case8:あわせ鏡

あわせ鏡①

 体育館を走る無数のバスケットシューズが、床を踏み鳴らしていく。きゅるりと回転する音の上に、少女たちの荒い息と激しい怒号が響き渡る。

 コート上では激しいプレーが繰り広げられているが、練習試合を行っているのは大会前で空気がひりついている三年生と一部の二年生がメインだ。コート外では、スコア集計係や審判、自主練習に励む一年生部員がいる。

「先輩たち、最近本当に怖いよねぇ」

 隣で腹筋をしていた景子けいこが苦笑交じりに言う。ちょうど、キャプテンの橋田はしだが同チームの二年生を罵倒していた。

「なんで前にもっと出ていかないの! 今のボール絶対取れたよね!」

 きつい言い方に萎縮する二年の先輩を見て、奏美かなみは「そうだね」と小さく返した。

 キャプテンの橋田はいつも怒っている。大会前だからとは言え、ああもヒステリックに怒鳴られれば恐ろしくて動きが鈍ってしまう。

 彼女の怒声は心臓に悪い。奏美は橋田の目につかないように、景子の声を聞き流してトレーニングに励んだ。


 多分、目をつけられたのだろう。

 バスケットボール初心者の奏美は、楽しくスポーツができたらいいと気楽に考えており、軽い気持ちで女子バスケ部へ入部した。

 四月の中頃である。インターハイ出場を懸けた地区予選が控えている真っ最中。三年生の橋田陽花ようかは最初こそ明るく笑う頼もしいキャプテンに見えたのだが……

塚原つかはらさん、ちょっといい?」

 練習終わりに突然、橋田に呼ばれた奏美は女子更衣室の中へ連れて行かれた。

「あのさぁ。あんた、遊びにきてるの?」

「え?」

 低い声音に思わず驚き、目を瞬かせた。その瞬間、橋田の目の色が変わった。

「いや、え? じゃなくて。先輩が聞いてるんだけど。『はい』か『いいえ』で答えてよ」

 腕を組み、壁にもたれて言う橋田。その態度に、奏美は眉をひそめた。

「い、いいえ……」

「ふーん、そうなの? 私、てっきり塚原さんは遊びにきてるんだと思ってたんだけど」

 ゆったりとぬるい空気が狭い更衣室を包む。奏美は気が強い方ではなかった。それに、大して仲が深い相手と一対一で話すことも今までにない。緊張が押し寄せ、橋田から目を逸らした。

「おい、聞いてんのか。話」

 圧が強くなる。その乱暴な言葉に、奏美の体は縮こまった。

「はい……」

「じゃあ返事しろよ。そういうグズグズした態度が一番ムカつくんだよ」

「すみません」

 ロッカーまで後ずさり、奏美は震えた声で懇願した。どうして許しを乞わなくてはいけないのだろう。そんなことを考える余裕もなく、ただただこの場を回避したいがためにひたすら「すみません」と謝った。

 この時から橋田の威圧的な目に、奏美は不安を覚えた。軽い気持ちで入部したことを瞬時に後悔した。

 ――あれで終わればまだ良かったのに……。

「ピーッ!」と試合終了の笛と、タイマーのブザーが鳴り、コート上の動きが止まる。激しい競り合いに疲れた部員たちは天を見上げ、腹を抑え、息を整えようと荒く呼吸する。奏美と景子も立ち上がり、先輩たちへタオルと飲み物を運んだ。

