兄妹④
外はもう暗かった。窓が風に叩かれ、震えている。
暖房が切られたのか、相談室の中はしんしんと冷えていく。
「死、んだ……?」
晃太郎は震える手のひらを見つめた。いつまでも温もらない冷えた指先に色はない。
すべて思い出した。なんだか右目が疼くように痛む。体の中が軽く、空っぽな気がした。
「俺、は……死んだのか? あの日……」
事実を突きつけられても、信じられるはずがない。受け入れられない。だって、今、こうしてここに存在しているではないか。
「そうよ」
智夜子の無情な声が、頭上から落ちてくる。晃太郎は床に膝をついたまま、ゆっくりと視線を上げた。
「なんで、忘れていたんだ? こんなことって……」
じくじくと疼く右目をさする。
すると、智夜子の哀の色を含んだ息が、晃太郎の震える両手にかかった。
「死者が自分の死を認識してないなんて、よくある話よ」
その言葉に息を飲む。
事実の重みに耐えきれない。喉の奥が締め付けられるようで、苦しい。
「最初はね、覚えていたのよ。それで、私は貴方の話を聞くことにしたの。色んな話をしたわ。それで終わると思ったら……次の日、貴方はまたここへ来た」
淡々と、抑揚のない説明が耳の奥へと流れ込む。
「次の日も、その次の日も。日が経つうちに、貴方は一つ一つ記憶をなくしていった。死んだこと、自分のこと、名前。でも、妹のことだけはしっかりと覚えていた……貴方は、欠落した記憶を探すために彷徨っているのよ」
軽く床を踏み鳴らしながら、ゼミテーブルへと移動する智夜子。彼女はテーブルの向こう側にある椅子に座ると、もう一方のパイプ椅子を示した。
「座って話しましょう? まだ長くなりそうだから」
晃太郎はふらりと立ち上がると、黙ってそれに従った。
再び彼女と向かい合う。今度は視線が同じだ。
「――さて」
智夜子はスラリとした指を組むと、その上に顎を乗せた。小指から伝っていた血がいつの間にか止まっている。
「最初に会った時の貴方は……あぁ、貴方が生きていた時ね。いかにも真面目で堅苦しい印象だったわ」
「はぁ……」
「だから、私も心配していたの。貴方と妹さんは仲が良くても相性は良くない。悪い結果へ向かわなければいいけれど……と。でも、それは無理だったようね」
「死んでますからね」
晃太郎は素っ気なく無愛想に言った。
対し、智夜子は苦笑する。初めて、彼女の感情に触れた気がした。冷たさの塊のような、人形のような印象だったので思わず拍子抜けする。
「そう。悪い結果へ進んだ……じゃあ、問いましょう。これは、誰のせいだと思う?」
「智夜子さん、じゃ?」
考えるよりも先に言葉が口をついて出て来る。しかし、釈然としない。
それに気がついたのか、智夜子はバツが悪そうに顔を歪めた。
「おかしいわね。私のせいだって罵ればいいじゃない。それなのに、どうして迷うの?」
「いや……何か、違う気がして」
晃太郎の答えに、智夜子は目を瞠った。しかし、それは一瞬のことで、彼女はすぐに調子を戻す。
「誰のせい、なんでしょうね……」
晃太郎は首をもたげて、薄暗く陰る天井を眺めた。
「それこそ、最初の貴方からは見違えるくらいに変わった。裏を返せば、大吉晃太郎という人格が薄れていった。だから、私は真実を伝え続けたわ」
彼女の口ぶりからして、今日の訪問がもう幾度とないことは分かる。
何度、智夜子と顔を合わせ、死んだ事実を告げられたのだろう。何度、絶望したのだろう。
不毛だとそっと自嘲する。
「妹さんのことだけを忘れなかったのは、恐らく、貴方が後悔していたから、でしょうね。拒絶せず、もっと理解してあげれば良かった、と強く願ったのね」
