第8話「法律ではなくて」
「あああああ……なんてことしちまったんだあああ……」
婚約から一晩経った朝、浪はベッドでのたうち回り、うめき声をあげていた。
それはもちろん、殴られた痛みからではなく、婚約に関わることで苦悩してのことである。
虚勢であるつもりはなかったが、勢いの力を借りてしまったのは事実である。出会ったばかりなのに、ワンシーンで婚約を決めてしまってよかったかと不安にも思うし、女性に告白してしまった自分を、顔から火が出るくらいに恥ずかしくも思うのだった。
相手のセレイナも子供だが、浪だってまだ高校生の子供である。元いた世界では収入もないし、この世界においては家すらない、身元不明の無職なのだ。養うどころか、自分一人の生活ですら怪しい状況で、結婚などあり得るのだろうか。
この世界では12才で成人の儀式を行うようで、14才のセレイナは一応成人していることになる。互いに結婚できる年齢ではあるのだが、平均からはまだ若いほうに入るという。
「とりあえず、仕事探すしかないよなあ……」
今さら婚約を取り消すことはできないし、それがなくても、この世界に生きていくためにお金が必要だった。
朝食はセレイナの父親と3人の食卓であった。
パンに目玉焼きというシンプルな食事であり、慎ましさが感じられる。
少女の父親レナルドとは、殴られて以降はじめて顔を合わせるのだが、彼は厳めしい顔をして、一言も口を開こうとしなかった。怒りが収まっていないのは、誰の目にも明かである。
(き、気まずい……)
母親はセレイナが小さいときに亡くなっていると言う。レナルドが母親代わりを務めていることもあり、セレイナに対する愛情は並々ならぬものであった。娘を妻に代わって立派に育てることを、己の責務と思っていたのが、急にどこの馬の骨とも知れない男に奪われるのだから、怒りを拳で示してしまうのも仕方ない。
朝食は張り詰めた緊張に包まれ、食べるものは味もしないし、なかなか喉を通っていかなかった。このままではいけないと思い、浪は勇気を振り絞って話しかけようとするが、浪がしゃべろうとすると、立ち上がってわざわざ遠くの皿を取ったり、不自然なセキやうなり声を出したりして、浪に話しかけられないようにしていた。
結局、レナルドは何もしゃべらないまま出かけてしまう。家具職人をしていて、朝早くから夜遅くまで工房で働いているらしい。そんなに裕福な家庭ではないのに、家の家具がしっかりしているのはそのためで、すべてレナルドが自作したものであった。
浪は緊張から解放されたことに安堵するが、こんなことを毎日続けているわけにはいかない、どこかでしっかり話さなければと思う。とはいえ、取り付く島がないため、どうすべきか答えが見えない。
「あの、ローさん……」
朝食を片付け終わったセレイナが、控えめなトーンで話しかけてくる。
「ん、どうした?」
「あの……私に何かいただけないのでしょうか……?」
「え、何か?」
(何だっけ? 何か渡す約束してたか?)
この世界に来てからの記憶を辿ってみるが、誰かに何かを渡すような約束をした覚えがなかった。
「あ……もしかしてご存じないですか? ここでは、婚約したら大切なものを交換し合うことになっているんです」
「あ、そうなんだ」
それでもじもじしていたわけかと、浪は合点がいく。
「それも法律?」
「いえ、これは違います。習慣とか風習みたいなものです」
「ほー、さすがにそこまでは決まってないか。それには、何か言い伝えみたいなのがあるの?」
「はい。でも、そんなにロマンチックではないんです。二人が一緒になるに当たって、互いに大切なものを差し出すことで、その誓いはどれくらい本気であるかを示すために始まったって言います」
「けっこう現実的な話なんだな……」
「はは……。この町の人は疑り深かったのかもしれませんね」
裏切らないことを証明できるくらい大事なものが要求されるということだった。しかし、異世界に来てしまった浪は、ほとんどものを持っていない。今あるものでそれに値するものは何かと、浪は思案に暮れる。
(大事なもの、大事なもの……。サイフは違うよな。学生証も違うし……。ハンカチとかどうでもいいし……めんたいこのキャラは……ないな)
「今はろくなもの持ってないんだけど……」
「あ、そんなに重く考えないでください。この風習も形式的なものですから」
「と言ってもなあ……」
「私は何をもらっても嬉しいと思います。ローさんが持ってるものをもらえるなんて、ローさんの一部を共有できるみたいで、なんだかワクワクします!」
浪は無邪気に笑うセレイナを見てはにかむ。この子はなんていい子なんだろうと、抱きしめたくなってしまう可愛さだったのだ。
「そうだな……。じゃあ、これはどうだろう」
浪は鞄からお守りを取り出す。この世界に来る前、神社で買ったばかりのものである。
「これ、何ですか? 初めて見ます」
「これはお守りといって……えっとなんて言うのかな……。人の願いを叶えてくれるもの? かな」
