兄妹③
その日、相談室に彼がやってきた。
酷く落ち込んだような、それでいて混乱したような、とにかく彼は動揺していた。
「突然だったんです」
重々しく口を開いた彼から告げられる声には、戸惑いが溢れている。
「昨日、いきなり部屋に入って来たかと思ったら、強引に……」
「キスをしたの?」
智夜子は素っ気なく聞いた。彼は赤面し、そして顔をしかめた。
「だって、妹ですよ? 元々仲は良かったけど、さすがにそれは……いくらなんでもあり得ないですよ。なんで、あいつはいきなり……」
「それは好意を持っているからよ」
「だからって、そう簡単に割り切れるわけがない」
項垂れて力なく言う彼の頭を、智夜子は目を細めて見つめていた。
「妹さんって本当に血縁者なの?」
「勿論、兄妹ですよ。一つ下の。ここの一年です」
「一年G組の
サラリと言い当てられ、彼は思わず顔を上げた。目を開かせて、唖然と智夜子を見る。
「妹ね……でも、妹だから、とか、家族だから、とか。そういうの本人には関係ないことよ。恋心というものは、コントロール出来るものじゃないの。果のない欲望……一度嵌まればなかなか抜け出せないわ」
「でも……! そんなの……俺にどうしろって言うんですか」
いくらなんでも、許容できない。彼は苛々と頭を掻いた。どうも冷静でいられない。
その様子に溜息を吐く智夜子。こちらはどうやら退屈そうだった。
「まぁ、一度だけでも付き合ってあげたら?」
「はぁ?」
この女は一体、突然に何を言い出すのだろう。
「何言い出すんですか。冗談にもほどがある。こっちは真剣に話してるんです!」
「私だって真剣よ」
智夜子は心外だと言うように、眉を寄せた。しかし、彼のしかめた顔を見るなり肩をすくめる。
「話を戻しましょ。妹に迫られて、貴方はどうしたの?」
淡々とした声には、こちらの感情を汲み取ってはくれない。もう少し親身になってくれてもいいじゃないか、と彼は不満げでいる。
「……突き飛ばしました」
「あら」
「そして怒りました。何するんだって言いました」
「あらあら」
「そしたら……美里は泣いて自分の部屋に戻りました」
「まぁ……それはもう、どうしようもないじゃない」
智夜子の声には、同情の欠片もなく、むしろ蔑む響きがあった。
「好きなのよ。貴方のことを。兄としてじゃなく、異性として」
「やめてください」
彼は言葉を遮るように、鋭く言った。険しい顔つきで彼女を睨む。しかし、智夜子は怯む事なく後を続けた。
「動揺するのも分かるけれど、きちんと考えてあげたほうがいいわよ」
「美里が俺に好意を持っていることを、ですか?」
彼は智夜子の言葉に嘲笑を投げた。その態度に、智夜子も不機嫌になったのか鼻を鳴らす。
「ただ頭ごなしに怒っても、妹さんの気持ちを分かってあげられないでしょう? きちんと向き合うことをお勧めするわ。今後、どうしたいのか、どうするべきか話し合いなさい」
ピシャリと厳しく言われる。
それには確かな説得力があり、彼ももう反論する気にはなれなかった。意固地になっていることにも気が付き、苛立ちが収縮していく。
「……それなら俺は、アイツが道を誤らないように正しい方向に導きますよ。兄として」
「まぁ、立派な判断ね。褒めてあげるわ」
まったく褒められていないように思えるのは、彼女の仕草がわざとらしいからか。手のひらをパチパチ小さく叩く智夜子を見ていると、疲労が伸し掛かってきた。
「それにしたって、なんでこんなことに……」
彼は脳裏に浮かぶ妹の顔を見た。
里美の潤んだあの目……悲しいわけでもなく、怒っているわけでもなく、向けられる視線に熱を感じる。
滑らかな肌が触れ、艶っぽい声で甘えてくる妹……その姿が……
「禁断の恋、というのはね、いつの時代も人気なのよね」
髪の毛束を指で弄びながら、智夜子が言った。
「許されないから燃え上がる。創作の世界だとしても、時には現実として見てしまうこともある。難しいわよね、人の気持って。止めることも暴走させることも本人にしか出来ないのだから」
「……俺には全く理解できません」
今まで男女の関係というものに触れる機会がなかった。恋愛というものに鈍感で興味も持てない。
それに、妹が幼い頃、不審者に誘拐されたことがある。犯人が妹に何をしたか……思い出したくもない。
そんな忌まわしい思いを巡らせていると、智夜子が目の前まで身を乗り出してきた。そして、彼の拳を包むように手のひらで握る。
ひんやりと氷のような冷たい手が触れ、彼は思わず身震いした。
