あわせ鏡③
「遅かったねー、先輩たち来てたらアウトだったよ」
景子が背中を押しながら更衣室へと連れこみ、奏美は苦笑しながら大慌てで部活着に着替えた。「今日は日直だったんだ」などと適当にごまかして。
先ほどの出来事は夢だったのだろうか。でも、スカートのポケットにはあの鏡が入っている。
――夢じゃないんだ。
ごくりと唾を飲み、制服をロッカーに押し込めると、そのちょうどに三年の先輩たちが悠々と入ってきた。
「こんにちは!」
後輩から挨拶をしなくてはいけない、という暗黙のルールに則り、奏美と景子はそろって声を張る。
橋田たちは雑談しながらだったのでこちらにはあまり目を向けず、適当に返してくるだけ。これも奏美の中では理解不能な「しきたり」だった。
こちらが一方的に虐げられている。
そんな気がして、腹が立つもの。しかし、景子は「怒られなくてよかったねー」と安穏に笑うだけだった。
ミーティングを終えた後、ストレッチを行い、フットワーク練習をする。その傍らで一年生は校庭を他の運動部と一緒に走るのだが、それも終えた後には先輩らの試合を見学する。
その時、事はまたたく間に起きた。
試合開始のホイッスルの後、勢いよく動き出すコート内はいつもと変わりない。
飛び交う怒号とパスを要求する声。散弾したようなバスケットシューズの音。
ボールを運ぶ二年生の宇美が橋田にロングパスを投げた。橋田は高くジャンプした。着地までの瞬間は数秒。彼女が床に崩れ落ちるまで何が起きたのかが分からない。
すぐに景子の「橋田先輩!」という声と、試合中断のホイッスルが鳴り響く。
橋田はゴール下にうずくまり、動かなかった。
「陽花! どうしたの!」
すぐさま山本が駆け寄る。全員がその場で立ち止まり、パスを出した宇美は蒼白だった。
「ちょっと、誰か手伝って! 保健室連れてくから! 早く!」
山本の声で、脇に控えていた一年生がようやく動き出す。
苦痛に歪んだ顔が名残惜しくコートを見る。そして、宇美を見つけるも何も言わずに一年の肩を借りて体育館を出て行った。
「……何が起きたの?」
奏美は景子に訊いた。思わぬアクシデントについていけない。
景子は眉をひそめ、苦々しく言った。
「多分、着地の時に足をひねったんじゃないかな」
「えっ」
喉元で声が引っかかる。奏美だけでなく、他の部員も言葉をなくしており、コートの空気は重苦しい。
こういう時、山本がいれば空気の切り替えをしてくれるのだろうが、彼女も今は保健室へ付き添いでいない。
奏美は部員らの曇った表情も相まって、言い知れぬ不安におそわれた。
そして、ふいに思い出す。雅日智夜子の言葉を。
――あなたの考える最高な世界を思い描くのよ。
最高な世界。橋田のいないコート。
でも、こんな結果を望んだわけじゃ――いや、望んだのかもしれない。
鏡に映った自分の顔は醜いものだった。知らず知らずのうちに、橋田がいなくなる未来を望んでいたのだろう。今まで。
でも、
「これが、最高な世界だっていうの?」
それにしては後味が悪い。
怪我の具合が重くなければいいが、帰ってきてほしくない。軽症だったらすぐに復帰していつものように横暴な態度を見せるのだろう。
だが、これは奏美だけが考えているわけではないようで、二年生の部員たちは密やかに何かを話し合っている。
「橋田先輩、どうなるんだろう」
「戻ってきたら絶対、宇美のせいにするよね」
「それはなくない? 自分のことは棚に上げてさー」
「でも、橋田先輩いなかったら大会やばいよね」
相反する気持ちが飛び交うばかりで、状況はまったく変わらない。
結局、顧問が体育館へ来るまでは各々、どうにもできずにいた。
***
「まぁ、今日は安静にしといて、明日治れば大丈夫でしょ」
帰り際、橋田は奏美に預けた荷物を受け取りながら言った。
「大会に出られなくなるとかありえないし……まぁ、なんだ。それだけ基礎練って大事だってことね」
「はぁ……そうですね」
その日はいつもより言葉が優しかった。口調には自身を責めるような響きがあり、奏美は拍子抜けだった。
いつもなら不機嫌にさっさと駅のホームへ行く橋田が、まったく動かない。そのせいで、帰ろうにも帰れない。
機嫌を損ねないように大人しく話を合わせておく。
「それにしてもさぁ、宇美のパス、ほんと下手なんだけど。あいつ、絶対わざと遠くに投げたんじゃないかなー、どう思う?」
「え? 宇美先輩が、ですか?」
「うん。見てたでしょ、試合」
「はい、でも……」
「私ねぇ、知ってるよ? みんなが私のことを良く思ってないこと」
突然の告白に、奏美は息を飲んだ。
一方、橋田は大して気にする素振りもなく、淡々と言葉を続けていく。
「でもさ、大会で勝つには厳しくしないとダメなんだよ。私もそうやって先輩たちからしごかれてきたし、特にすごい才能があるわけでもないし、楽しいっていうよりももっと上にいかないとって気持ちのほうが強いし、みんなで仲良くやってこうなんて甘い考えなら部活すんなって話で」
その言葉は、奏美の心に突き刺さった。自分が言われているような気がした。
しかし、そこまで「勝ち」にこだわる橋田の気持ちが分からないし、彼女も部員の気持ちを分かっていないのだろう。
橋田はキャプテンとしての自分が正当であると思っている。
あの横暴な言葉や態度がどれだけ周りに影響を与えるのか思いつきもしないのだ。それに、やはり自身の反省はなく、宇美のことを悪く言う。