智夜子の声は柔らかい。その解説に、晃太郎はごくりと唾を飲んだ。
そんなことが起こり得るのだろうか。いや、現に死んだ人間がこうして学校を彷徨っている時点で、論理的な説明ができない。
「貴方は、随分と思考が柔らかくなった。単純になった。後悔して、変わろうとした。妹さんのこと、本当に大事に思ってるのね」
「……ただ、妹に甘いだけですよ、俺は」
嘆息する。そして、口からは笑みが溢れる。
「死んでも尚、後悔して呆気なく自分を捻じ曲げてしまって。ほんと、甘すぎる」
「……まぁ、そう捉えてしまうのも、仕方がないのかもしれないわね」
納得したように頷く智夜子は、テーブルから身を乗り出すと晃太郎に顔を近づけた。
「でもね、大吉くん。これは良い傾向なのよ。気づかずに死ぬよりも気づいておいた方がいいじゃない?」
「それは……」
死んだら元も子もないだろう、と思うのだが智夜子のそれは恐ろしく不器用な慰めだと察する。素直に受け取っておこう。
「えっと……俺は、なんで日が経つうちに記憶を無くしていたんですか」
「死んだことを認めたくなかったから」
「……」
「本当は死にたくなかったのだから。認めたくなかったから忘れようとする。生きているのだと思い込む。そしたらもう……あの、おぞましい記憶なんて必要ないわよね」
断片的に蘇る惨劇に青ざめながら、晃太郎は頷く。
「なんでもお見通しって感じですね」
「当たり前じゃない」
自信満々に答えてくれる。
今度は晃太郎が身を乗り出して、彼女に近づいた。
「それじゃあ、教えてくれませんか? 俺は何を探しているんでしょうか」
「……? 記憶、だけじゃなくてってこと?」
眉をひそめる彼女に、晃太郎はこくりと頷く。智夜子は腕を組むと、背もたれに体を預けた。
「そうねぇ……何かしら」
「あれ? 智夜子さんにも分からないことがあるんですか」
意外な反応に思わず訊く。そんな晃太郎の驚きに、智夜子は鼻を鳴らした。
「私は万能じゃないの。ただの相談室室長よ」
「……ただの、ですか」
「そうよ、ただの一般人。あまり期待してほしくないものだわ」
つっけんどんに言われる。それならもう明確な
それならば、と晃太郎は別の問いを投げることにした。
「じゃあ、もう一つだけ。明日……俺はここに来るんでしょうか」
「探し物が見つからなければ、でしょうね」
ゆっくりと思案めいた声が返ってくる。
――探し物が見つからなければ、か。
膝の上に置いた拳を強く握り、彼は言葉を噛みしめる。そして、固く強張った声で尚も問うた。
「どうしたら見つかりますか?」
彼女の眉毛が不機嫌につり上がる。そして、真っ赤な唇から溜息を吐き出すと、脱力したように肩をすくめた。
「……仕方ないわね。私が探してあげるわ」
「え! 本当ですか!」
「うるさいわね。二度は言わないわよ」
彼女の声はぶっきらぼうだ。
一方、思いもよらぬ展開に喜びを隠しきれない晃太郎は、へらっと口元を緩ませた。
それを見やる智夜子も、苦笑を浮かべる。
「さぁ……そろそろ時間よ」
声を合図に、窓へと目を向けた。
冷たく張りつめた硝子越しに濃紺の夜空が見える。
「あれ? そういえば智夜子さん、寒くないんですか? セーターもブレザーもないみたいですけど」
「あぁ、持ってないの」
サラリとした答えが返ってくる。
しかし、校舎内とは言え暖房もついていない教室で、上着を持たないというのは妙な話だ。
晃太郎はじっと目を凝らし、彼女を調べた。
白いシャツと黒のスカート。学校指定の制服なのだが……何かが、変だ……何か……すると、赤いリボンに目が留まる。
「――あの、智夜子さん……俺はその、幽霊ってやつなんでしょうか?」
