第5話「黒猫ノエミ」

「ちょっとおにーさん」


 浪は女性の声で目を覚ました。


「……ん、ノエミか……?」


 すっかり暗くなっていて、明かり窓からは月明かりが漏れている。

 体を起こし、声のする方を向くと、明かり窓から黒猫のノエミが中をのぞき込んでいた。


「やほー、元気?」

「元気じゃねえよ。この床、堅すぎるだろ。体がいてえ……」


 浪は立ち上がって背伸びをする。石の床に寝ていたため、体はあまり休まった感じがしなかったが、頭痛はすっかりきれいになくなっていた。

 凝り固まった体をひねりつつ辺りを確認してみたが、看守は不在のようだった。


「あはは、それは災難だったね」

「ああ、ほんとついてねえ、牢屋で夜を過ごすになるとか、考えたこともなかったよ」

「あ、その話で来たんだけど、助けてあげようか?」

「助ける? ここから出してくれんのか?」

「うんうん、そうそう」

「ありがてえっ!」


 あまりの喜びに大声になってしまった。声を聞かれてないかと周りを見回すが、人の気配はなく静寂のままだった。


「ふふ、喜んでくれて嬉しいよ。こうなっちゃったのも、あたしのせいだしね」

「ノエミのせい? どうして?」

「ほら、あたしがローの前を横切っちゃったから」

「あー」


 そんなことあったなと思い出す。ノエミは、黒猫が横切ったら不幸になるという言い伝えの話をしているようだ。


「いやいや、それはないから……」

「えっ!? これは黒猫の呪いだよ、間違いないって」

「この町、黒服着てるとダメらしいぞ。俺がそれを知らなかったから捕まっただけで、ノエミは関係ないだろ」

「それを含めて不幸って言うんだってー。そんな罪で捕まった人聞いたことないよ」


(看守もそんなこと言ってたっけか。……まさかな)


 考えたところで、その因果関係を証明することはできそうにないので、浪は頭をすぐに切り換える。


「それで、ここからどうやって出るんだ? この牢屋、けっこう見張り多かったぞ。外に出るまでに捕まっちまうよ」

「ううん、見張りがいるところは通らないから大丈夫。ここから逃げるよ」


 ノエミは明かり窓の鉄格子を指でコンコンと叩く。


「それ、外れるのか?」

「うん。ほら」と、ノエミは鉄の棒を簡単に引き抜いて見せる。


「なんで外れんだよ……」

「ふふ、前に入ったときに、ちょっと小細工してねー」

「前? 捕まったことあるのか? 何かしでかしたのかよ?」

「あはは。まあ、いろいろだよ、いろいろー」


 ノエミはテヒヒと笑ってみせる。

 明るく振る舞っているが、もしかしたら何か事情があるようにも感じた。牢屋に入った理由なんて聞くことじゃない。浪は深くは触れないことにした。


「ほら、手延ばして」


 鉄格子をすべて抜き取ったノエミは、頭を牢屋の中へと出していた。

 浪には月明かりに照らされたノエミが輝いて、救いの女神のように見えた。


「ああ、ありがとう」


 浪はためらうことなく、光が差す方向に手を伸ばした。




 浪はノエミの助けによって、無事牢獄から脱出することができた。

 どこにいく当てもないので、浪はとりあえずノエミの家にいくことになる。この世界には街灯がないため、月明かりと、家々から漏れる灯火を頼りに歩くしかなかった。はじめは心許ない感じがしたが、慣れれば夜道も悪いものではなかった。

