自殺願望者③
屋上は風が吹き荒ぶ。智夜子の長い黒髪が舞い上がり、しなやかに畝ねる波のようだ。
「――本気、なの?」
彼女の声には陰鬱さが潜んでいた。僅かに怯んだものの、三鷹は唇を舐めてしっかりと頷く。
「はい」
「どうして?」
間髪入れない問い。その食い付きに三鷹は後ずさる。気まずい思いを一緒に抱くように腕をさすりながら。
目を伏せて、彼は忌まわしい上履きを見やった。
「その……僕も、よくは分からないんですけど……このまま死んで、いいのかなって思って」
「死んだら、楽になれるのよ?」
その言葉が耳に伝い、思わず息を飲む。
「無理して生きるの?」
智夜子の声を聴いているはずなのに、何故か自分から発せられる言葉に思えた。
このまま死んで、自分という存在がなくなったらクラスメイトはどう思うのだろう。勝った気になるだろうか。罪悪感が残るだろうか。
どちらにせよ、いい結果には……ならない。それにまだ抗っていない。どこまでも追いかけてくる無慈悲な世界の波に、まだ。
勿論、死への恐怖もある。消えてなくなるのは怖い。どんなに存在を否定されようとも、一番怖いのは結局のところ自分自身の喪失だ。
三鷹は拳を握りしめ、頷いてみせた。
「そう……」
智夜子の表情は夕日に陰っていた。ただ、その声が暗いことだけは分かる。
「随分と切り替えが早いのね」
いかにもつまらなさそうな口ぶりに、三鷹は頬を引きつらせた。苦笑しようにも、しばらく笑っていなかったもので唇の端が痛い。
智夜子は腕を組んで、顔に張り付く髪の毛を鬱陶しげに払った。
「いいのよ別に。私はね。あなたが今後、どうなろうと私は気にしないわ」
――今後……
それは自身でも分からなかった。この選択が正しいのか、また、明日も同じ生活を強いられるのか。暗雲立ち込める日常に、いつか光が差すことはあるのか。
「じゃあ、もう解決ということでいいかしら?」
思いを巡らせている最中に智夜子が言う。
「あ、はい……雅日さん、ありがとうございました」
すると、智夜子は頬を膨らませた。その表情が、クールな彼女に恐ろしく似合わない。
「えっと……何か?」
訊くと彼女はこれ見よがしに溜息を吹きかけてきた。
「……つまらないわ」
「え?」
「だって、こんな悩みごと、今までになかったもの」
頬張った息をゆっくり吐き出してニヤリと笑う。それは彼女の冗談なのだと受け取ることにした。
「本当に死んでしまったら、困るのは雅日さんじゃないですか?」
「そんなことないわよ。寧ろ、あなたが一番困るのよ」
「え?」
彼女の言葉に引っかかる。三鷹は首を傾げた。それを智夜子が鼻で笑う。
「自殺すると、地獄に堕ちるって言うでしょ。あれね、成仏できないってことだと私は思うのよ。だから死んでも楽になるなんてことはないわけ。良かったわね、命拾いして」
彼女は真顔で言った。笑えない冗談だ。
「でも、さっき、死んだら楽になるって……」
言いかけて口をつぐむ。その問を彼女へ投げるのは、どうにも見当違いに思えたのだ。
彼の様子を気に留めない智夜子は、大空へ手を伸ばすようにして身体をほぐした。背伸びをすると三鷹の身長を追い越してしまう。
「――ねぇ、三鷹君」
流れの早い雲を見つめながら真っ赤な唇が開かれる。その声音は少し低い。心なしかどこか不穏が漂っている。
三鷹は少し身構えた。
「はい?」
「帰るときは、くれぐれも気を付けなさいね」
「……え?」
意味が分からず、またも首を傾げてしまう。
――気をつける? 何に……?