晃太郎は恐る恐る訊いた。
対し、智夜子は怪訝な様子を見せる。
「何よ、急に。幽霊なんているわけないじゃない」
「それなら……俺は一体なんなんですか?」
意図が見えないのか、彼女は眉をひそめて首を傾げた。
一方で、晃太郎はごくりと唾を飲み、緊張を喉の奥に溜め込む。
「思念、かしらね。思いが強くなればなるほど、そこに留まりたいという……それがどうしたのよ」
「じゃあ、今こうして俺と話をしている貴女は、なんなんですか?」
口にしてすぐ、訊いてはいけないような気がした。
智夜子が僅かに目を細める。
「――さぁね」
しばらく待った答えは素っ気ない。
声に冷たさは含まれてはいないが、何故だろう。寒気が走る。
「いや、でも……俺が幽霊じゃないにしても、その、普通の人と会話なんて出来るわけない、と思うんです。でも、智夜子さんは会話が出来ている。それに、こんなに外は寒いはずのに、上着を持ってないなんて……しかも」
晃太郎は思わず言葉を切った。
ずっと抱いていた違和に気付く……智夜子の制服におかしな点が一つだけ、ある。
「しかも、何?」
先を促される。その威圧に怯んでしまいそうだったが、小さく、か細く言葉を紡ぐ。
「その制服、今のものと、少し……違うんです」
今まであまり意識して見てはいなかったが、現在、女子の制服は見た目こそ変わらないものの、八年前に一新されたらしい。その特徴として挙げるならば、平べったく広がった赤いリボン。しかし、智夜子の胸元で揺れるのは、細長く赤いリボンだった。
「そうだった、かしらね」
智夜子は不気味にニヤリと笑う。唇が三日月の形へと変わった。背筋がぞくりと震える。
「貴女は、一体……」
「大吉くん。そろそろ、時間よ」
鋭く遮断される。晃太郎は彼女の目を見ることが出来なかった。
これ以上はもう何も聞けない、いや、聞けるはずがない。既に疑念は怯んでしまった。
「また何か、困った時や悩みがあったらここへ来るといいわ。そうすれば、この相談室の扉は再び開くわ」
凄みがすっかり失せた智夜子。毒々しさはあるものの、声は幾らか柔らかい。
晃太郎は引きつっていた頬を緩めた。
「また会いましょう。智夜子さん」
***
十一月の下旬。木枯らしが一層吹き荒れていた日のこと。
放課後の空き教室には「学園相談室」という看板が。
「本当に、あったんだ……」
その日、一人の女子生徒が訪れた。小さくノックをしてみる。
「どうぞ」と静かな声が、ドア越しに聞こえた。挙動不審に中を覗くと、美しく整った顔立ちの女子生徒が、ゼミテーブルに腰掛けてこちらを見ている。
「学園相談室ラビリンスへようこそ。私は雅日智夜子。貴女の悩みは何かしら?」
涼やかだが、圧のある口調。その冷たさに思わず竦み上がる。
「えっと、あの……私……っ、その……」
「ゆっくりでいいわよ」
慌てる口を塞がれる。
息を深く吸い、呼吸を整えると辿々しく口を開いた。
「……あの……兄を、殺したいんです」
薄く、途切れ途切れの声が、室に吸い込まれていく。
ゆったりとした空間。しかし、穏やかさはない。
「一年G組の大吉美里さんね。お兄さんを殺したいという動機はなんなの?」
智夜子は「兄を殺す」という言葉に驚きもせず、淡々と訊いた。一方、美里は爪を弄り、辺りを見回し、何かと忙しない。
「ええっと……私は兄が好きで、でも兄にはそれを受入れてもらえないので……だから……その」
「殺したら、お兄さんは貴女の側からいなくなるのよ?」
しかし、美里は首を大きく振った。
「それは違います。今、殺しておかないと、もし将来、お兄ちゃんが結婚なんてしたら私、私……」