「分かるわよ。貴方が認めたくない気持ち。実の妹がそんなだったら気持ちが悪いのよね?」
「え? いや、別にそこまでは……」
「でも、貴方はそう思っているのよ。そういうことを軽蔑しているから拒絶する。自分が正しい。だから、自分の信じる事に外れた意見を持つ者を受入れない。見向きもしない。貴方はそんな回りの人を軽蔑して、嘲笑っている」
言葉が出なかった。一言も返せない。喉の奥が締め付けられているように思え、息苦しくなる。
「妹とそういう関係になりたくないのなら、彼氏でも作らせなさいな。自然と離れて行くわよ」
智夜子が退屈そうに言うと、彼は頼りなげに眉を下げた。
「それはない、と思いますよ」
「どうして?」
彼は躊躇いがちに目を泳がせた。
脳内に蘇る記憶に、里美の虚ろな目が浮かぶ。それを打ち払おうと首を振る。
「……話せないほどの何かがあるのね?」
その声に息を止めた。まるで、思考を全て覗かれているかのように、智夜子の言葉には真実が潜んでいた。
「とにかく、妹は大の男嫌いなんです。それにはまぁ、事情があると言うか……」
段々と言いにくそうに口ごもり、ついには黙り込んでしまう。
「事情ねぇ……どうも怪しいわね。でも、言いたくないのなら、無理に」
智夜子は無感情に言ったが、はたと口を閉じた。しばらくの沈黙が部屋を包む。
やがて智夜子は重々しく口を開くと、鋭い目つきで彼を見つめた。
「何にせよ、妹さんには気をつけなさい」
「え?」
意味が分からず首を傾げる。
「男嫌いだけれど、兄は慕う……好意を抱いている。そんな唯一の存在である貴方が拒絶すれば……彼女、何をするか分からないわよ」
智夜子の目は真剣だった。顔が夕陽に照らされ、不気味な陰影を浮かべている。
「妹さんだって分かっているのよ。自分の好きな相手が兄だって……すごく葛藤したんじゃないかしら。でも気持ちが、感情が、欲望が暴走する。そんな時、女はどうなるか、分かる?」
問われても答えが出てこない。想像もつかない。
眉を潜める彼に、智夜子は耳元でゆっくりと囁いた。
「狂ってしまうのよ」
顔の皮膚が引きつっていく感覚がした。
そんな彼を見た智夜子が付け加えるように「まぁ、全てがそうとは限らないけれど」と言う。
実に、つまらなさそうに。
***
その夜。家に帰った
母は夜勤でいない。別にリビングで話しても良かったのだが、自室の狭さがいくらか居心地がいい。
夜中のまだ日付が変わらない頃、ベッドに座る兄と床で蹲る妹が向き合っていた。
「――美里」
重々しく切り出す。
「昨日のあれ……は、その、なんだったんだ」
回りくどい言い方は苦手だ。不器用にも単刀直入に問う。
美里は呼ばれた意味を充分に理解している様子で、じっと俯いていた。
「わけを話してくれ。美里、お願いだから」
時計の針がカチカチと音を鳴らす。真っ直ぐ妹の顔を見つめ、待つこと数分。ようやく美里は顔を上げた。
「だって、美里……お兄ちゃんのことが好きなんだもん。お兄ちゃんは美里のこと嫌い?」
美里は髪の毛先を人差し指で弄る。黙り込む兄をちらりと見やった美里は、堰を切ったようにブツブツと言葉を吐き出し始めた。
「昔、誘拐されて男の人が苦手になったけど、でも、お兄ちゃんだけは別だった。美里のこといつも守ってくれて、頼りになる、とても優しい……そんなお兄ちゃんが大好きなの」
か細く弱々しい声。恥らいと戸惑いと恐怖が滲み出ている。しかし、それは晃太郎も同じだった。緊張感が高まる。
それは恐らく智夜子の言葉のせいで、妙に意識してしまうからだ。
「そんな風に思ってくれるのは有り難いけど……」
「けど?」
「家族だから。お前がどう思おうと、駄目なものは駄目だ。諦めてくれないか」
その兄の言葉に美里は愕然とし、目を大きく見開いた。
そこに光はない。どろりとした黒い塊に見える。
彼女は肩を震わせ、兄を睨みながら立ち上がった。
「ど、う……し、て?」
美里は兄の身体を押し倒した。あまりに突然のことだったので、身構えることが出来ない。
そうこうしてるうちに、美里が覆いかぶさるようにしてベッドに手をつく。顔が近い。美里は顔を歪ませ、涙を落としながら兄を見下ろした。
「美里、どけ」
「やだ。どかない」
「いい加減にしないと怒るぞ」
「やだ!」
美里は首を激しく振り、唇を噛み締めた。
着古した淡いピンクのセーターは胸元まで伸びていて、普段から学校以外はまったく外に出ない彼女の真っ白な肩が現れる。
