シンユウ②

 時計の針をこんなにも恨めしく思ったことはない。五限目、六眼目と授業を終えていくにつれ、美鈴の心労は増す。緊張にじわじわと精神を蝕まれる。

 放課後にもなれば、益々息苦しくなっていた。

「江美ちゃん……あの、身代わりって一体、どうするつもりなの?」

 賑やかに下校していくクラスメイトをちらりと見やりながら、美鈴は真っ先に江美の元へ向かった。居てもたってもいられなかった。

「ふふっ。まぁ、見てなよ。とっておきの策があるから」

 こちらの怯えには無関心な江美である。得意げに笑うと、彼女は通学鞄からピンク色のポーチを取り出した。何か見覚えがある。

「さ、美鈴。ここに座って」

 江美は自分の席に美鈴を座らせると、真正面に回ってポーチの中身を取り出した。テレビのCMなんかで見たことがある、ブランドもののファンデーションを見せてくる。

「美鈴にも使わせてあげる」

 上機嫌に言う江美は、手際よくファンデーションをパフで叩き、美鈴の顔へ乗せていく。さらっとしたパウダーが頬や額に重ねられていき、まるで塗装を施されている感覚だった。

「次は〜これ! 睫毛も上げなくっちゃねぇ。美鈴の睫毛、下向きだから時間かかりそう」

 真剣に、でも楽しげな江美の声。覗き込まれると、視線をどこに置けばいいのか分からない。

「あぁ、もう。目つぶるな。ほら、怖くないから」

 見たことがある。それは、確かビューラーというものだ。ハサミのような持ち手をカチカチ鳴らしながら、江美は美鈴の睫毛をしっかり挟んでぐいっと持ち上げた。遠慮のないその力に、思わず悲鳴を漏らしてしまう。

「あ、ごめん。痛かった? でも、こう、根元から上げないと上がんないんだけど」

「優しく、お願いします……」

「はいはい」

 適当な返事をする江美。美鈴は不安を胸に抱き、とにかく堪えた。

 鼻をつく上品な香りも、顔に塗られた粉っぽさも、上向きに伸びる睫毛も、自分のものではないように思えてきて怯えてしまう。

 滑稽に見えないだろうか。気持ち悪くないだろうか。

 自分が自分じゃなくなっていく……そんな恐怖で頭の中は真っ白だった。

「ほぅら、これで良し」

 既に誰もいない教室で、江美はマスカラを片手ににっこりと微笑む。その笑顔に裏があっても、やはり彼女は画になる可愛さで溢れていた。

「こうやって、綺麗にすれば美鈴だって可愛いのよ~。見てみ」

 そう機嫌よく言うと、顔が映るくらいのスタンドミラーを美鈴に向ける。

「ね?」

「う、うん……」

 驚いて目を丸くした。思わず呆けて口を開けてしまう。鏡の中にいる「美鈴」はほとんど「江美」だった。

 髪の毛も目も、よく見れば全く違うけれどそれでも、見た目は江美である。

「すごい……!」

「でしょ。あとは……あぁ、グロスをちょこっと乗っけよう。うん、完璧……あぁ、でも、家に着いたらなるべく部屋にいてよ。顔も俯いてさ。喋らなくていいから。これなら大丈夫でしょ」