 ちょっと肌寒かったが、上着を着てはまた捕まってしまうので諦める。


「って、ここどこだよ!? 灯りが全然ないぞ……」


 ノエミは町の中心部から離れていき、民家の数がどんどん減っていく。それに伴い、灯りも減るわけで、土地感のない浪は一転して不安が募っていく。


「あたしが住んでるの、町の外れだからねー」


 ノエミとはぐれたら二度と出会えない気がして、浪はノエミにぴったりくっついて歩いた。


「手つなぐ?」とノエミはからかうように言う。

「つながねーよ」


 本当はつないでもらったほうがいいと思うのだが、これはプライドの問題だった。年の近い女性に手をつないでもらって道案内とは、あまりにも恥ずかしい。


「よくこんな暗いところ歩けるな」

「あたし、夜目が利くからねー。猫だし」

「ああ……そうだったな。便利なんだな」

「まあね。普通の人より、鼻も利くし、体も軽し、いろいろ役に立つよー」

「へえ、うらやましいもんだな」


 警官に捕まったとき、ノエミは一瞬にして姿を消していた。あの身軽さは、手に入るものなら欲しいものである。浪はお世辞なしにそう思った。


 完全に町から離れ、漆黒の闇に包まれた道を歩く。30分ほどくらい経っただろうか、ようやくノエミの家に着くことができた。


「え……ここがお前の家?」

「そーだよ! 入って入って!」


 それは、とうてい家とは言えない代物であった。

 一応、屋根はあるが壁はほとんどなく、かなり風通しがよい家であった。

言ってしまえば、牢屋のほうがまだマシである。建物自体は石造りで頑丈そうなのだが、壁はぶち抜かれ、外と隔てるものがなくなってしまっている。

元はしっかりとした建物だったが、老朽化や地震などで壊れてしまったのかもしれない。


「好きなところ座ってー」


 そう言われても、家の中にはどこに座ればいいと判断できる場所がなかった。地面の上に、木の板が敷かれてはいるが、ところどころがささくれ立っていたり、割れていたりして、あまり質のいいものではなかった。そして、いろんなガラクタが転がっていて、座るスペースを確保できない。ノエミが普段、この家のどこで座ったり寝たりしているのか、想像できなかった。


「お、お前、何してんだよ……!?」


 浪は思わず叫んでしまっていた。

どこに座ろうか悩み、室内を物色していると、奥でノエミが服を脱ぎ始めていたのだった。


「何って、着替えだけど?」

「こんなところで着替えるなよ!」

「そんなこと言われてもなぁ。ここしかないし」


 確かにそうだった。この家には仕切りという概念がなく、部屋にどこにいても、相手の居場所が分かる。着替えは常に丸見えなのである。

 赤面する浪は着替えを見ないように顔をそらして、傍らに人無きが若しのノエミに忠告する。


「男がいんだから、ちょっとは気をつかえよ……」

「え? あたしは気にしないけど?」

「俺が気にするっつーの!」

「じゃあ、後ろでも向いてて」


 他にできることはなく、浪は言われた通りに壁のほうを向いて座った。

 ノエミは浪の存在を気にせず、服をすべて脱ぎ、丸裸になってしまう。そして、部屋を渡して張ってあるロープにかかった服を取り、頭からかぶる。おそらく寝間着なのだろう、簡素で飾り気のないワンピースであった。


「お待たせー」

「ああ」


 そう言って浪が振り向くが、すぐに顔をそらすことになる。

ノエミの着たワンピースは首元が大変ゆるく、不意に胸が見えてしまったのだった。


「どうかした?」

「な、なんでもない……」


(部屋着だからと言ってラフ過ぎないか……?)