「えー、そうなんですか!? お願いを叶えてくれるなんて、すごいですっ!」
(間違った説明じゃなかったと思うけど、そこまで喜ぶようなものじゃないよな……)
「私、嬉しいです! お守り、大切にしますね!」
「ああ、俺も喜んでくれて嬉しいよ」
(学業お守りだけど、まあ何かしら御利益あるだろ……)
もっと万能なお願いを叶えてくれるお守りだったら良かったのにと思うが、来年の受験に備えて買ったものなのだから仕方ない。
「私からはこれを差し上げます」
差し出されたセレイナの手のひらには、ネックレスが乗っている。
特に飾りはなく、金属のチェーンでできた普通のネックレスである。
「あんまりすごいものじゃないんですけど……受け取ってくれませんか?」
「もらっていいのか? 大切なものなんじゃないの?」
「大切なものですよ? だからもらってほしいんです」
「いや、まあそうだけど……」
この世界ではどういうものか分からないが、ネックレスや指輪など身につけるものは高級なものだったり、気持ちがこもっていたりするものが多い。それを受け取っていいのか浪は躊躇してしまう。
「これ、母の形見なんです。母がずっと着けてたもので、私にとって一番大切なんです……。将来結婚するとき、大好きな人に渡すんだろうなあと、ぼんやり思ってました」
セレイナは少女らしい夢語りを恥ずかしく思って、てへっと笑ってみせる。
浪は抱きしめたいような、頭をなでてやりたいような衝動に駆られつつも、セレイナのネックレスに対する品が学業お守りで、非常に心苦しく思ってしまう。
「そっか。分かった、大切にするよ」
「はい! 私もローさんにもらったもの、肌身離さず、一生大切にしますねっ!」
セレイナの屈託のない笑顔に、浪の心はさらに締め付けられるのであった。
「そうだ。それ、着けてあげますね」
セレイナは浪の後ろに回って、ネックレスを首に着けてくれる。
首に腕を回される、この上ないこっぱずかしさに浪は赤面する。だが、着け方を知らないので甘んじて受けるしかなかった。
「ロ―さんにもらったのは……紐を付け替えれば首から提げられそうですね。それで、私たち、おそろいです!」
セレイナは自信に満ちた顔をして、首元に浪からもらったお守りをあてがってみせる。
もはやその可愛いらしさに抵抗することはできず、浪はついに衝動的にセレイナを抱きしめてしまう。
「はわっ。どうかしましたか?」
セレイナは急なことに驚いているが、動じている様子はなかった。おそらく、浪が抱きしめた意味合いを理解していないのだろう。
「あ、いやなんでもない。ちょっとつまづいちゃって……」
「そうですか。床がちょっとデコボコしてるところもあるので、気をつけてくださいね」
自分だけが暴走しているようで恥ずかしく思う。浪は自分自身に強く自重を呼びかける。
「あ、そうだ。町を案内してくれないか? まだあんまり詳しくなくって」
「いいですよ。買い物もありますし、ちょっと出かけましょうか。ふふ、初デートですね」
少女の笑みに心を打ち抜かれてしまったのは言うまでもない。
浪はセレイナのガイドで町のあちこちを回った。
町のメインストリート、繁華街、行政局や司法局などのお役所。セレイナが買い物する場所、散歩する場所、好きな場所。父レナルドの工房などなど。
浪が町案内を頼んだのは、この町で生活するためにいろいろ知っておく必要があったのと、仕事になりそうなものを探すためだった。そして、それとは別に、もう一つ重要な目的があった。
指輪を購入するためである。さすがにネックレスとお守りの交換では釣り合いが取れないし、結婚のときに渡すものと言えば指輪である。自分が夫としてふさわしい人間かはおいといて、指輪くらいプレゼントしなければ、形すら夫になれないと思ったのであった。
浪は、夕飯の支度のため家に戻るセレイナに、もう少し町を見て回ると告げ、一人で行動することにした。
「指輪ってどこで売ってるんだ……?」
一人になった浪は、さっそく困難にぶち当たっていた。
元いた世界でさえ、高校生の浪は指輪をどこで買っていいのか分からないのに、この世界でどうにかなるわけがなかった。
といっても、セレイナにそれを聞くわけにはいかないので、なんとか自力で見つけようと町をさまよい歩く。
「あっ、ローじゃん! お久しぶりー!」
ある商店街をぶらついていると、聞いたことのある明るい声に話しかけられる。
「ノエミか」
黒猫の少女ノエミ。久しぶりといっても、昨日会っていないだけで一日ぶりである。
「何やってんの、こんなところでー?」
「ちょっと買い物だよ」
「へー? ここらへん高級店ばっかだけど、何買うの?」
「うっさいな、なんでもいいだろ。それより、お前は何やってんだよ」
「何ってお仕事だけど?」
「仕事? どういう仕事やってるんだ?」
「これこれ」
ノエミは肩から提げた大きな鞄を得意げに見せる。
「何だそれ?」
「お手紙だよ、お手紙!」
「あー、郵便か」
