case7:シンユウ

シンユウ①

「あんたが悪いのよ」

 突きつけられた言葉には、全身を拘束するほどの力があった。小さく丸まった背中は震えを帯びている。

 その様子を、上から蔑むように見下ろす女子生徒。彼女は圧を漂わせていた。

「ごめん……なさ」

「それ、片付けといてね。分かってるだろうけど、それ、私のせいにしたら許さないから」

 そう言葉を投げつけると、彼女はさっさと教室を出ていった。残されたのは、野暮ったい眼鏡の弱々しい少女。

 床に散らばった硝子の破片を拾う。教室にはもう彼女だけであり、先程までの荒々しい空気が嘘のように、しんと静まっていた。

 陽が傾き始め、十七時にしては早く、空の流れが変わっていく。沈みゆく太陽は真っ赤に燃えていた。

 とろとろと手を動かすこと、数分。指先にちくりと痛みが走る。

「いった……」

 欠片の中でも一際、鋭利な形状の硝子が指に刺さった。赤い点だったものがむくむくと膨らみ、血だまりとなって溢れだしてくる。

 気怠げに傷跡を舐め、作業の手を再開させた。

「――あら? 誰かまだいるのね……あぁ、なんだ。朝田あさださんじゃない」

 開け放たれたドアから、涼やかで無感情な声が響き渡る。

 振り向くと、そこには黒い髪に白い肌、真っ赤な唇がよく似合う同じクラスの雅日みやび智夜子ちやこだった。

「何してるの? こんな時間まで」

「え? いや……ちょっと、ね……」

 咄嗟に立ち上がり、散らばった硝子を隠そうとした。しかし、それは見逃されず、智夜子は机の脇をすり抜けてこちらへ向かってくる。

 夕陽に照らされ、光るそれを智夜子は眩しそうに目を細めて見た。

「手伝うわ」

「えぇ? いいよ……大丈夫だから……」

「一人でやるよりいいでしょ」

 冷たく言いいながらも、智夜子は掃除用具入れの箒とちりとりを出してきた。そんな彼女の様子に唖然としてしまう。

 智夜子の印象は無口で無情。周囲を遠ざけているようで、近寄り難い存在として認識していた。遅れを取りつつも、急いで智夜子からちりとりを受け取る。

 智夜子は手際よく床を掃いた。

「……それで?」

 破片を全て回収して、ようやく智夜子が問う。

「誰が窓を割ったの?」

「え?」

 彼女はまっすぐに自分を見据えていた。それ故に視線がどうしても下に向かう。

「あ、えと……私……です」

「本当に?」

「えぇ……と……」

 弱々しく怯えていると、智夜子は溜息をついた。どうにも釈然としない様子で。

「とりあえず、先生に言った方がいいわよ。私もついて行くから」

「でも、そんな……悪いよ」

 掃除まで手伝ってもらったほか、そこまでしてもらえる義理はない。今まで、彼女に冷めた印象を持っていたせいもあり、怖気づいてしまう。

 智夜子は困ったように、眉をひそめて顔を覗き込んできた。

「今日だけよ。いつも私が優しいとは限らないわ」

 そう言うと彼女は音もなく移動し、廊下へと出て行った。呆けてその後姿を見ていると、教室の入口から智夜子が顔を覗かせる。

「ほら、行くわよ」

「あ、うん……!」

 言われるままに、慌てて彼女の後を追った。


 教師に叱責を受けたが、智夜子のおかげで話が早く済んだ。てきぱきと事情を述べ、自分は横でひたすら頭を下げていただけ。

 夕焼けが闇へと飲み込まれそうな頃、ようやく二人は職員室を出た。廊下を並んで歩くと薄く伸びた影が揺れる。

「あの、雅日さん。ありがとう、ね………」

「別にいいのよ。丁度、暇だったもの」

 智夜子はぶっきらぼう返してきた。

「ただ、忘れ物をしただけだから。そのついで」

「あ……あぁ、そうなのね」

 こういう時、気の利く言葉が思いつかない自分が腹立たしく思える。会話が続かない。

 ――こんな調子だから、いつも江美えみちゃんに怒られるんだ……。

 あの荒々しい幼馴染、江美の怒りに歪んだ顔を思い出す。

 ぐずぐずともたもたと、その動作が「うざい」と罵倒され、それでも何も言えずにいると気に入らないとばかりに机を蹴飛ばされた。

 そして、怒りが収まらない彼女は、窓ガラスを割って……

 江美の癇癪は、子供の頃よりも増している。そのせいで、更に怯えてしまう。

 嫌な思いが胸の中で膨らんでいき、打ち払うように頭を振った。

 教室へ戻ってくると、時刻は既に十八時近い。智夜子は忘れ物を自分の机から出し、鞄を掴んだ。帰り仕度をしていたら、彼女はもう教室から出ようとしている。

 ――あぁ、ほらまた。一歩踏み出さないから私は……!

