第6話「許す法、許されざる法」

 浪が目を覚ますと、ノエミの姿はなかった。

 ほとんど壁のない荒れ果てた家で、浪一人が粗末な床に寝ていたのである。


「ノエミは……? ……夢、じゃないよな?」


 狐に騙されたような状況である。この場合、猫であるが。

 この異世界に来てしまったこと自体が夢だったらいいのにと思うが、さすがにそれはなかった。辺りを見回すと、ノエミの家と同様に崩れかけた家ばかりが見える。日本にこういう風景はなかなかないだろう。

 では、ノエミに助けられたのも夢だったんだろうか。

 ノエミの気配は感じられなかったが、代わりにノエミの来ていたワンピースが毛布代わりに掛けられていた。ノエミが裸の上に着ていたものだと思うと、浪は気恥ずかしくなる。

 

「ノエミの奴、どこへ行ったんだ?」


 仕事に出かけたのだろうか。それとも、謝罪は済んだともう浪を見放してどこかに行ってしまったのだろうか。

 どちらにしても、浪は一人で行動しなければならないようだった。ここはどこなのか、日本にどうやったら戻れるのかを調べなければならない。

しかし、浪一人でそれができるのかとても不安だった。まずどこから探ればよいのか、まったく見当もつかなかったのである。


「いい奴なんだけどなあ。ちょっと頭は弱そうだけど」


 浪の前に立ちはだかる大きな困難は、なんと言っても人間は何かを食べなければ生きていけないことである。

 浪はノエミが昨夜やっていたように床板をはがす。すると下には木箱が収められていて、浪はそこから干し肉を取り出すとかじりついた。

勝手に食べてしまって悪いとは思うが、腹が減っているのだから致し方ない。食べた分のお返しにと、日本から持ち込んだ駄菓子の一部を代わりに詰めておく。


「もったいない気はするけど、しょうがないよな」


 駄菓子も非常食にはなるので残しておきたい。しかし、一宿二飯の恩義を返さないわけにはいかなかった。


行く当てもないが、町ならば何か情報が集まるかもしれないと思い、昨夜ノエミと通った道を反対に歩くことにした。

置き手紙をして出かけようと思ったが、浪はこの世界の文字を読めなかったし、書けなかったので断念することになる。


「ま、夜になったら戻るか。奴には悪いが、飯をたからせてもらおう」




 昨日通った道を引き返しているだけのはずだが、夜と昼とではまったく雰囲気が違う。迷子は覚悟の上で、目印となるものを確認しながら、町の中心部を目指して歩いた。

 広場にさしかかったところで、浪は見知った顔と遭遇する。といっても、浪のいた世界の人間ではなく、この世界の人間である。


(しまったあああああ…!!!)


 それは司法騎士団に所属する青年騎士ショウ。

 浪を牢屋に閉じ込めた人物であり、浪がもっとも会いたくない存在である。見つかったら再び逮捕されて、牢獄に戻されるに違いない。ノエミの協力で牢から脱出したといって、別に安心できる状態ではなかったのである。

 見つからないように迂回しようとするが、不幸なことに、怪しい行動を取る者を見逃せる人間ではなかった。


「確か、ローと言ったか」

「あ、はい……」


 この場から逃げ出したいが、逃げ出したら余計不利になるだろうから、浪は蛇ににらまれたカエルのように大人しくなっている。


「そんなに怯えなくていい。私は君を捕まえることはできない」

「え? どういうことですか?」

「まず、我ら司法騎士団に逮捕する権限がない。逮捕は警察にすべて任されているのだ」

「はあ、そうなんですね。仕事分担かなんかですか?」

「そうだな。それはいい答えだ。一人の者が多くの仕事を抱えすぎては、様々なところで支障を来すから、そうすることになっている」

「たくさんやるのは大変ですからね」

「ふっ、君は面白い答えをするな」

「え、そうですか……?」


 ごく当たり前のように答えただけなのに、そう言われるのは心外であった。それに、どちらかというとあまり興味のない話題であった。


「仕事を分担するのは、権限を集中しすぎないようにするためだ。多くの者で分け合うことにより、特定の組織や一人の人間の思い通りに、行政や司法を進められないようにしているのだよ」

「強すぎる人を作らないようにってこと?」

「正解。司法騎士団が法律を作り、その法律によって人を逮捕して、そのまま裁判で裁けるようになったら、司法騎士団だけで国や人を取り締まることができてしまう。そうならないために、仕事を分けているのだよ」

「はあ……そういうことですか」


 小難しくて分からないところもあるが、妙に説得力のあるしゃべり方にうなずくしかなかった。


「それで、君を逮捕できないもう一つの理由だ。何だと思う?」

「えっと…………しばる縄を忘れた、とか?」

「ふはははは! そいつはいい、傑作だな」


(ウケを狙うつもりはなかったんだが……)


「先ほども言った通り、私には逮捕する権限がない。だから縄は不要なのだ。正解を言うと、これもれっきとした法律によって、君を逮捕できない」

「法律?」


 浪はうんざりという顔をする。どうしてこう法律ばかり、自分に絡んでくるのだろう。元いた世界でも当然たくさんの法律はあったが、普段の生活に影響が出ることはなかったのに。


「君は牢屋から逃げ、再び捕まるかも知れないと思ったから、怯えたのではないかね?」

「はい、そうですけど……」

「実は脱獄は合法なのだよ」

「はあっ!? 合法? 脱獄が!? なんで!? やっちゃいけないことだろ!?」


 脱獄は当然悪いことだと思っていたので、浪は度肝を抜かれてしまう。浪にとっては、脱獄が許されているほうがいいのだが、ついその正当さについて詰問してしまう。


「ふっ、そう思うのも当然だ。人は悪いことをするから逮捕される。だから、悪い人を逃がすのは良くないことだ。しかし、考え方を変えてみてほしい。悪いことをした立場、つまり君だが、逮捕された人は牢獄にいるとき、どう思うだろうか?」