 それでも不安は拭い切れない。

 江美の楽観的な声に、美鈴は心臓の音を抑えようと息を大きく吸った。呼吸を整える。

「んじゃあ、よろしくね〜」

 並べていた化粧品をポーチに詰めながら、江美は一方的に言う。そして、さっさと帰り支度をすると、美鈴を置いて教室を出て行った。

 慌てて美鈴も鞄を持つ。立ち上がると、太腿に冷たい空気が触れた。

 江美が調整したせいで、スカートがいつもより短い。普段は膝上五センチメートルという校則をきっちり守っていたので、丸出しになった足が落ち着かない。

「あ、そうだった……」

 猫背気味の背中を少し伸ばす。今からは「江美」にならなくてはいけない。

「江美ちゃんなら……こうするよね」

 鞄を肩に掛け、両手でベルトを握る。背筋を伸ばし、ふわりと甘い香水を漂わせ、足を踏み出す。

 階段の踊場に提げてある大きな鏡の前で、ふと立ち止まってみた。

 そこに、朝田美鈴はいない。


 ***


 駅前のアーケード街を抜け、住宅街に入れば江美の家が見える。

 喋らなくていい、という江美の指示通り、美鈴は何も言わず家に入った。鍵や携帯電話などの持ち物は江美から預かっている。

 玄関を抜けてすぐさま部屋へ上がろうとすると、リビングから江美の母親が出てきた。

「あら、江美ちゃん、お帰りなさい。六時ギリギリね。また遊んでたの?」

 美鈴は咄嗟に俯き、ゆっくり頷く。

 肩が、足がふるりと揺らいだので、階段の壁へと身を潜めた。

「もうすぐご飯できるから、着替えてらっしゃい」

 優しい声が壁越しに聴こえた。

 江美の母は美鈴をいつも温かく迎えてくれる。その優しさは娘である江美にも平等なのだろう。

 美鈴は鞄を持つ手を握りしめて江美の部屋へと飛び込んだ。

 見慣れた江美の部屋は、原色ばかりのカラフルな色合いだ。落ち着かない。

 スカートを急いで元に戻す。それでもそわそわと落ち着かない。塗り固められた顔を思い切り拭いたくなる。

 美鈴は息を吐き出し、ベッド脇に蹲った。

 息を吐いても吸っても、上手く呼吸が出来ているか分からなくなる。幸せが溢れた空間が自分を責め立てている気がする。

「江美ちゃん、ご飯よ~」

 階下から江美の母の声が響いてきた。

 三角座りで縮こまっていた美鈴は急いでスカートを巻いて短くし、階段を降りる。

 ゆっくりとリビングへ顔を覗かせると、電灯の光に目が眩みそうになった。どうにか堪えて、俯いたまま食卓へ。

 江美の父親はまだ帰っていないらしく、二人分の食事だけが用意されていた。艶やかなソースがかかったハンバーグが現れる。手作りのハンバーグなど見たことがなかった美鈴は、その丸く固められた肉の塊に目を瞠った。

 喋らなくていい、とは言われたものの、美鈴は思わず「いただきます」と小さな声をハンバーグの上に乗せた。それからは黙々と食べる。

 やがて母親も席に着き、黙って食べ続ける「娘」の姿を物珍しげに眺めた。

「今日はお腹すいてたのねぇ」

 ピタリと手を止めた。

 ――しまった……!