「あ、あのっ!」

 咄嗟に、廊下へ出て行く智夜子に声をかけた。

 ゆっくりと長い髪をなびかせて振り向く智夜子。その顔には丁度、黒い影ができていた。どんな表情を浮かべているのか分からない。

「何?」

「あぁ、あの……」

 上手く舌が回らない。スカートを固く握り締め、意を決して口を開く。

「い、一緒に帰っても……いい、ですか?」

 その声に、智夜子は真っ赤な唇を小さく開けた。息を飲んだような、そんな微弱な音が聴こえた気がする。それから、間もなく智夜子はその口元に微笑を浮かべて息を吐いた。

「いいわよ」

 その声は、柔らかく、どこか嬉しそうな響きを感じた。


 ***


 翌朝。いつものように、江美の家まで迎えに行く。朝が弱い江美を起こすのは、小学生の頃からの日課である。

「江美ちゃん、学校行こう。起きて」

 部屋に上がり込み、ベッドで眠っている彼女の脇で正座したままで、掛け布団を揺する。

 江美は薄っすらと目を開けると、こちらを見やるなり不機嫌に顔をしかめた。

「……うっざ」

 小さな声が聴こえたが、寝起きの悪い江美のことなので日常茶飯事である。苦笑しながら、江美の起床を待った。

 しばらくもぞもぞと布団の中を動き回る江美。ゆったりとした動作で支度を始める。

「あ、そうだ」

 それまで不機嫌に黙りこくっていた江美が唐突に言った。

美鈴みすず、明日から来なくていいから」

「え?」

 意味が分からず首をかしげる。江美の苛立ちが、僅かに感じられた。

「聞こえなかった? 明日から来なくていいって言ってんの」

「……なん、で?」

 恐る恐る問うと、江美は細いリボンを結びながら苛立ち紛れに返した。

「そんなの、いちいち言わないといけないの? 美鈴には関係ないでしょ」

 ピシャリと言われれば、返す言葉が見つからない。それからはもう口を開けなかった。


 そのまま時間は過ぎていき、予鈴の八時半が迫る。いつも遅刻ギリギリで学校へ辿り着いてしまうのは、江美が駄々をこねるからだ。

 朝食もそこそこにのんびりと家を出て、ふらりふらりと町を歩く。その後ろを美鈴は何も言えずにただ黙ってついていくだけ。

「おはよう」

「おはよ~江美」

「またギリギリじゃん」

「え~? だって朝ってキツいしさぁ」

 賑やかな教室で、江美は花のような笑顔を振りまいた。彼女と仲がいい女子生徒が賑やかに笑い合う。一方で美鈴は教室に着くとすぐに自分の席へ駆ける。あまり目立ちたくない。

「おはよう」

 突然、横から声がした。一瞬、誰に向けられて言った言葉だったのか分からず、反応が遅れてしまう。美鈴はその声がした方へ首を向けた。

 見えたのは、悠然と無情を貫く智夜子。

 まさか……

「おはよう、朝田さん」

 もう一度、彼女は抑揚のない声で言う。素っ気なさは相変わらずなのに、温かみを感じるのは何故だろう。

「お、おはよ」

 美鈴は慌てて挨拶を返した。

 何気ないことなのに、どうしてだろう。気分が舞い上がる。嬉しさがこみ上げる。

 しかし、智夜子は特にそれ以外の用事はなかったようで、自分の席へと戻って行った。

 ――あぁ、そこから会話を広げたら良かったんだ!

 気づくのに数分かかり、美鈴は頭を抱えて後悔した。

 普段、江美以外とは会話をしない。そのせいなのか分からないが、会話が下手だということはなんとなく自覚はしている。

 ――次だ。次こそ、話しかけられたら、ちゃんと話すんだ。

 言い聞かせるように、頭で反復しながら美鈴は両手のひらをぐっと握った。


 だが、授業が始まればその意気込みも嬉しさも収縮していった。

 その大きな要因は、「明日から来なくていいから」という今朝方、一方的に告げられた江美の言葉。そのせいで、美鈴は江美に話しかけることが出来なくなった。

 なんだか突然、壁を造られたように思えてしまう。十年以上は一緒に行動していたのもあり、急激な変化に上手く対応が出来ない。昨日のことをまだ怒っているのだろうか。江美は癇癪は酷いが、あまり引っ張らない。気分屋であるのだろうが、彼女の言動にいちいち深刻に捉えてしまう。

 移動教室も一人。休み時間も一人。

 ぽっかりと心に穴が開いたような隙間風が吹く感覚……いつも江美の後ろにくっついていたのは、そうしておかないと、自分の居場所がなくなるような……惨めさを感じてしまう。