彼女が見上げる空を、同じように目で追ってみる。
その時。
後ろから突風が吹いたと思えば、途端に足元がぐらついた。視界がぶれ、歪んでいく。驚いて背後を振り返ると、そこには黒い影が広がっていた。
「え?」
慌てて智夜子を探す。しかし、彼女はいない。突風に煽られて消え去ったかのよう。声だけを残して。
――気をつけて。捕まらないように――
影が伸び、近づいてくる。
逃げるように走った。だが、水中で走るようにその足は重く、息も段々苦しくなってくる。
早く……早く行かなくては、あの黒い影に捕まってしまう。
なんとか重い足を動かすも、影は容赦なく追いかけてくる。嘲笑うように頭上まで近づいている。
まだ、死にたくない。
影に捕まらないよう、無我夢中で走った。
走って、走って、走って……
……。
その先に光が見えた。
***
水が耳に詰まったかのように音がこもっていた。しかも、やけに騒々しい。
「陽介!」
一体、どうしたというのか。自分の名を呼ぶのは誰だったか、瞬時には思い出せない。
「覚えてる? あなた、学校の屋上から飛び降りて病院に運ばれたのよ」
それなのに、目の前で涙ぐむ女はひっきりなしに声をかけてくる。闇に目が慣れるように徐々に、彼はここがどこなのか目の前の人は誰なのか思い出した。
「命に別状はないって言われても、なかなか目を覚まさなかったから……でも良かった」
「……かあさん」
彼は掠れる声で言った。
「僕、いつ飛び降りたの?」
「三日前の放課後よ。教室を出てすぐ……クラスの人がそう、言ってた」
母の声はしおらしい。震えが混じっており、心から心配をしているように見える。
三日前の放課後――窓の近くにあった卓上カレンダーを見やった。記憶の中の日付よりも三日後の日にちまで×印がついている。母が書いたのだろうか。靄がかかった記憶の中を辿ってみる。
確か、最後に見えたのは……夕方の燃えるような赤い空――
「あぁ……」
ようやく意味が分かった。
あの日、実は先に屋上から飛び降りていて、そのまま意識を失ったのだ。死にたくて死にたくて仕方がなくて、でも死にきれなかったのだろう。あの夢のせいで――
三鷹は布団を剥いで、ベッドから降りようと動いた。それを母がすぐさま止める。
「僕、ちょっと行かなくちゃ」
「どこに行くの?」
「学校。会わなきゃいけない人がいるんだ」
「無理よ。足が折れてるし、しばらく安静にしてないと」
そういえば、確かに足の感覚がない。意気込みがすごすごと引いていき、渋々布団をかぶり直す。
「動けるようになったら、また行けばいいの……今度は上手くいくわよ」
母は躊躇いがちにそう言った。恐らく、今までの経緯を知ったのだろう。隠してきたことがこんな形で露見されるとは。
三鷹は脳内に浮かんだあの上履きを打ち払い、「……うん」と布団の中から返事した。
***
後日談。
とりあえず動けるようになったものの、まだまだ不自由で、松葉杖と両親からの送り迎えに頼るほかなかった。それでも学校へ行かなくてはいけない、というのは確かめたいことがあったからだ。
教室への登校はせず、保健室で勉強する毎日。しかし、昼休みや放課後はひっそりと校舎内を彷徨いていた。
あの夢は現実だったのか。雅日智夜子という女子生徒は存在するのか。強烈に鮮明な記憶がいつまで経っても頭から離れない。
彼女が本当に実在するならば、彼は一言礼を言いたかった。恐らく、彼女にそのことを話したら「何を馬鹿なこと言っているの?」とか「あなたの為だと思ってるの?」とか随分な言葉が返ってくるだろうが。
使われてない教室の棟を探すも、なかなか見つからない。階段を一段ずつ上る足が、鉛玉を引っ張っているかのように重たかった。
踏みしめてゆっくりと上る。上る。もう一つ、上る。どうしてこんなにも重たいのか。上へ上へと幾重にも続く階段が、行く手を阻む壁に思える。
彼はこめかみから滴る汗を拭った。
デジャヴだ、と感じたのは今日が初めてではない。
「……三鷹くん?」
背後からいきなり声をかけられる。急いで振り向くと、そこにはスラリと細い女性教師の姿があった。見覚えがあるのだが、雅日智夜子とは似ても似つかない素朴な容姿であり、もっとも彼女は一年生の時の担任教師だった。
「
「大丈夫なの? そんな体で……どこへ行くの?」
「あ、はぁ……まぁ……」
いきなり話しかけられてどもる癖はやはり治らない。人と話すのは未だ苦手だ。しかし、あの美しい少女とはまだ上手く話せていたように思う。
有耶無耶に返し、階段に腰掛けると、朝田教員もその隣に立った。
「三鷹くん。いろいろと大変だとは思うけど……その、先生も相談に乗るから。大したことは出来ないかもしれないけど」
あまりにも自信がなさそうに言うものだから、三鷹は呆気にとられた。
「担任じゃないのに?」
「元、担任だからね」
その正義感は揺るぎないようで、怯えた心は穏やかに変わる。しばらく無言だったが、その沈黙に耐えられず三鷹は口を開いた。
「あの、先生」
「何?」
「その……この学校に雅日さんっていますよね。ちょっと助けてもらったことがあるので、お礼をしたくて。どこのクラスなんですか?」
咄嗟に訊きすぎた、といい終えて気がつく。慌てて苦笑を見せると、やはり朝田教員は怪訝そうな顔をしていた。
「えぇっと……ミヤビ、さん……?」
「あ、いや。あの、なんでもないです。すみません」
慌てて立ち上がり、恥ずかしさでもう教師の顔は見られなかった。急に何を言い出すのだろう、と呆れられたかもしれない。
階段を降り、教師の目から見えない場所までなんとか歩くといつの間にか無人の場所へ来ていた。窓からは澄み切った九月の秋空が窺える。
あの相談室へはもう行けないのだろうか。彼女にも会えないのだろうか。あれはやはり夢だったのだろうか。
考えても分かるはずがなく三鷹は、差し込む夕日に黄昏れていた。
あの時の赤と同じ景色を目に焼き付けるように。
《case1:自殺願望者、了》
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