自殺願望者②
「あ、あのぅ……」
「何?」
「ここ、は?」
「見て分からない? 屋上よ」
その声には心なしか刺がある。
確かに彼女の言う通り、ここは紛れもなく校舎の屋上だった。高いフェンスに囲まれた何もない空間。頭上へ視線を上げれば空が一段と近く、燃えるような赤に目が眩む。階下を見やれば、圧倒的なその高さに思わず足が竦む。
三鷹は口の端をぎゅっと固く引き結んだ。そして、煽る風に怯えながら智夜子に問う。
「自殺スポットって……ここ、ですか?」
「見て分からない?」
彼女は再度、同じ抑揚で言った。もう何も聞くまい、と心に決める。その代わり、別の方へ意識を傾けた。
ここから落ちれば楽に死ねるだろうか。脳内でイメージをしてみる。
ふわりと宙へ身を任せ、重力に従って地面へ落ちてゆく。ぐんぐん近づく固い地面に叩きつけられ、柔らかな肉は裂け飛び散り、砕けた肋骨のせいで臓器に穴が開く。脳の機能が完全に停止し、そこから先はもう夢の中へ。
一瞬だ。どうってことはない。
それなのに……フェンスに掛けた手が震えているのに気がつき、三鷹はその手が智夜子に見られないようそっと隠した。
「ま、前例がないから分からないのだけれど……ここから落ちたとしても骨を折るくらいかしら。打ちどころが悪ければ死ねるでしょうね」
浮かんだイメージは、いとも簡単に打ち壊された。苦虫を噛み潰した顔で三鷹は傍らの智夜子を見やる。
彼女は微笑を湛えて階下を見下ろしていた。その横顔は赤に染まっていて、どの角度からでも文句なしに綺麗だ。綺麗すぎる。呆けてしまいそうになり、三鷹は慌てて階下へと視線を戻した。
「……他に方法はありますか?」
「そんなの、少しは自分で考えなさいな」
手のひらを返すように冷た応えが返ってきた。
しおらしく項垂れる三鷹だが、言われた通りに再度、脳内でいくつかのシュミレーションを浮かべる。しかし、自殺のプロではないので容易に思いつくはずもなく。しばらく唸っていると、見兼ねた智夜子の口が開いた。
「どこまで無知なのかしら。ただ闇雲に漠然と『死にたい』って思っても死ねないのよ」
厳しい言葉だが、そう言ってのける彼女の精神が理解不能だった。死ぬことに寛容で、更にはその手助けまでしようとする。呆気にとられていると、智夜子の溜息を右の耳で感じた。
「いい? 方法は沢山あるの。身体に傷をつける、昏睡状態で高いところから飛び降りる、首をくくる、とかね。ほら、なんとなく知っているでしょ? より確実に死にたいと言うならば、それらを実行してみることをお勧めするわ」
あぁ、なるほど、と三鷹は納得した。どうして、考えになかったのだろう。言われてみれば方法はいくらでもある。だが、睡眠薬もカミソリも縄も、そのどれもが今は手元にない。いざ実行に移そうにも、その材料が足りないので項垂れるしかなかった……のだが、数秒で解決へと導かれた。
「――というわけで、はい」
いきなり紙袋を手渡してくる智夜子。どこから出してきたのか、彼女の手には紙袋なんてなかったはずだ。怪訝にも、三鷹は差し出されたものを受け取った。
「どうせ、何も考えてなかったんでしょう? だから、私が用意してあげたの。自殺セット」
「自殺セット、ですか……」
彼女のネーミングには欠片も捻りがない。フレーズとしてはどこかで聞いたような陽気さだが、言葉を置き換えるだけで不穏、不吉、不謹慎の三拍子が揃ってしまうとはなんと恐ろしいことか。
しかし、異議を唱えるどころかそんな勇気は更々ない三鷹である。大人しく従い、紙袋を覗き込んだ。中には彼女が例に挙げた睡眠薬やカミソリ、その他にも怪しい錠剤の瓶や、ロープ、ナイフなどがひしめいている。
「これは……?」
何やら粉末の入った小瓶を出して訊く。すると、智夜子は澄まして答えた。
「あぁ、別に知らなくていいわよ」
その声には好奇心を掻き立てる悪戯めいたものが含まれていた。伏せられてしまえば気になってしまう。三鷹はまじまじと小瓶を見つめた。
「そうね……劇薬って言えばいいかしら」
どうやって入手したのかは、訊かないでおこうと三鷹はその小瓶を紙袋へ仕舞った。
「それらをどう使うかは、あなたの自由よ」
彼女は腕を組んで静かに見据えた。その目に、ごくりと喉を鳴らす。三鷹は再び袋の中身を見つめた。
どれも危険なものばかりだ。さて、どうしたものか……
「………」
――危険、だって?