「あ……。つらかったです。どうしてこんなところにいるんだろうって。早く出たいと思ってました」

「そうだな。そして、君はそれを実際に実行し、脱獄したわけだ。君は非常に正しいことした」


 脱獄が正しいと言われても、なんだかむずがゆい気がする。


「人というは、自分の思いを実現するために生きている。こうなりたい、あれがやりたいという夢を持ち、その自己実現、その好奇心を満たすための行動であれば、許すべきであるというのが、この法律の趣旨である」

「つまり……どういうことですか……?」

「人間は牢獄に閉じ込められれば、当然逃げ出したいという気持ちになる。それはいくら法律であろうと制限することはできないということだ」

「え、でもそれでいいんですか……?」


 脱獄したいから脱獄させてもいい、というのでは逮捕した意味が全くないのである。そんな本末転倒な法律、必要なのだろうか。


「無論、我々には逮捕した者を牢に入れ、改心させるという職務がある。だから、いくら囚人が脱獄しようと考えていようと、そうさせまいと監視し、脱獄を阻止するために、いかなる手段をも執ることができるのだ」

「要は……脱獄しようとするのは勝手だが全力でぶっつぶす、ということですか……?」

「ふむ、簡単に言うとそういうことになるな。忘れてはならないのが、脱獄に失敗した者にはさらなる重罰が科せられる。脱獄を試みる者は、そのリスクを天秤にかけて行動せねばなるまい」


(なんだそりゃ……。その法律、意味なくね?)


「しかし、君は見事脱獄に成功してみせた。だから、君はもう自由だ。もはや何にも縛られることはない」

「そうか……俺はそういう意味では助かったのか……。これで罪はなくなったんだよな? もう逮捕されないんだよな?」

「ああ、もちろんだ。君の罪で発行された逮捕状はすでに執行された。だから、もう同じ事件で、その罪を問われることはない」

「おお、そうかっ! そうだったのかっ! なんだー、俺は自由かあ! いやあ、世話になったな、騎士団の人!」

「ふっ、同じことは繰り返すなよ。つまらぬことで逮捕されては、互いに嫌な思いをするだけだからな」


 ショウは浪が急に礼を失するしゃべり方になっても、それに気を留めることなく、浪が自由の身になったことを喜んでくれた。


「じゃあ、またな! いや、もう会うことはねえな!」

「ふっ、そう願いたいところだ」


 自由になったことで気分が晴れ、気が大きくなった浪はどしどしと大股で歩いて行く。


「あ、ちょっと待った!」


 いい気分になっていたところを呼び止められて、浪はむっとした顔をする。


「何だよ。もう俺に関わる理由がないだろ」

「すまないな。大切な用を忘れていた。この地図の家を訪ねてくれ。君に会いたいそうだ」

「俺に? なんで?」


 この世界に知り合いはノエミしかいない。ノエミがショウに伝言を頼んだのだろうか。その家で待ち合わせをしようということかもしれない。何の用があるのか、見当もつかないが。


「ああ、分かった。地図のここに行けばいいんだな?」


 ショウが渡した紙には、町の簡単な地図が書かれていて、ある場所に丸がついていた。浪は今いる場所をショウに確認して、行き方を検討する。


「まあ、なんとかなるかな」


 GPS地図に慣れているので、紙の地図で知らない町を歩くのは初めての経験である。


「迷ったら司法局を訪れるとよい。私が案内しよう」

「ああ、助かるよ」


(ま、司法局がどこかなんて知らないんだけどな)


「それでは失礼する。君に幸あらんことを」


 そう言うとショウは微笑して去っていった。


「なんだよ、それ。気取ってんのか」


 浪はショウのそういうところが好きになれなかった。その原因はもしかすると、ひがみや嫉妬があるかもしれない。かっこよく、サマになっているのが気にくわないのである。




 浪は地図を見ながら、迷子になりつつも目的地に着くことができた。

 町の中心部から少し離れたところだが、ノエミの家に比べれば遠くなく、ボロでもない。ごく普通な庶民の家といった感じである。


「ここだな。こんなところに呼び出して、何なんだろうな」


 浪は「すみません」と言って、木のドアをノックする。

 しかし、反応はなかった。


「いないのか? 中で待たせてもらうか。入りますよー」


 ドアには鍵が掛かっておらず、簡単に開いた。

ドアを押し開けると、鬼のような形相をした男が立ちはだかっている。ひげ面のガタイのいい中年男性。当然、浪には見覚えのない顔である。

友好的でないのは明らかで、浪は一歩あとずさってしまう。


「え、誰? ノエミの……」


 ノエミの知り合いか尋ねようとしたところ、巨大な拳が浪の顔面にたたき込まれる。

 浪は吹っ飛ばされ、受け身を取ることもできず、無様に地面に倒れ込んだ。


「ぐはっ……。なんだ、いきなり……」


 中年の男はとどめを刺さんという気迫で、浪にゆっくりと近づいてくる。

その目にはかなり強烈な怒りが込められているが、浪には誰かに恨まれるような覚えはない。


(殺される……!?)


「くそっ……」


 逃げようとするが、頭を殴られ意識が朦朧として、思い通りに体が動かない。

浪が地面を這いずっている間にも、男はどんどん距離を縮めてきていた。

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