 浪はのぞき込んでくるノエミの顔を直視できない。


「そういえば、バッグを拾っといたよ。これ、ローのでしょ?」


 ノエミは浪に鞄を手渡す。

 鞄にはめんたいこのマスコットキャラクターがついている。


「俺の鞄! そっか、あそこに置きっぱだったのか。あいつらに取られなくてよかった。ありがとな、ノエミ」


 鞄がこの世界に持ち込むことのできた全財産である。これを失ったら、さすがにこの世界でどうやって生きていっていいか分からないし、元の世界に戻ったときも地味に困る。


「ねえ、バッグに入ってるのってガム?」

「お前、中見たのかよ。いや、別にいいけど。ガムを知っているのか?」


 見られて困るものは特になかったし、ノエミにはその価値もよく分からないだろう。それよりも、ノエミがガムを知っていることに興味を覚えた。


「うん、知ってる知ってるー。実際に見るのは初めてだけどね」

「へー、この世界にもガムがあるんだな。ガムって珍しいものなのか?」

「珍しいねー、あたしみたいな貧乏人には、一生縁のないものだよ」


 この家とその服を見るに、ノエミがあまりいい生活をしていないのはすぐに分かる。浪のいた世界と比べれば劣るが、町の人たちはそれなりにしっかりした家だったし、服も上質なものを着ていた。

それに部屋の様子を見る限り、家族はおらず、一人で暮らしのようであった。


「ガム持ってるってことは、ローは金持ちなのか?」

「そんなことないって。俺のいたところでは、子供でも買える安物だ」

「えー、そうなんだー! いいな、いいなー! ガムなんてこの世に存在しないんじゃないかと思ってたよ!」


 大げさなと、浪はあきれてしまう。


「一個やるよ」

「えっ、いいの!?」

「こんなの、元の世界に戻ればいくらでも買えるから。それに、今日は助けてもらったからな」

「わあ! ありがとう! ローはいい人だ!」


 満面の笑みで感謝されると、照れてしまう。なるべく動じてないように振る舞おうとするが、自然と顔が崩れてしまう浪であった。

 鞄から板ガムを出して、一枚をノエミにあげる。


「一生の宝物だよ! 大切にするね!」

「いや、食べろよ……。ダメになるぞ」

「いいの、いいの! もったいないからとっとく!」

「まあ、いいけどさ」


 ノエミはワンピースのポケットにガムをしまい込む。


「それにしても、今日はごめんね」

「ん? なんのこと?」

「ほら、横切っちゃったってやつ。捕まったのはあたしのせいだよね……」


 大喜びから一転して、しょんぼりとした声になるノエミ。


「いやいや、さっきも言ったけど、そんなわけないじゃん。偶然だよ、偶然」

「そうかなぁ」

「ノエミが横切っただけで不幸になるんだったら、人間みんな不幸になってるつうの」

「うーん、そっか」


 ノエミは首をかしげて考え込んでいる。あまり納得はできていないようだ。


「そういえば、あのとき、なんで横切っていいか聞いてきたんだ? わざわざ聞くことじゃないだろ?」

「ああ、あれはね、法律で決まってるからだよ」

「法律?」


 また法律かと、浪は怪訝な表情を取って警戒する。


「そう、法律。黒猫が横切ると不幸になっちゃうから、横切るときはちゃんと確認をしなければならない、って」

「なんだそりゃ……。普通ないだろ、そんな法律」

「あはは。あたしも変だなーとは思ってたんだけど、ほんとに不幸になるなら、確認しなきゃなあってね」

「よく分からんなあ……。これまでに横切ったことあるのか?」

「ううん。今日が初めて」

「え、なんで俺にやろうとしたの……?」

「いやーほらさー、なんか許可してくるような気がしたんだよね」

「なんだそりゃ……」


 葬式のとき以外に黒服を着てはいけないぐらいのいい加減な法律だと思うし、不幸になるとは信じていないが、なぜ自分で試したんだと、浪はあまりいい気はしない。


「確認しないで横切るのは違法なのか?」

「うん、違法。さすがに普通の黒猫は捕まったりしないけど、あたしみたいな獣人はすぐアウトだねー。牢屋に連れていかれちゃう」

「ああ、そうなんだ。ってことは、黒猫が不幸になるってのはやっぱ嘘か?」

「え、なんで? 違法なんだよ?」

「普通の黒猫は捕まらないんだろ? 町歩いてりゃすぐ横切られちまう黒猫が許されるんだから、横切ったところで特に何も起きないってことだよ」

「ああ、なるほどねー! ロー頭いい! え、でも、待って。なんであたしたちはダメなんだろ?」


 そこら辺にいる普通の黒猫は横切っても逮捕されない。でも、ノエミのような獣人には逮捕される。この違いは一体なんだろうか。猫に言葉は通じないから、法律を聞かせても無駄だからか。それとも、猫が横切っても不幸にならないが、獣人の猫が横切ったら不幸になってしまうからなのだろうか……。