 一年生は基本的に雑用係だ。大会前に指導をする余裕がない。バスケットボール未経験の奏美は自力でルールと基本動作を覚えるしかなかった。

 橋田のチームが固まった場所へバタバタとタオルを持っていく。すると、橋田が2年の先輩の頭を掴んでいるのが見えた。

「ねぇ、どうして指示通りに動かないわけ? あんた、やる気あるの?」

 強い詰問に、奏美だけでなく景子も足を止めてしまった。他の部員も息を切らしながら固唾をのむ。

「そうやって一人で突っ走ってさぁ、迷惑ってわかんないの? 頭回ってんの? ただ走ってついてくだけなら、いらないんだけど。邪魔よ、邪魔!」

「す、すみませんでした!」

 二年の先輩は頭を掴まれたまま、泣きそうに震えた声で言う。その様子に、相手チームだった副キャプテンの山本やまもとが割って入ってきた。

「陽花、もうそれくらいにしてあげて」

 橋田よりも弱いが、すぐさま彼女の手を掴んで止めに入る。

宇美うみだって頑張ってるんだから、そんな言い方しなくてもいいでしょ?」

 全員の前で咎められれば、橋田もわずかに怯んで目を泳がせる。山本は二年の宇美を引き寄せた。

「ほら、陽花も落ち着こう」

「うるさいな。分かってるよ」

 分が悪いと感じたのか、橋田は奏美が持っていたタオルをもぎ取った。そして礼も言わずに体育館の外へ出ていく。

 静まったコートは、ようやく安堵の息を漏らした。

「……はいはい! みんな、ちゃんと水分取ってね。休憩したらストレッチやるよー」

 山本の声に、全員が「はい!」と元気よく返事をする。奏美と景子は目を合わせ、苦笑いを浮かべた。

 こういうことは日常茶飯事だ。橋田の暴挙を山本が止める。しかし、山本がいない場所では緊張感が走る。止めてくれる人がいないから。

 三年生は橋田と山本を含めて四人だが、山本以外で橋田の口と手を塞げるほどの力はない。それが下級生をさらに萎縮させる原因でもあった。

「あーあ。橋田先輩、機嫌悪すぎ……今日はもう触れないようにしないとだねー」

 景子は楽観に言った。コートに散った汗をモップで拭き取る作業をしながら、奏美と景子はヒソヒソと話し合う。もっとも、景子だけが口を開いていたが。

「なんか、うちらが後輩だからってだけであんな態度でかくなくてもよくない? ああいう人には絶対になりたくないわー。山本先輩がキャプテンだったら良かったのに」

「ちょっと、景子! そんなこと聞かれたらどうすんの!」

 彼女の口を塞ぐように言う。しかし、景子はどこ吹く風であり、鼻で笑い飛ばした。

「大丈夫だって。先輩、今外にいるし」

「そうだけど……」

 ――そういう陰口がもしも橋田先輩の耳に入ったら……

 考えるだけでも背筋が凍る。モップの柄をぎゅっと握りしめ、奏美は作業に徹した。こういう些細なことがきっかけで、自分がストレスのはけ口にされる。ビクビクと怯えて過ごす毎日で逃げ場がない。

 それを景子に相談しても取り合ってくれない。彼女は橋田の本性をまだ知らないのだ。軽快にモップを動かす景子を、奏美は恨めしく見つめた。


 ***


「ありがとうございました!」

 コーチへの挨拶を済ませてようやく帰宅が許される。運動部とはこんなにも厳しい世界なのかと最初のころは驚いていたが、二ヶ月も経てば慣れるもの。しかし、気が抜けず休まらないのはどうにも慣れず、家に帰るまでにはどっと疲れが押し寄せて動きたくもない。家に帰って寝ることだけを考えている。

 校門へと一目散。景子は逆方向だから裏門を使う。一人で消え入るように歩いていると、

「あ、塚原ー」

 橋田が奏美を見つけた。大きなサブバッグを肩にかけ、ブレザーのポケットに手を突っ込んで。どう見ても威圧的な態度だった。仕方なく、彼女の元へ小走りに戻る。

「はい……」

「カバン、持ってくれる?」

「……はい」

 大きなサブバッグには、バスケットシューズとボール、Tシャツにバスケットパンツ、サポーターなどなど。それらが詰まっていることを奏美は熟知していた。

『一年生は先輩に荷物を持たせてはいけない』

 そんな暗黙のルールが、何故か下校時にも適用される。中学時代ではあまり上下関係に関わっていなかったこともあって、奏美には「普通」がどういうものか分からない。従順にしていればいい。そうすれば先輩は怒らない。きっと、明日は優しくしてくれるはず。

 淡い期待を浮かべるのが常だった。

 自分のサブバッグと橋田の分を抱えて、彼女らは無言で駅までを歩いていく。

 話すことは特になく、また橋田も話しかけることはない。たまに小言を言われることはあったが、今日はだんまりのままだろうと奏美が気づいたのは駅が見えてきたころだった。

「――じゃ、また明日ね」

 奏美の肩にある自分のバッグをひっつかみ、橋田は愛想のかけらもない声で別れを告げる。

「はい、お疲れ様でした!」

 頭を下げて橋田を見送る。彼女の姿がようやく視界から消え、奏美は「はぁー……」と長い息を吐き出した。胸の奥に塊が詰まっているかのような重みを感じる。

 それをすべて吐き出してしまいたいが、いつもうまくできない。奏美はくるりと踵を返すと駅から出て、ようやく帰路についた。空はすでに暗い。

 こういうことが何度も続けば、気が滅入ってしまう。誰かに相談を持ちかけても「上下関係ってそういうものでしょ」と大して身にならない言葉ばかりが返ってくる。

 景子は特に中学時代からバスケ部だったもので、先輩への関わり方が上手い。同じクラスの友人に話してみても、部活は違えど同じような答えが返ってくる。

「そういうものなのかな……」

 自分が憧れてた先輩後輩の関係というのは、互いに切磋琢磨しあい、先輩は後輩を無条件にかわいがってくれるものだった。そんなものは幻想だったらしい。現実の圧迫感に、体は疲労でいっぱいだ。頭もうまく働かない。

 家に帰り、夕飯もとらずにそのまま部屋へ倒れ込んだ。悶々と頭の中は悩みで膨らんでいく。

 きつい。つらい。楽しくない。体も痛い。いつまで経っても状況が変わらない。

 大会が終わるまでこのままなのだろうか。橋田たちが引退するまでこのままなのか。

 もういっそのこと辞めてしまおうか。

 楽しくない部活にいつまでもい続ける方がよくない。

 でも、学校内で橋田に会ったら気まずいだろう。それに、結局は抜け出せない気がする。

 これ以上に立場が悪くなったら? 日常の学校生活だけが唯一の安全地帯なのに、今度はそこにまで踏み込んできたら?