 江美は少食だ。いや、それは家の中だけであって、外では人並みによく食べているのだが。その理由を江美が素っ気なく言っていたのを思い出す。

「あの人の作ったものは不味いから」

 そんなことは、ない。

 美鈴は震える手に力を込めた。こんなに温かくて美味しいものを不味いという方がおかしい。

 まろやかで少し酸っぱいソースの味が優しく、冷え切った心に沁みていく。

 しかし今は、自分の感情はいらない。

 ――江美ちゃんにならなくちゃ……。

 美鈴は半分だけ残すと、ありあわせの野菜を口につけて席を立った。

 すぐさま江美の部屋へこもり、またもやベッド脇で小さく隠れるように蹲っていた。

 緊張はいつまでたっても消えてくれない。力が緩めば、すぐに化けの皮が剥がれそうだ。

「江美ちゃん? お風呂に入っちゃいなさぁい」

 優しく響くその声に美鈴は肩を震わせた。

 ――お風呂……せっかく江美ちゃんがメイクしてくれたのに、落としちゃったらおばさんにバレてしまう……。

 美鈴は立ち上がり、部屋の中をぐるぐると回る。動いても状況は何も変わらない。しかし、これ以上じっとしているのは耐えられなかった。

「どうしよう……」

 ここは素直に入るべきか。

 しかし、そんなことをしたら江美の母も江美自身をも裏切ることになる。どうしたらいいか――

 その時。

 携帯電話の着信音が鞄から聴こえてきた。

「ひぃっ!」

 あまりに突然のことだったので思わず声を上げてしまう。

 震える手で鞄の中から、携帯電話を取り出した。折りたたみの、ピンク色の丸いフォルムをしたコンパクトな最新機種。江美が美鈴に持たせたものである。

 開くと、画面には知らない名前が表示されていた。どうやらメールの着信だったらしく、音はすぐに鳴り止んだ。

『もうすぐ帰るから、二丁目のさくらんぼ公園に来て 江美』

 メールボックスを開くと、そこにはそう書かれていた。

 ――助かった……。

 ほとばしる安心感に、思わず息を吐き出す。美鈴は鞄の中へ携帯電話を入れた。

 すぐさまここから離れたかった。手のひらが汗ばんでいて気持ちが悪い。部屋を出ようと、ドアノブに手をかける。

 開けると、目の前が陰った。淡い黄色のスリッパが目にとまり、思わず立ちすくむ。

「……あぁ、やっぱり」

 江美の母が、真っ直ぐに自分を見つめていた。

 ――なんで、なんで、なんで……どうして気付かれたの……?

「さっきからおかしいとは思ってたけど、やっぱり。美鈴ちゃんね。背格好が似てるから一瞬、江美だと思ったけど。ずっと俯いているからおかしいと思ったのよ」

 江美の母は、穏やかな口調で言った。しかし、どこか冷ややかさが混ざっている。美鈴は後ずさり、唇を震わせた。

「江美は? どこにいるの?」

 何も言えなくなった美鈴に、江美の母親が詰め寄る。

「どこにいるの!」

 一際大きく彼女は叫ぶ。その迫力に美鈴は座り込んでしまった。

 この表情を知っている。そう。これは江美の、あの威圧する表情かお……。

「ご、ごめんなさいっ」

 美鈴は顔を手で覆った。目を瞑り、縮こまる。

 その時、鞄の中の携帯電話が再び音を響かせた。

「……江美ね」

 察知した江美の母が美鈴から鞄をもぎ取る。そして中から携帯電話を見つけた。慣れた手つきでメールを開き、パタンと画面を閉じる。

「二丁目の公園ね。美鈴ちゃん、一緒に来なさい」

 そう言って美鈴の手を掴むと、外へ引っ張り出した。


 ***


「江美!」

 公園に着くなり、江美の母は娘の姿を見つけて怒鳴った。

 目を大きく見開く江美が実母を見、そして連れてこられた美鈴を見る。彼女は小さく舌打ちした。

「今までどこにいたのっ! もう夜中の十一時よ!」

 その怒鳴り声にも江美は知らぬ顔。ただ美鈴を睨みつけている。

「江美! なんとか言いなさい!」

「……何よ。別にいいじゃん。まだ日付変わってないし」

「そういう問題じゃないでしょ!」

 悪びれもしないない娘に、激高した母は手を振り上げた。真正面から平手打ちを食らった江美はバランスを崩してよろめく。

「少しは反省しなさい!」

 ピシャリと言い放つと今度は、後ろにいる美鈴の方を向いた。威圧的な表情が困惑へ一気に色を変える。

「美鈴ちゃん、ごめんなさいね。こんなことに付き合わせて。でも、言ってくれても良かったでしょう? こんな、化粧までして騙そうとするなんて……お家には後で連絡しておくからね」

「……すみませんでした」

 俯いたまま、美鈴は上ずった声で謝罪した。そんな彼女に、大人は優しさと冷たさを半分にした手のひらで頭を撫でる。

 許されたのかは分からないが、恐る恐る顔を上げた。江美の母に温かさはない。

 次に、その奥にいる江美を見やった。

 ――っ……!

 息を飲んだ。

 江美は憤怒の形相でこちらを睨んでいた。すぐさま目を逸らす。

「家まで送りましょうか?」

 娘たちの無言の会話に気付かず、江美の母は言う。美鈴は慌てて首を振った。

「いいえ! いいです! すぐ、そこなので……」

「そう……分かったわ。気をつけてね」

 まだ怒りが冷めやらないのか、江美の母は素っ気なく言うと、娘の腕を掴んで美鈴から背を向けた。

「……明日、覚えとけよ」

 江美の唸る声が耳元を掠り、身体の側面がひりりと痺れた。

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