兄妹②

 この女は一体、突然に何を言い出すのだろう。

 妹が兄に好意を寄せている、だなんて。

「はぁ?」

 大吉は思わず大声を上げた。

「そんなことあるわけないでしょう? だって、妹ですよ?」

「関係ないわ」

 智夜子は面白そうに笑っていた。からかわれているのか。そう気づけば、僅かに苛立ちが募る。

「冗談はやめてくださいよ。あれですよね、家族的な意味合いで」

「違うわよ。純粋に貴方のことが好き。恋い慕っているとでも言うのかしら。簡単に言えば、恋愛対象ってこと」

「いや、だから! 冗談はやめて下さいよ。こっちは真剣に話してるんです」

「私だって真剣よ」

 智夜子は心外だと言うように、眉を寄せた。しかし、大吉のしかめた顔を見るなり肩をすくめる。溜息を吐き出した。

「悪かったわ。貴方って面白いから、つい、からかってしまうのよ」

 そう宥めるように言われてしまえば、怒るに怒れない大吉である。

 彼女は気を取り直すように咳払いすると、真面目な顔つきでじっと見つめてきた。

「……キスはしたの?」

「だから! そんな話は……!」

 とうとう憤慨しそうになったが、智夜子に見つめられて押し黙る。彼女の目は、先ほどのふざけた様子ではなく真剣に大吉の顔を捉えていた。

「真面目な話よ。貴方、妹に迫られたんでしょう? 例えば……キスされた、とか」

「そんなわけ」

 言葉に引っかかりを覚える。しかし、その正体がはっきりと分からない。

「……思い出すも何も、記憶にないので」

 言葉が冷たくなってしまうが、そもそも、こういった話は苦手だ。大吉は不快感露わな目で智夜子を見やった。

「分かったわよ。それじゃあ、訊き方を変えましょ。もし、そういう状況に遭ったらどうする?」

 その問いも、答えることに抵抗を感じてしまう。黙秘を行使したいところだが、彼女の威圧的な目からはそう簡単に逃げ出せやしない。

 大吉は仕方なく、どう答えるかを考えた。

「道を誤らないように、正しい方向に導きますよ。そこは兄として」

 ゆっくりと慎重に、それだけを答える。すると、智夜子は手のひらをパチパチ小さく叩いた。

「まぁ、立派な回答ね。褒めてあげるわ」

 飛び出したのは挑発だった。不快が更に増す。

 そんな彼を気にかけることなく、智夜子の口は止まらない。

「禁断の恋、というのはね、いつの時代も人気なのよね。許されないから燃え上がる。創作の世界だとしても、時には現実として見てしまうこともある。難しいわよね、人の気持って。止めることも暴走させることも本人にしか出来ないのだから」

「要するに、何が言いたいんですか?」

 話が見えてこない。特に、自分には関係のないことだと思うのだが。

 そう思っていると、智夜子が目の前まで身を乗り出してきた。そして、彼の拳を包むように手のひらで握る。

 ひんやりと氷のような冷たい手が触れ、大吉は思わず身震いした。

「分かるわよ。貴方が認めたくない気持ち。実の妹がそんなだったら気持ちが悪いのよね?」

「い、いや、別にそこまでは」

「でも」

 言葉を遮られる。智夜子の黒い目がどんどん近づいてくる。吸い込まれてしまそうな感覚に、大吉は口をつぐんだ。

「でも、貴方はそう思っているのよ。そういうことを軽蔑しているから拒絶する。自分が正しい。だから、自分の信じる事に外れた意見を持つ者を受入れない。見向きもしない。貴方はそんな回りの人を軽蔑して、嘲笑っている」

「違います」

 言葉が飛び出した。意識よりも先に、否定できる自信があった。

 一方、智夜子は目を丸くさせて首を傾げる。

「どうして言い切れるの?」

 唖然とした様子で、彼女は大吉から少し距離を取った。それにより、いくらか圧迫感が減る。大吉は調子を取り戻すべく、咳払いした。

「確かに、そういった話は苦手です。でも、理解なら出来る。きちんと話し合って、どうしたらいいか自分でも考えるし、なんならサポートだってする。きちんと向き合えば、分かり合えるはずです」