 やっぱり抜け出せないのかもしれない。

 奏美はゆっくり起き上がると、乱れた髪の毛を手ぐしで直しながら学習机に目を向けた。棚には教科書とノートを挿しているが、その中でクリアファイルが一枚だけ、場違いな雰囲気をかもし出している。

 奏美はそのクリアファイルをそっとつまみ、引き抜く。薄いピンク色のファイルには、小さな紙が一枚――白紙の退部届がある。

 取り出さず、ぼんやりと眺めて、またもため息を吐き出した。どうにもならないもどかしさが、ファイルに落ちていく。


 ***


 翌日も朝練のランニングから始まって、体力づくりに励むだけ。ボールを触ることはない。先輩たちは体育館のコートでストレッチをした後に三対三でのハーフゲーム。時間が惜しいのだろう。大会にこだわるのはいいが、一年への対応があまりにも悪いように思える。

「景子は不満に思わないの?」

 ランニングを終えた後、奏美は思わず訊いた。Tシャツの首周りをつまんでパタパタあおぐ景子は「うーん」と困ったように笑う。

「まぁ、ね。でもそういうものだし。私も中学のときはそうだったし」

「でも……」

「今は体力づくりが先だよ。奏美は初心者なんだし、ゆっくり気長にやってかないと。基礎ができなきゃ怪我もするしね」

「うーん……」

 それはそうだが、入部してまだシュートの練習だってしていない。パスもドリブルも。景子は経験者だからという理由で、たまに二年の中に混ざって練習をしているようだが、自分にはまったく声がかからない。隠れて練習してもいいが、橋田に見つかればなんと言いがかりをつけられるか分からない。それに、下校時間も決まっているので自主練習をするのは難しい。

 入部して二ヶ月、筋肉と持久力がついただけで特に何もしていない。

 途端に奏美の脳内で「退部」の文字がちらついた。


 授業が終わればすぐに部活。今日の練習メニューはなんだろう、と考えるより先に橋田の機嫌を考えてしまう。

 重たくなる足を引きずって、奏美は大きなサブバッグを肩にかけて教室を出た。

 ――このままでいいの?

 膨らむ悩み。どんどん重たくなっていく。

 ――辞めてしまおうか。いや、でも。

「辞めたらどうなるんだろ……」

 もう何度繰り返し同じことを考えたか分からない。部活が始まってしまえば、橋田の機嫌を窺うので必死だ。疲れる。とても、とても疲れる。

「はぁ……」

 部活に行きたくない。

 そんなことを考えては打ち消した。

「――何かお困りのようね」

 突然、背後から涼やかな声が聴こえた。勢いよく振り返ると、すぐ近くに長い黒髪の女子生徒が立っていた。白い肌に対比するような真っ赤な唇。それが三日月のような形に伸びて、こちらを見ている。奏美は目を見張って後ずさった。

「えっと……?」

「あなたが浮かない顔をしているようだから声をかけてあげたのよ」

 黒髪の女子生徒は「うふふ」といたずらに笑った。

 よく知らない人から声をかけられることなど今までにない。学校の中だとしても、大抵は気心知れた人や顔見知りくらいだろう。

 まったく覚えのない彼女にたじろぐばかりだった。

「あのぅ……あなたは?」

 それを訊くのでさえ勇気がいる。訝しく眉をひそめて、奏美は彼女の答えを待った。

 間もなく、彼女はやや上目遣いに言った。

「私は雅日みやび智夜子ちやこ。この相談室の室長よ」

「そ、相談室?」

 話の脈が分からない。奏美は辺りを見回した。

 無人の廊下。ここは、どこの棟だろう。音を出すのもためらわれるほどに静かな空間で、空き教室がいくつも並んでいるようだった。

 と、おもむろに雅日智夜子と名乗る女子生徒が指差す。たどっていくと、そこは教室のドアだった。小さなコルク板のプレートに「相談室ラビリンス」と書かれている。

 状況が分からない奏美は、戸惑うあまりに視線が忙しない。そんな彼女を前にしても、智夜子は動じることなく優雅に微笑んだ。

「学園相談室ラビリンスへようこそ。一年B組の塚原奏美さん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る