あわせ鏡②
黒髪の少女、雅日智夜子に導かれるまま奏美は「学園相談室ラビリンス」へと足を踏み入れた。
古い木材の匂いが鼻を通り抜けていく。室の中は、空き教室のよう。隅に机と椅子が積まれている。ホコリをかぶった教卓と黒板は、教室棟のものとは違って汚い。まるで、ここだけが別世界のようだった。
外は明るくも、段々と灰色の雲が忍び寄ってきている。暗いと思ったら天井には蛍光灯がない。陰気な部屋だ。心なしか寒気も感じる。
奏美はふるりと肩を震わせた。
「あ、いらっしゃい。どうぞ、こちらへ」
突然に目の前が陰る。教室の暗さにそぐわない明るげな声で、男子生徒に迎えられた。彼はにこやかに奏美を教室の真ん中にあるゼミテーブルとパイプ椅子に案内する。
「そこに座ってちょうだい」
ゼミテーブルに座る智夜子が言う。それから彼女は、男子生徒を呼んだ。
「大吉くん、お茶を出して」
「はい、智夜子さん」
物腰柔らかな大吉は教卓まで移動し、作業をする。奏美は「あ、おかまいなく」と小さな声でそれだけを言っておいた。
「あのぅ……」
おずおずと訊いてみる。未だパイプ椅子には座れない。
「ここは、一体、なんなんですか」
「相談室よ。悩める生徒のための相談室」
智夜子がサラリと答えた。
「悩み、あるんでしょう? だからあなたはここへたどり着いたのよ」
「なやみ……」
奏美は咄嗟にカバンを抱きしめた。それを智夜子は愉快そうに笑った。
「その中に、悩みのタネが入っているのでしょう? 退部届、かしら」
「どうしてそれを……」
まだ何も話をしていないのに。
心の内を見透かされたかのようで、腹の中がヒヤリと冷えた。立ち尽くしたままでいる。
「まぁまぁ、とりあえず座ってくださいよ」
教卓から大吉が声をかけてきた。彼はグラスを一つ、ゼミテーブルに置く。中にはほんのりと色づく緑茶が入っていた。
せめてものもてなしというのか、茶を出されてしまえばもう座るしかない。逃げるタイミングを失い、奏美は観念したようにパイプ椅子へ腰を下ろした。カバンは抱いたまま。
すると、智夜子も腰を下ろした。彼女は何故かゼミテーブルに座る。見下されるような形になり、奏美は顔を上げて怪訝に彼女を見つめた。
白く透き通った肌には血の気がない。でも、唇は真っ赤で、リップを塗ってもそこまで鮮明な赤になるだろうかと考えてしまう。つややかな黒髪がとにかく美しい。目鼻立ちがはっきりしているので、不気味さも妖艶さも美しいと感じられる。
一方で、脇に立つ男子生徒は冴えない。クラスで見かけたような気もする。毎日同じ教室で生活しているのに、誰か分からないということがあり得るのだろうか。
奏美は二人をまじまじと見、口を開こうとはしなかった。
「いつまでぼうっとしているのかしら。そんな風だから、先輩にいびられるんじゃないの?」
智夜子の口が毒を吐く。
奏美は「あ、あの、ごめんなさい」と挙動不審に平謝り。
「そのとおりですね……私、本当にどんくさくて。だからなんでしょうか。先輩から毎日毎日、怒られてばっかりで」
頭に響く橋田の怒鳴り声。大きな声で、みんなの前で罵倒されるのは恐ろしい。
「どうしてこんなこともできないの」「どんくさいなぁ」「気が利かないよね」「何よ、その態度」「ふざけてんの?」「なめてる?」「声もっと出せないの?」「遊びにきてるんなら帰っていいよ」「あんたなんかいなくても別にいいんだよね」
思い出すと、息が詰まって苦しくなる。
何もできなくなる。凍りついてしまったように立ち尽くして、頭の中は真っ白で。
そうなると、橋田は奏美の首を掴んでコートから追い出す。体育館から閉め出され、泣いても許してはくれない。