「そうそう、あたし郵便屋さんなんだー!」
つば付き帽子に大きな肩掛けの鞄。確かに、郵便配達員に見えなくもない格好だった。
「ってお前、歩いて配達してんの? これだけ広い町、大変だろ?」
「まあ大変っちゃ大変だけど、あたし足速いからねー。塀でも屋根でも飛び越せるし、配達速度は町一番って自信あるよ!」
ノエミは猫のような、人間とは並外れた運動能力を持った獣人だった。浪もその素早さをうらやましいと思ったことがある。
毎日町を駆け回るのは、彼女にとって天職なのかもしれない。
「お前、この町詳しいんだよな。……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「うん、お店ならほとんど知ってると思うよ。何探してるの?」
「指輪なんだけど、どこで買えるんだ?」
「指輪なら宝石店かな。すぐ近くにあるよー。でも、ローってそんなにお金持ってたっけ? めっちゃくちゃ高いよ?」
「あ……」
なぜそんな簡単なことに思いつかなかったのだろう。指輪は元いた世界でも高級品だ。高校生の浪が買える代物ではない。
「なあ、安く買える店はないのか?」
「安くねえ……。指輪どうするの? プレゼント用?」
「ま、まあな……」
「人にあげるなら、ちゃんとしたもののがいいよね。とするとー、鍛冶屋さんで作ってもらうのがいいかな?」
「鍛冶屋? それってオーダーメイドってこと? 高くないのか?」
「宝石とか、綺麗な金属使わなければそんなでもないよ。ただの輪っかだしね」
オーダーメイドが高いというイメージは、大量生産品と比べての話である。工場や機械が発達するまでは大量生産ができなかったため、オーダーメイドが当たり前だった。もちろん作り置きして販売することも多いが、基本的には無駄のないよう、注文があってから作るのである。
この世界ではまだ技術は発展中であり、組織的にものを大量生産する仕組みは作られていなかった。
「あー、でも、そもそもお金が……」
浪はまだこの町で使えるお金を持っていなかった。仕事をしてお金を稼いでから、指輪を作ってもらうことになるだろう。
「やっぱお金ないんだー?」
「うっせーな。この町のを持ってないだけだっつうの」
「あ、そういうことか。ローは旅人なんだっけね。ローの持ってるお金、見せて見せて~」
ノエミにせがまれ、浪はサイフから硬貨を取り出す。もちろん紙幣のが価値は高いが、この世界ではただの紙切れだろうから、出さずにしまっておく。
「へえ、よくできてるコインだねー。これが日本ってとこのお金? こんな精巧なの見たことないよー。鍛冶屋さんなら、これ嬉しがるんじゃない?」
「そうなのか?」
「うん、きっと珍しがって買い取ってくれるかも。それで、指輪ぐらい作ってくれるじゃないかな」
「お! ほんとか!」
「うんうん。あたしだって欲しいもん」
「じゃあ、ノエミが買い取ってくれよ」
知らない鍛冶屋に交渉するより、顔なじみのノエミからお金を得られればそれが一番楽なのだ。
「えー、あたし貧乏だしー」
「ちょっとでもいいからさ、頼むよ。指輪が作れるぐらいで」
「うう、そんなこと言われても困るよ……。あたし、給料すっごく低いんだもん」
ノエミが貧乏なのは浪も知っていたので、あまり強くは出られず、硬貨の買い取りは諦めることになる。
代わりに鍛冶屋の場所を聞き出し、結果として指輪は作ってもらえることになった。ノエミの言う通り、鍛冶屋のオヤジは日本のお金を喜んで買い取ってくれ、指輪製作を引き受けてくれたのだ。受け取りは数日後となった。
「ただいま」
浪が家に戻ってくると、辺りはすっかり暗くなっていた。
ドアを開けると、大きな影が立ちはだかっている。鬼、いや悪魔の形相をしたひげ男。
それがセレイナの父レナルドであると認識した瞬間には、浪は殴り飛ばされて地面に転がっていた。
「ぶっ殺してやる!!!」
浪に殴られる覚えはあるが、レナルドの気迫は昨日とは比べものにならない。言葉の通り、メラメラとした殺意のオーラが湧きたって見えるようだった。
「てめえのせいでセレイナがあああ!」
「ちょっ、ちょっとやめてください! セレイナが、セレイナがどうかしたんですか!?」
レナルドに怒る理由はあるが、その怒りが常軌を逸しているため、尋常では事態が起きているのはすぐに分かる。
浪はレナルドの蹴りをかわして、何が起きたのかを問う。
「警察に連れていかれちまったんだああああ!」
「警察に? どうして?」
「ぬああにいい!? 貴様のせいだろうがあああ!」
(俺のせい?)
レナルドの攻撃を回避しそこね、重い一撃を受けた浪は再び地面に転がる。
「ぐはあっ……。いったい……何があったってんですか……」
「セレイナが、セレイナがああ……死刑になっちまうんだよおおおお!!!」
レナルドの咆哮が夕暮れの静かな町に響き渡った。
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