「そもそも、なんで確認すれば横切っていいんだ? 仮にほんとに不幸になるとしたら、横切らせちゃダメだろ?」

「あー確かにー。んー、どうしてかな。……たぶんだけど、イエスと答える人がいないからかな」

「え?」

「黒猫が横切ったら不幸になるというのは、この国では有名な話なんだよ。だから、不幸になるかもしれないのに、わざわざイエスと答える人はいないってこと。不吉なことをわざわざしたくないでしょ?

「まあ、そうだな」


 やはり黒服の件と同じかもしれない。わざわざ気分が暗くなったり、不吉なことを招いたりしないという考えから生まれた法律なのかもしれない。


「それは当然やらないでしょー、っていうジョークみたいなものかな?」


(誰もやらないから大丈夫ってことか。でも、それだと、横切ったら不幸になるのか、ただの伝説なのか、判断つかないよな……)


 ぐううううう……。

 浪の思考を遮るように、お腹の音が響き渡る。


「あ……そういや、何も喰ってなかったな」


 考えてみれば、この世界に来てから何も食べていなかった。何時間食べてないか、正確な時間は分からないが、半日は経っているように思えた。


「じゃあ、なんかご馳走するよ」


 そう言うとノエミは床板をはがし始める。どうやら食料など、大切なものは床下に隠してあるようだった。 干し肉の塊を取り出し、ナイフで数きれを切り取る。


「あたし特製の干し肉! おいしいよ!」

「ビーフジャーキーみたいなものか。ありがと」


 これはいいと思って、さっそく一きれを口に運ぶ。


「うん、うんうん。ん? んん、んー……」


 声の色とともに浪の表情が変わっていく。


「ん、おいしくなかった?」

「いや、悪くはないんだけど、ちょっと味が薄いかなーって」


 はじめは悪くないと思ったのだが、味がすぐに薄くなっていき、仕舞いには味がなくなってしまった。濃厚な味がするビーフジャーキーを想像していたので、期待は大きく裏切られてしまったのだ。


「ああ、そっかー。うち、あんまり調味料買えないから、他の家庭より味がしないのかも。ごめんね……」

「いやいや、そんなことないって。充分いける! 噛めば噛むほど味が出てくるし!」


 ノエミは貧乏なのだ。その話はできるだけ避けるべきだと、浪は慌ててカバーする。それにご馳走になっていてまずいとは、おこがましい話である。


「そっか、よかった! 特別にもっと食べていいよ!」


 ノエミからするとけっこう高価なご馳走なのかもしれない。あまり食べ過ぎると悪いと思ったけど、まさに背に腹は代えられない状態である。腹が減っているのだから、多少味の劣るものでもどんどんお腹に入ってしまった。


 人間、腹が満たされると安心するもので、浪は急な眠気に襲われる。食べてすぐ寝てしまうのはノエミに悪いので、なんとか抵抗を試みるが、うつらうつらと頭が振り子のように揺れ動く。

 そして完全に睡魔に敗北すると、前のめりに倒れ込んでしまう。ノエミはおっとっとと、浪を地面にぶつかる直前で抱き起こす。


「あらあら寝ちゃってるや」


ノエミは浪に並ぶようにして壁にもたれかかると、浪を自らの膝へ誘導する。浪に膝枕をしてあげたのだった。


「おやすみ、ロー」

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