおかげだ。
黒槍に身体中を貫かれながらも、彼は再び立ち上がっていた。
「終わった、ようですね。ルール・カティア」
「いや――」
まだ終わってはいない。まだアイダには息がある。息があるかぎり油断はできない。
――と、己を諫めるのが、少しばかり遅かった。
死を待つばかりだったアイダは、震える左手で簡易な術式を描いていた。ここはアイダの魔術工房。それで十分。それだけで、あらかじめ地中へ施してあった術式が起動する。
黒い炎が、地を走った。それは円を描き、文字を記し、巨大な術式を形づくっていった。
その意味に、カティアは気づく。
「退け! ゲフィオン!」
自爆。工房全体を崩壊させ、すべてを焼滅させる黒炎の渦。
ヒステミス霊山脈に、人知れず巨大な魔術爆炎が上がった。
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