「今の状態を保ちたい、と。それなら殺して、この瞬間を永遠のものにしたい、と。そういうことかしら?」
「はい」
美里の揺るぎない返事に、智夜子は溜息をついた。心底、呆れたような表情で。
「あのね、大吉さん。殺す事はね、誰だって簡単に出来るのよ」
「え?」
美里は目を瞠った。その反応に、智夜子は薄ら笑う。
「ただ、実行するかしないか。思うか思わないか。それだけのこと。勿論、他言なんてしてはいけない。ただし、リスクは高いわよ。お兄さんよりも、自分がほんの少しでも大事だと思うのならば辞めなさい。でも、その逆なら……覚悟をしなさい。ここから先の自分の未来を全て失うことになる」
「未来なんかどうでもいい」
震える声で遮り、美里は顔を手のひらで覆った。
「お兄ちゃんのことが好きな以上、私にはもう未来なんてない」
沈黙する。時計の針も、風の音も、廊下を歩く人の足音すら聞こえない。無音の空間。
ほんのりと赤を帯びていた教室が黒へ染まっていく。
その暗さに頭が痛くなってくる。天気が悪い日はいつもこうだ。
――そろそろ帰らないと、お兄ちゃんが心配する……
美里は兄の顔を思い浮かべると、少しだけ頬を緩めた。
「ありがとうございました、智夜子さん。それじゃあ私、帰ります」
入って来たときよりも清々しく、無邪気な笑顔を見せる。
しかし智夜子は笑顔を返すことなく、美里の背に声を投げた。
「大吉さん。貴女は、お兄さんを殺しても一緒にいたい。そうよね?」
「……はい」
「でもね、ずっと一緒にはいられないわよ。お兄さんの死体をどうするつもり?」
背筋に電気が走る衝撃を感じた。
目を大きく開き、智夜子の真っ赤な唇を見る。
「死体が見つかれば、当然、貴女は捕まる。それからお兄さんは警察に回収され、解剖され、焼かれて灰になるのよ。大好きなお兄ちゃんが色んな人の手に渡る。触れられる。晒される。身体の外から内側まで、全部……それでもいいの?」
美里は再び俯くと、爪を噛んだ。
智夜子はゼミテーブルから降りると、彼女の元へ歩み寄った。
「嫌でしょう? それじゃあどうするべきかしら?」
――お兄ちゃんは、誰にも渡さない。だったら……どうしたら?
痛みが脳を締め付ける。美里は目を瞑り、ぐるぐると回る感情と思考を握りしめた。
その時。
ひらり、と名案が舞い降りてきた。
「――まったく、兄妹って似ているのね。揃って私のところへ来るなんて」
数日前のことを思い出した智夜子は、呆れた呟きを浮かべた。
暗い校舎の中を歩く。既に夜は更けていたが、真っ暗な校舎を慣れた足取りで進む。
やがて彼女は立ち止まった。
「相談室……」
結局、晃太郎の探し物は見つからなかった。どの教室にも無かったが……
智夜子は相談室の扉を開けた。そして室の一角にあるチェストを見やる。
下の段。大きな扉に手を掛ける。長く使っていないはずなのに、蝶番は小さな音を立てるだけですんなりと動いた。
「――大吉くん、探し物が見つかったわよ……」
憂いを帯びた、その声。智夜子は落胆の息を吐いた。
「良かったわね。明日から来なくてもよさそうよ」
そこには、つい一週間前まで、元気に何事も無く過ごしていた彼の見る影も無い無惨な姿がひっそりと眠っていた。
色のない表情を浮かべた智夜子の黒眼に映る。
――ねぇ、一体、どれが正しかったのかしらね。
***
後日談。
行方不明となっていた男子高校生が、校舎内の奥深くで見つかった。
四肢が全てバラバラにされ、繋ぎ合わせたような形で。
《case6:兄妹、了》
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