case2:悪夢
悪夢①
夜中。外を歩いている。
コツ、コツ……
『コツ、コツ……』
足音が静かな道に響く。
ふと、背後に気配を感じた。振り返ってみる。
――誰もいない。
しばらく様子を窺うも真っ暗な道に、動くものは何もない。気のせいだったのか。
訝りながらも、また歩きだす。
コツ、コツ……
『コツ……コツン……』
足音に自分のものとは異なる足音が重なった。やはり、誰かが背後にいる。
もう一度振り返った。
真っ暗な道。何もない道。ここは自分だけの道。それなのに……背景に溶けこむ黒い雨合羽のようなものを纏い、フードをすっぽりとかぶった人物が近くにいた。
驚きのあまり、声が出ない。
――誰? 誰なの……?
言葉が声にならない。声帯は凍りついてしまったかのよう。目の前の人物は、黙ったままでじっとこちらを見ている。
――何? あなたは一体、何がしたいの?
『……われ』
唸る声。口がどこか分からないのに、そのフードの下から轟いた。
『代われ』
今度はそう、はっきりと言った。
――「代われ」? 何を? どういう意味なの?
『代わらないなら……』
苛立ち紛れの声。黒の袖から手が伸びてくる。そして、その手が首元へ向かった。
抵抗するも、既に遅い。手が喉を絞めていく。その強い握力に圧倒され、振り払うことができない。息ができない。喉が潰されていく。痛い。
次第に目眩がし……
―――……。
目を開けた。
そこはいつもの部屋。いつものベッド。白とピンクを基調にした小物がひしめいた小さな部屋。
「朝ごはん出来たよー、遅刻するよー」
階下から聞こえてくるのは、元気で明るい叔母の声。しかし、それには答えられず、彼女は生々しく残る、首の痛みに顔をしかめていた。冷や汗が頬を伝い、震える手で拭う。
現実のような……悪夢。
毎晩、そんな夢にうなされている。
***
「そう……」
目の前にいる美少女が溜息混じりに言った。
ここは『学園相談室ラビリンス』。
部活の顧問に頼まれ、大量の画材を運んでいた際、丁度この教室を見つけたのがきっかけで現在に至る。
何故か長机の上に座っているのは、真っ黒なストレートヘアを腰まで伸ばした、和風美人みたいな女子生徒。とても同年には思えないくらいに落ち着きと品がある。
名を
それを言葉にするのは難しく、胸中に押しとどめておき、彼女は俯きがちにじっと言葉を待つ。
「それで?」
返ってきたのは短い言葉だった。思わず拍子抜けする。
「えーっと……それでおしまいなんですが……」
「あ、そうなの」
素っ気なく彼女は呟くと、また溜息をつく。その不遜な態度に不満を抱くことはなく、どちらかといえば怯えてしまう。
「その夢、いつも見るの?」
「ええっと……いえ、毎回違うんですけど、でも……」
智夜子の探るような目に緊張した。その様子を舐めるように眺めると、彼女は頬を僅かに緩めた。眉は怪訝そうだが。
「大丈夫。私は怒ってないのよ。そんな顔しないでよ」
どきり、と胸が嫌な音を立てた。
「でもまぁ、それは仕方ないことなのかもしれないわね。そんなに怯えることないのに」
淡々と。その中には情がというものがない。
やはり俯いておくしかなく、智夜子の「で?」という短い問いにすら顔を上げられずにいた。
「まだ悩み、あるんでしょう? その夢だけじゃないはずよ」
「え……っ」
分からない。どうして、彼女がそれを知っているのか。
しかし、智夜子の声には救われた気がした。話してもいい、とそう言われている気がした。
喉の奥が震えている。それでも、振り絞って開口する。
「その夢、と似たようなことが……その次の日とか近いうちに、夢と同じことが起きるんです」
「予知夢?」
「多分……でも」
「でも?」
目の前が陰り、ちらりと顔を上げてみると、智夜子の顔がすぐ近くにあった。驚いて息をのみ、彼女は目を瞑る。視線はまだ刺さっていたがそれでも視界に入れなければ怖くはない。
「例えば……例えばですよ。無意識のまま、違う場所にいたりしたら……どう思います?」
「それはつまり夢遊病ということかしら。眠ったまま徘徊してしまう現象なんですって。でも、原因は分からないらしいのよね」
訊けばすぐに返ってくる。それも、聞いていないことまで。
「ええっと……夢遊病? とは違うかもしれません」
「あら、そうなの。じゃあ一体なんなのかしらね」
首をかしげる智夜子。的が外れてお手上げといった様子を見せるが、その仕草一つ一つがわざとらしい。
「因みに、今朝はどんな夢だったの?」
「……うーん」