「筋トレでもやってたら? 声、出せるようになるまで体育館には入れないから。こっちまで聴こえたら許してあげる」
ピシャリと鼻先で体育館の扉が閉められた。
体育館の中では大勢の声で充満している。不可能な要求。絶対に聴こえるはずがない。
それでも、奏美は言われたとおりに冷たいコンクリートに手をついて、腕立て伏せを始めた。
「いーち、にー、さーん、しー……」
声はまったく届かないんだろう。その日は、練習が終わるまで体育館に入ることを許されなかった。どれだけ喉を枯らそうとも、泣こうとも、誰も同情はしてくれない。
「――そういうものだからって」
いつの間にか胸の内をすべてぶちまけていた。目の前の妖艶な少女は無表情で話を聞いている。
「スポーツの世界って、厳しいんですね。あれが普通なのかな。まぁ、そういうものなのかもしれないんですけど、やっぱり、こんな仕打ちには耐えられなくて。私は根性がないんでしょうか……もう分からなくなっちゃいました」
「別にスポーツに限った話じゃないのよ、こういうことは」
ようやく智夜子が口を開いた。つまらなさそうな声。
「どこでもあるわ。勝負の世界なら特に。他人を蹴落とさなきゃいけないんだから。みんなで仲良くゴールするなんて、そんな夢物語は通用しないもの」
「でも、みんな仲良くの方が平和的で幸せじゃないですか。どうして他人を
奏美は肩を縮こまらせ、項垂れた。
「ズルい?」
「はい。だって、部長ですよ。強い立場です。誰も逆らえないに決まってる……それに、大声で怒鳴られたら怖いじゃないですか。頭が真っ白けになって、パニックになって、そしたらまた怒られる……」
絞り出すように訴えると、智夜子の横にいた大吉が「確かにそうですよね、わかります」と軽々しく言った。ないよりはマシな慰めだった。
一方、智夜子は「ふうん」とうなりながら眉をひそめる。
「じゃあ辞めればいいじゃない? 無理をして続けても楽しくないでしょう? どうして退部しないの?」
「そんなの、できるわけないじゃないですか」
すぐさま返すと、智夜子は口の端をつりあげた。ニヤリ。その音が似合いそうな、意地悪な笑みだ。
「どうしてできないの? 名前を書いて先生に提出するだけよ。何も難しいことじゃないでしょう?」
「それができてたら苦労しませんよ……」
しかし、智夜子の冷たい言葉に違和感を覚える。
どうしてできないんだろう。退部しようと何度も決めておきながら、結局はタイミングが掴めないせいにして後回しにしているような。そのままズルズルと話を流して、橋田の機嫌を窺っている。嫌なはずなのに、橋田に従うことを優先にしている。どうして。どうして。
考えてみたらバカバカしいことだ。
奏美は渇いた笑いをこぼした。
「……退部したくない理由、あるのね」
智夜子が問う。奏美は笑いながら「はい」と答えた。
「私は、もともとは楽しく部活がしたかっただけなんです。楽しくスポーツがしたかった。経験したことのない新しいものにチャレンジしてみたかった。それがきっかけだったのに……」
見えない糸に縛られて、絡みついている。引きちぎってしまえば楽だろうに勇気が出ない。
心機一転を果たすはずが、何もできないでいる。改めて自身の無力さを思い知った。
「そうね。でも、それが分かったならまだ救いはあるはずよ」
智夜子の声音が少しだけ優しさを帯びた。伏せていた顔をゆっくりと持ち上げる。彼女の黒い髪が揺れ動き、奏美は思わず息を止める。
ひんやりと冷たい手が頬をさわった。
「あなたは結構、負けず嫌いなのかもしれないわね。信念を忘れないから」
「え?」