 江美もなんだかんだ言いつつ、頼るのは美鈴だった。

 朝、起こしに来てほしいと頼んだのはそもそも江美なのだから。

 いつもなら、従うように江美の後ろについていき、一緒に昼食をとるのだが、あまりにも気まずいので近づけなかった。チャイムが鳴れば、すぐに屋上へと走る。

 季節は秋。そろそろ冬が近づいている為、風が強く、良い天気とは言えない。

 突風のせいか、屋上には誰もいない。

「寒いなぁ……」

 だが、今更教室には戻れない。もしかすると、何事もなかったようにやり過ごせるのだろうが、江美が他の誰かと仲良く昼食をとっていると、こちらの惨めさを再認識してしまう。

 仕方なく、風の当たらない場所を探して冷たい床に座った。

 母はいつも家にいない。弁当など用意されていることなど一度もない。美鈴はいつもパンで昼食を済ませていた。いつもの大きなメロンパンを頬張る。しっとりと甘いはずなのに、美味しさを感じない。

 ゆっくりと口に含む。黙々と、淡々と。頬張って飲み込む。その作業を繰り返す。

 すると突然、屋上のドアにゆらりと人影が現れた。

「朝田さん。こんなとこにいたの」

 長い髪をなびかせて、こちらに向かってくるのは智夜子だった。その口ぶり、ずっと美鈴を探していたように思える。

「さっき、田代たしろさんが探していたわよ」

「え? 江美ちゃんが?」

 嘘だと思った。

 そんなわけない。だって、江美ちゃんは私のこと……。

「頼みたいことがある、とか言ってたわね。まぁ、私には関係ないことだけれど」

 随分と無愛想な言い方に、美鈴は顔を強張らせる。

「頼みたいこと……」

 なんだろう。美鈴は残っていたメロンパンを一気に頬張り、慌てて立ち上がった。

「あ、ありがとう。ちょっと行ってくるね」

「えぇ、行ってらっしゃい」

 風のせいで上手く聞き取れなかったが、智夜子の真っ赤な唇がそう動いたように見えた。


 ***


 頼みたいこととはなんなのだろう。雑用ならいつものことである。

 美鈴はもつれそうになる足を必死に動かして教室まで走った。

「あ! 美鈴! もう〜っ、どこ行ってたんだよ!」

 教室に戻るなり、江美の怒鳴り声が美鈴の頭に降り注ぐ。

「へ?」

「へ? じゃないよ。どんくさいなぁ! いいから、ちょっとこっち来て!」

 江美は頭を乱暴に掻くと、強引に美鈴の手首を掴んで教室の中へ引っ張った。

 一体、なんなのか。また自分は彼女を怒らせるようなことをしたのか。美鈴の中でぐるぐると不安が渦巻く。

 江美は美鈴の席まで行くと、彼女を強引に座らせた。着席し、美鈴はそろそろと江美を見上げる。

 彼女は不機嫌な顔を少し緩めていた。咳払いをし、美鈴の耳元まで顔を近づける。ふわりと、甘い香りが美鈴の鼻腔に届いた。

「今日の放課後、暇?」

「えっ? うん……」

 江美の囁きに、美鈴も合わせた小声で返す。

「よし。それじゃあ、私の頼み、聞いてくれるよね」

「え……?」

 意図が分からない。江美の顔をちらりと見る。

 威圧的な目が光り、美鈴の体に突き刺さった。これはもう黙っておいたほうがよさそうだ。息を飲んで江美の言葉を待つ。

「私ね、今日、彼氏と約束があるの。でもうちの門限って六時じゃん? 遊び行けないからさぁ〜、あんた私の身代わりしてくれない?」

「えぇっ?」

「うち厳しいの知ってるでしょ。彼氏と遊ぶ〜なんて、あのババアが聞いたら、めちゃくちゃ怒るに決まってる。だからさ、ね? 身代わりになってよ」

「え……でも……」

 冷や汗が頬を伝う。張り詰めた二人の空間を、周囲の人間は我関せずと言った様子で見向きもしない。

 美鈴は挙動不審に、視線をあちらこちらへ這わせた。はた、と江美と目が合う。彼女は満面の笑みを浮かべていた。

「美鈴、暇なんでしょ? だったら、やってよ」

「あ……う……」

「やれ」

 鋭利な声は、美鈴の動きを縛るのに充分だった。恐怖に支配され、思わず頷く。

 すると、江美は美鈴の頭を優しく撫でた。

「ありがとう〜! やっぱり美鈴は優しいね!」

「えっと……」

「じゃあ、放課後。よろしく〜」

 会話の終了を宣言すると、もう用済みとばかりに江美は友人の元へと向かう。呆然とその後姿を眺める美鈴。

 軽薄な笑い声が耳の奥へ流れ込み、それはやがてざわざわとした痒みへと変えた。

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