彼女は、智夜子の声に促されるまま、記憶を辿った。
「外、でした。暗い道を歩いていて……それで、後ろに誰かが、いて……」
黒い雨合羽のようなものを着てフードをかぶった「誰か」が、後をついてきていた。
そして、首を絞められた。
意識が途切れて起きれば、ベッドの中。夢を見ている感覚ではあったが、起きてみれば服や足が汚れていた。
現実のような……悪夢。いや、あれは現実。
毎晩、そんな現象にうなされている。
「意識と無意識の間に貴女はいた、と。で、その後ろにいたのは誰だったの?」
「それは……」
智夜子の鋭い声。そのせいか、思い出したくないのか、どんなに記憶を巡らせども後が続かなかった。
あの黒いフードは誰だったのだろう。とても恐ろしい存在に思えた。途端に身体が震えてしまう。
「……分からない、のね。まぁいいわ」
こちらの状況を察してか、智夜子は言及してはこない。
その辺りは、相談室室長を名乗るだけのことはあるのか。はたまた、興味が薄いのか。
目の前の美少女の動向や感情が読めないもので、彼女は更に陰鬱に表情を曇らせる。
「様子を見る限りじゃ、悪いことが起きたようね。例えば……殺されかけた、とか」
胸がどきりと音を立てる。
何故、こんなにも見透かされてしまうのだろう。彼女は、思わず智夜子を凝視した。
「あなたは、一体……」
――なんなの?
みなまでは訊けない。しかし、言いかけたものを理解したように智夜子はクスクスと笑い出す。
不気味。
それ以外に、彼女を表現する言葉がなかった。
「まぁ、それは関係ないことよ。まずはあなたの悩みを解決させるのが先」
「はぁ……」
それでも覚えた恐怖は拭い切れないのだが。
「それはそうと、まだ名前を聞いてなかったわね」
「えと……一年の、野坂と言います」
訊かれれば答えるしかない。
素直に素性を明かすと、智夜子は眉をひそめた。そして、「違う」と言わんばかりに右手を振る。
「それは知っているわ。下の名前よ」
「……ミナミですけど」
「野坂、ミナミさんね。分かったわ」
下の名前まで聞かなくてもいいではないか。なんだか、名前を奪われそうで怖くなるのだが、あまりにも非現実的思考だったのですぐに打ち払った。
「それで……あの、私の悩みは、解消できるのでしょうか」
今度はこちらから訊いてみた。
看板を見つけて飛び込んだのは、藁にもすがる思いだった。それほどに、毎晩の悪夢は精神を削っていく。目元のクマも酷い。体だって倦怠を感じている。授業もおぼつかない。
日常生活に支障をきたすのはどうにも不便で、不安なことだった。
しかし、このやり取りのせいで、余計に恐怖が煽られた気がするのも否めない。彼女を信用していいのか疑ってしまう。まったくもって悪い予感しかしない。
ミナミはごくりと唾を飲み込み、智夜子の口――その真っ赤な唇が開くのを待った。
ゆっくりと、言葉が紡がれる。
「解決してあげる。私が貴女の悩みを、きっといい方向に導いてみせるわ」
智夜子は気を抜いたような優しげな微笑みを見せた。柔らかそうな頬を緩めて、真っ赤な唇を上品に結んで。
思わずその完璧な笑みにミナミは声が漏れ出てしまった。それくらいに綺麗だった。
――綺麗すぎて、怖い。
***
気がつくと、ミナミは人気のない公園の中心に立っていた。
ブランコ、滑り台、ジャングルジム……は昔にはあったはずなのに、今は撤去されて遊具が砂場と鉄棒しかない、寂れた公園。
――そうだ。この公園に来たことがある。
近所の公園だと気がつくのに時間はかからなかった。
しかし、家に帰ったはずが、どうしてこんなところにいるのだろう。ふと視点を下げ、真っ赤な夕日を浴びた制服を見つめる。
いや、違う。夕日の赤ではない。
これは――血だ。
目の前に横たわった何かがいる。
真っ赤な海に浮かぶ何か。
黒い毛、目玉、三角の耳、爪が飛び出した脚。一つ一つがばらけている。
それは、家で飼っていた猫だったもの。
「ひっ……!」
思わず悲鳴が漏れそうになり、慌てて口を塞げば濃厚でどろりとした異臭を感じた。
両手は真っ赤。制服も真っ赤。顔も、足も全部全部、あの猫の……。
膝はがくがくと震え、目は四方八方へと焦点が定まらない。
――嘘だ。
しかし、証拠は揃っている。
血だらけの体、目の前の死体。全てが。
――嫌だ。嘘だ。私が……
ミナミは、自分のしたことを受け止めることは出来なかった。
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