「ねぇ、お兄ちゃん、知ってる? あの男がね、美里のことをすごく愛してるって言ってたんだよ。その時はよく分からなかったけど、服脱がされたり、キスされたり、胸を撫でられたりして……ただ怖いだけだった。そんなことされたんだよ。でもね、それは愛しているからなんだって、最近になって、やっと分かったの。美里もね、美里がされたことをお兄ちゃんにしたい……したい、したいの」
美里は、強引に晃太郎の口に自身の唇を押しつけた。
その柔らかな感触に、震えが走る。すぐさま振りほどき、彼女を突き飛ばした。
バランスを崩した美里は机に激突する。そして腕をぶつけたのか痛そうに擦り、ゆっくりと踞った。
「美里、お前、自分が何言ってるのか分かってんのか?」
唸るような声が喉から漏れる。段々と、全身が不快にまみれた。
「いいか、俺達は兄妹なんだ。そんなの許されるわけないだろ。いくらなんでも、気持ちが悪い……そんなこと、されても、俺はお前のことが嫌いになる」
美里は身動き一つせず、俯いたままで顔が見えない。
晃太郎は口元を拭うと、美里から目を逸らした。
夕方の智夜子の言葉を何故か思い出す。しかし、気にしていられない。黒々とした気持ちが言葉に変わって吐き出されていく。
「お前の気持ちが、正直よく分からない。なんで俺なんだ? 意味が分からない……頭を冷やせ」
荒い口調で言うも、居心地が悪い。美里が動かないので、こちらが出ていくしかなかった。リビングへ向かおうと、ドアノブに手をかける。
それに気がついたのか、同時に美里が立ち上がった。そして、擦り寄るように晃太郎の背中に張り付く。
「美里! いい加減に……」
その時、彼は背中に何やら冷たく鋭い物が差し込まれた気がした。しかし、振り向くことが出来ない。
「……?」
美里は何も言わない。静かに、ゆっくりと兄の背中から何かを引き抜く。
晃太郎は膝をつき、ドアに寄りかかった。全速力で走ったかのように息が荒れる。気分が悪い。指先が震える。頭の中は真っ白だった。
「……お兄ちゃん」
美里の声が遠い。
重たい体をどうにか動かし、振り返った。なんとか立ち上がろうと足を起こすも、思うように動かせない。
目に入ったのは真っ赤に染まった鋏。百円ショップで購入したばかりの、新品の工作用鋏である。
あれで刺されたのか、と認識するまでに時間がかかった。
「みさ、と……」
呂律が回らない。
丁度、肺に刺さったのだろう。込み上げてくる何かに咽ると、赤黒い血が吐き出された。
「お兄ちゃんが……美里のこと、気持ち悪いって、言ったから」
美里は泣きながら鋏を振り上げた。
「そうやって、美里を遠ざけるつもりなんだ! お兄ちゃんは美里のこと見てくれないんだ! それならもう! その目なんか、その目なんか……いらないよね?」
止めようと、手を上げる。しかし、遅かった。
美里の振り上げた鋏は晃太郎の右目に突き刺さった。
晃太郎は叫んでいた。同時に、まだ痛覚があるのだと落胆した。血管が破裂するような痛みが目から脳へと駆け巡る。
「お兄ちゃんが悪いのよ……美里を、美里を、こんなにも怒らせちゃったんだから! 美里だって、痛いんだよ! すっごくすっごく、お兄ちゃんの言葉が刺さったんだよ!」
美里は甲高く叫んだが、言葉を処理することは出来ない。
妹の足下で這いつくばり、痛みに耐えようと必死だった。漏れる呻き声を手で押さえる。
「お兄ちゃん、ごめんね。でももう、耐えられない。お兄ちゃんが将来誰かのものになって、美里を愛してくれなくなるくらいなら、美里は今この瞬間を永遠にする! お兄ちゃんが壊れてしまっても、この瞬間さえ止まってしまえば、美里とお兄ちゃんはいつまでも一緒。ずうっと、ずうっと……一緒にいられるんだよ」
こんなことになるなんて思わなかった。
そして、智夜子の言う通り、自分は心の奥底で美里を軽蔑していたことに気がつく。
晃太郎はまだ自分が息をしていることに驚いた。荒く乱れた呼吸音が耳元に届く。
こんなにも苦しいのにまだ意識があるなんて……意識さえ途絶えれば、と晃太郎は強く思った。
そんな兄を愛おしそうに見つめる美里は、鋏を持った腕を掲げた。
「大好きだよ、お兄ちゃん」
いつもの、甘えた声音。その背後には鋭い風の音。
全身の感覚が奪われていくようだった。
薄れていく意識の中、美里の笑い声が聞こえてくる。もしかすると泣いていたのかもしれない。
――ごめん。美里……
それは声にならなかった。
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