「楽しく部活をしたい、それを願ってしぶとくあの部にいるんでしょうね。本当はみんなと仲良く『平和的』で『幸福』な『楽しい』空間をつくりたいの。そうでしょ? でなきゃ、さっさと辞めて心地いい場所へ逃げるはずよ」
頬をさわる智夜子の顔が近くなる。黒い大きな瞳を見ていると、吸い込まれそうな錯覚を覚える。奏美は身震いしながらも、まっすぐに「はい」と答える。
「だったら、どうしたらいいのかしらね」
「それは……」
どうしたら「平和」になるのだろう。どうしたら楽しい生活を手に入れられるのか。
「あなたを脅かすものは何?」
「それは……」
橋田陽花。
しかし、口に出すと、全てがまるっきり変わってしまいそうな気がした。逃げるように目を逸らす。
「あなたを、脅かすものは何?」
智夜子は逃さない。黒い瞳が追いかけてくる。視線の圧。なぜだか彼女の目が橋田のものと重なって見える。
奏美はあえぐように口を開いた。
「は、橋田、先輩……でも、だからって、そんな、私は……」
どうしたいんだろう。
橋田が邪魔だと思ったことは――ある。あの人さえいなければ、自分はもっと楽になれるはずだと。
「シンプルに考えましょ。人はみな、誰しも自分勝手な生き物なのだから、何もあなただけが酷いわけじゃないのよ」
酷いわけじゃない。
橋田が嫌いだと思うことは酷いことじゃない。いなくなってもいいと思える。怪我をして大会に出られなくなれば、彼女はどんな顔をするんだろう。悔しく惨めに泣くのだろうか。今までの努力がすべて水の泡になり、呆然と立ち尽くすのだろうか。無力感に苛まれ、幽霊のように漂って生きてくのだろうか。散々、部員を苦しめてきた橋田の負け犬ぶりを見られたら……爽快だ。
「見えるわよ、あなたの本当の顔が」
「え?」
突然の声に、奏美は我にかえった。智夜子はもうゼミテーブルに戻っており、姿勢よくこちらを見つめている。
一方で、自分はカバンではなく、赤いちりめんをあしらった折りたたみの小さな鏡を持っていた。そこに映る顔は……醜く歪んでいる。
「ひっ……!」
思わず鏡を落としてしまった。顔のパーツがぐちゃぐちゃになり、笑っているあの顔が脳裏にこびりついていく。
「抑圧された感情はひねくれてねじれるものよ。気をつけなさいね」
智夜子が静かに言う。
「どうしたらいいのか、考えてご覧なさい。このまま、橋田先輩が引退するのを待っておくのか。退部するのか。橋田先輩を排除するのか。あなたの考える最高な世界を思い描くのよ」
「最高な世界……」
「そう。何を選ぶかで道は変わるわ。最善の道を探すことね」
ゼミテーブルから降りて、智夜子は鏡を拾い上げた。
「これ、あなたにあげるわ」
ホコリを払い落とし、鏡を手渡してくる。しかし、さきほどに見た自分の顔が思い浮かび、手が伸ばせない。それなのに、智夜子は無理矢理に鏡を持たせた。
「これはあなたを導くものよ。いい方向へ進めるように」
「はぁ……」
本当にそうだろうか。子供だましのように思える。
それに、鏡を開きたいとは思えない。教室の不気味さも相まって恐怖が拭えない。
奏美は持たされた鏡をカバンの中へ滑り込ませた。
「さ、そろそろ部活の時間じゃない? 遅れたら大変よ」
自分から引き止めておいて何を言うのだろう。智夜子の言動についていけない。
だが、遅れたら橋田の激が飛ぶことは明白だ。奏美は慌ててカバンを抱えて、椅子から立ち上がった。
「それじゃ、大吉くん。彼女をお送りしてちょうだい」
「はい、智夜子さん」
それまで黙っていた大吉が物腰柔らかに奏美を出口まで促す。
彼がドアを開くと、そこは――
「……あれ?」
体育館へ続く渡り廊下が、目の前に伸びていた。
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