――ずれている。
奏美は落胆を感じた。もう橋田の声は聴こえなかった。
制服のポケットにある鏡を握りしめながら、とにかく橋田がホームへ消えるまでを待ち続けた。
やがて、ひとしきり話し終えた橋田はすっきりとした顔で、足をひきずりながら「じゃあね」と満足に手を振った。話し相手が欲しかったのか、それとも電車の時間を待っていただけか。
ようやく解放された奏美は、握りしめていた鏡に気が付き、ポケットから取り出した。開く。
自身の顔が映る。
「……なんだ、普通の鏡じゃん」
恐れていたのがバカバカしく思えてくる。奏美は冷たい鏡にため息を落とした。
橋田の言葉が重々しくのしかかり、気が滅入る。
――このまま、橋田先輩が引退するのを待っておくのか。退部するのか。橋田先輩を排除するのか。
唐突に智夜子の言葉が背後から忍び寄ってくるようで、体内に悪寒が走った。振り払うように頭を振る。
鏡を見ていると、智夜子の声がよみがえり、脳は勝手に自問自答し始めた。
橋田は部員のことを考えていない。勝ちにこだわるだけで、スポーツを楽しんでいるわけではない。
バスケが好きだから、周りが見えないだけなのだろうと思いこめばまだ許せた。けれど、そういうわけじゃない。
部員が橋田をどう思っているのか、それを知っていても態度を変えようとしない。
「自分もそうやって鍛えられたからって、そんなの、絶対に違うじゃない……」
こういうものだから、なんて考えはただの怠慢だ。ある種、洗脳に近い。本来なら嫌な思いをしてまで続けることはない。考えることを放棄して自分を納得させているだけに過ぎない。
こんなの、間違ってる。
――あなたの考える最高な世界を思い描くのよ。
脳内を巡る熱が囁く。
最高な世界とは、虐げられない世界のこと。間違いを示すこと。
橋田陽花は、いらない――
「見えるわよ、あなたの本当の顔が」
どこかから声がし、我にかえる。奏美は行き交う人々の波を見回した。
智夜子の声だった。彼女が近くにいるのか。いや、どこにも見当たらない。
奏美は握っていた鏡に目を落とした。
「いやっ!」
思わず鏡を地面に放り投げる。通り過ぎる人たちが振り返るも、彼女は恐怖に駆られていて気にする余裕はない。
また顔が歪んでいたのだ。気味が悪い。
ちょうど鏡面が石畳に落ちたので、クモの巣状にヒビが入っていた。割れ目に自身の顔が映るが、もうそれを見る勇気はない。
奏美は鏡を蹴飛ばし、遠くへ消えたことを確認すると、逃げるように駅から出た。
翌日。
奏美の屈折した願いが叶ったかのように、橋田の足は治らなかった。
朝起きたら足首が腫れ上がっており、急いで病院へ向かったところ、靭帯の損傷による捻挫だったという。
全治三ヶ月。復帰までにはさらに時間がかかるので大会には出られず、急遽、スターティングメンバーは変更して大会に臨むということが朝練習の前に顧問から告げられ、全員の顔が気まずく引きつった。
しかし、彼女らはその不安もすぐに解消させて何事もなかったように練習に励んだ。
――自業自得。
奏美は内心でほくそ笑む自分に気づくも、それを受け入れていた。
爽快だ。もう虐げる者はいない。
自分が下したわけでもないのに断罪したような気分であり、正義感すら覚える。
だが、大会が終わるまではやはり指導は行われることはなかった。
***
後日談。
「そう言えば、智夜子さん。二年前にきたバスケ部の子、どうなったんでしょうね」
学園相談室ラビリンスにて。
窓の外を眺める智夜子に大吉がふと訊いた。鬱陶しげに眉をひそめる智夜子の唇が動く。
「塚原奏美さんのこと?」
「そうそう。なんか、バスケ部はあまりいい結果を得られなかったのは聞いたんですけどね、どうなったのかなーって」
「あの子は状況を打破する解決策を選ぶことをしなかったの。ただ、なりゆきに任せていただけで、他の子となんにも変わらないわ」
嘲るように言った。
大吉は「はぁ」と感心げに頷く。
「じゃあ、なんにも変わらなかったから戦績も良くないんですね」
「でしょうね。みんなで楽しくスポーツをする分にはいいんだけれど、競争の中にいる以上は仲良しこよしは通用しない。一番戦績がひどかったのが宇美さんの代だったようだけれど、それを挽回するために塚原さんの代は厳しく練習をしたみたいよ」
「へぇ、厳しく?」
意外だと瞼を開く大吉。
智夜子は口の端を嫌そうに押し上げた。彼女にしては苦々しい顔つきでいる。
「だから鏡を渡したのに、彼女、捨てちゃったのよ。あの鏡、お気に入りだったのに……」
智夜子は頬を膨らませ、不機嫌にそっぽを向いた。そして、ポケットから赤いちりめんの折りたたみ鏡を取り出す。開けば、それは亀裂が走ったままで、鏡の役割を果たさない。それを覗き込み、大吉は「うわぁ」と引いた声を上げた。
「この鏡を持っていれば、あの子はプレッシャーに押し負けることはなかったはずよ。それを拒んだのだから、当然の結果でしょう。『橋田先輩』になっていることに気がついていない、みんな」
智夜子は階下にある体育館を見やった。景子や奏美がコートを走る姿がある。
彼女たちの顔は厳しく険しい。
《case8:あわせ鏡、了》
学園相談室ラビリンスへようこそ 小谷杏子 @kyoko
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