唐突に飛び出したその言葉に、くつくつと自嘲がこみ上げてくる。今から自分は死のうとしてるのに、『危険』だと考えるなんておかしい。滑稽じゃないか。
三鷹は笑いを押し殺し、紙袋から智夜子へと視線を移した。
「どの方法が一番楽なんでしょうか」
「そうねぇ……睡眠薬が無難かしら。眠ったまま死ねるじゃない? 朦朧としたままふらふらと旅立つ……あら、とても素敵ね」
一理ある。全てを鵜呑みにしたくはなかったのだが、相談室を構えているだけ彼女の言葉には説得力があった。三鷹は言われるまま「睡眠薬」と書かれた瓶を見つめる。
「じゃあ、それにしようかな……」
「そう。それなら、その中にある錠剤を、全部、飲みなさい」
智夜子のゆっくりとした声。甘やかで生ぬるい何かが全身に回る。
三鷹は紙袋の中に指先を這わせ、錠剤の瓶を取り出した。怪しげに光る青い硝子。中身を手のひらに出してみれば、淡いピンク色をした無数の丸い錠剤が転がる。
これを飲めば、すぐに楽な世界へ行けるのだ。何もない世界。自分を否定しない世界。どんなに素晴らしいことだろう――
「………」
「どうしたの?」
智夜子の怪訝な声で我に返った。
気持ちとは裏腹に、三鷹は手を止めたまま大量の錠剤を見つめていた。青い瓶のせいで、ピンク色は紫に見えてしまう。それが如何にも毒々しいのだが、躊躇いはそれが原因ではなかった。
「飲んで眠りながら、落ちてしまえば楽になるわよ」
囁きが耳元を掠めていく。
「あなたの悩みは、いじめられて何もかもが嫌になった。こんな非情な世界で生きたくない。死にたい。死にたくて仕方がない。そうでしょう?」
――そう。僕は死にたい。
しかし、別の誰かがその手を引き止める。鉛玉を引きずっているかのように、それはどんどん重たくなっていく。
――本当に死にたいのか?
死んで楽になれるのならそれにこしたことはない。
毎日毎日、陰口を叩かれ、笑われ、酷いときには殴られたりする。「死ね」なんていつものこと。存在を否定されるのも慣れてしまった。切っ掛けなんて知らない。いつの間にかこうなっていた。クラスの全員が敵だった。ただ勉強をして部活をして、普通の学校生活を送っていくものだと思っていたのに、どうして悪意の的へと陥ったのか。
しかし、痛みはどんどん鈍感になっていく。溜め込んでいく。膨らんでパンクするまで、ぶくぶくと肥大させていく。それなのに、諦めていたはずが溜まっていたもののせいで苦しくなっていく。
「分かって欲しい」「助けて欲しい」と救いを求めてしまうことも定期的で、その繰り返し。負の腫瘍が自信や自身をも蝕んでいき、わけが分からなくなる。生きる意味を問うのも最早、日課だ。頭がおかしくなる。死を決意するなんて。
――僕は楽になりたいだけだ。
だから……死ぬ。
それは果たして正解なのだろうか。ここで人生の負けを認めるのは、緩怠なのではないだろうか。このまま消えてしまってもいいのだろうか。
黙ったまま、手に持った睡眠薬に問う。
しかし、答えるのは脳内にいる「誰か」だった。
――それでいいの?
「……あの」
喉の奥から飛び出した声は、驚くほどに穏やかだった。途端、智夜子の眉が寄る。
三鷹は赤い空気を肺の中へ蓄えると、はっきりと告げた。
「僕、やっぱりやめます」
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