 大吉は素直にサラリと言った。気恥ずかしさなんてない。

 そんな彼の真っ直ぐな答えを聞いた智夜子は、息を漏らし、呆れたように笑った。

「……まったく……貴方って本当、真面目なのね」

「よく言われます」

 大吉はようやく表情を緩めた。それに対し、智夜子が盛大に溜息をつく。

「はぁあ……珍しく私の勘が外れたわね……がっかり」

「勘?」

 問うと彼女は、落ち込んでいるのか不機嫌そうに返した。

「私ね、人間観察が趣味なのよ」

「……悪趣味ですね」

 迷惑にも程がある。あの見透かすような目は、つまり人間観察をしているのか。大吉は眉間に皺を寄せて智夜子を見やった。

 彼女は、自身の髪の毛をいじっている。そこまで拗ねなくてもいいだろうに。

「ふぅん……まぁいいわ。それじゃあ、妹さんが変っていうのは、なんなのかしら」

 ゼミテーブルの上で、足を組み替える智夜子。まだ機嫌は治っていないらしい。

 話が戻り、大吉も「あぁ」と思い出す。

 確か、妹が変だと言った辺りから話が脱線してしまったのだ。

「変っていうのは、すなわち恋煩いなのだと推測したのよ。でも、違うんならもう見当もつかないわ」

「そんな……」

 しかし、智夜子の言う通りである。

 妹の様子がおかしいことには気づけたが、智夜子の言う「兄に恋をする」可能性を消してしまえば、外に思い当たるのは……大吉は脳裏に閃いた言葉をそのまま口にした。

「勉強とかじゃないですか? やっぱり、たまにしか学校に行かないってことで悩んでるんですよ」

「はぁ……」

 気のない返事に、大吉も肩を落とした。

「分からないわ。私が分からないなら、分かるはずがないもの」

「なんでそうなるんですか」

 彼女が自分の何を知っているというのだ。いくら、人間観察が趣味とは言え、人の思考まで読み取れるはずがない。

 大吉は呆れた顔で智夜子の答えを待った。

 彼女は、退屈そうに天井を眺めている。

「まぁ、いいわ。それで、どうするの、探し物の方は」

「適当ですね……相談室長のくせに……」

 どこまでもやる気のない智夜子である。大吉はもう彼女を頼る気は更々無かった。もはや、雑談の相手として接している。

 その様子を察してか、智夜子は眉を上に上げて大吉を見下ろした。

「あのね、勘違いしないでくれる? 私は相談室の室長をやっているだけで、便利屋じゃないのよ」

 そう刺々しく言われると、返す言葉がない。

「そもそも、その探し物って本当に妹さんのものなのかしら」

「そうですよ」

「何故そう言い切れるの? 探している物がなんなのか分からないのに」

 智夜子の声には微かな棘があった。気にするほどの痛みではないのに、チクチクとくどい。

 確かに、彼女の言う通りではあるのだが、今はどうにも探さなければいけないという気持ちが強い。

「まぁ、いいわよ。しばらく考えてなさい。思い出せたら呼んでちょうだい」

 素っ気なく言うと智夜子は、もうこちらには見向きもせずに、ゼミテーブルから降りた。そして、部屋の隅にある古びたチェストを開ける。

 一体、何をするのか分からない。

 背を向けた彼女を眺めながら、大吉は力なく椅子にもたれて唸った。記憶を辿ってみるが、これといってピンとくるものがない。

 ――何を探しているんだったかなぁ……。

 呑気に思いを巡らせていると、唐突にパチン、という小さな音が室にこだました。

「智夜子さん、何してるんですか?」

 問うと彼女はクルリと振り返った。工作用の、少し長めのはさみが大吉の目に映る。

「爪が伸びてしまったのよ。そろそろ切らなきゃ、鬱陶しいわ」

 そう答えながら彼女は目の前のゼミテーブルに戻ってきた。左手の人差し指から器用な手つきで順番に爪を切っていく。

 パチン、パチンと爪の切断される音が、リズミカルに響いた。

「あの、智夜子さん……」

「なあに?」

 ゆっくりと智夜子が問う。大吉はパイプ椅子を引いて立ち上がった。

「俺……そろそろ帰りますね」

「あら? どうして?」

 智夜子は尚も問う。

 しかし、彼女の目は指先に向けられているので、大吉の様子に気づかなかった。

「どうしてって……もう陽が暮れてますし……」

 音が響くにつれ、大吉の心臓は小さく跳ねる。

「探し物はいいの?」

「ちょっと……用事を思い出したんです」

「ふうん……なんの?」

 まとわりつくようにしつこい智夜子の問い。

 大吉はごくりと喉を鳴らして、唾を飲んだ。

「家の、用事です」

「そう。家ね……誰の?」

 質問の意味が分からない。戸惑いつつも、大吉は答える。

「俺の家に決まってるでしょう」

「ふうん」

 バチン、と一際大きく爪の切れる音がした。

 見れば彼女の左手、小指の爪が割れている。しかし、智夜子は段々と膨れ上がる真っ赤な血を眺めているだけで、特に焦った様子がない。

「智夜子さん?」

 不審に思い、恐る恐る近づいてみると、智夜子は顔も上げずにサラリと言った。

「ねぇ、大吉くん。貴方、んでしょう?」

「え?」

 大吉は足を止めた。

 智夜子の表情は、長い髪の毛に隠れて見えない。

「でもね、おかしいと思わない? 貴方、先端恐怖症ってわけじゃないでしょう? それなのにどうして、この鋏が怖いの?」

 大吉は目を見開いた。脈打つ心臓に気がつく。しかし、彼はすぐに笑みを繕った。

「やだなぁ、智夜子さん。俺は……先端恐怖症ですよ」

「本当に?」

「はい。でも良く分かりましたね……鋏が怖いってことに」

 大吉は笑う。誤摩化すように。

 智夜子は笑わなかった。ゆっくりと、顔を持ち上げて、冷えた目を向けてくる。

「自分に嘘をつくのはよくないわ、大吉くん。貴方は先端恐怖症なんかじゃないもの」

 智夜子は椅子から立ち上がると、人差し指を彼に向け、近づいてきた。そして、その指で大吉の胸を突く。

「こうして指を向けた時、何も反応しなかったじゃない。言っていること分かるわよね?」

 大吉は何も言わなかった。いや、言えなかった。声が出てこない。まるで思考を全て奪われたように頭の中は真っ白だ。

「そして貴方はね、何故自分が鋏を見て怖がっているのか分かっていない。そうでしょう?」

「……?」

「あら、まだ分からないの? おかしいってことに。思い出さない? 何故、鋏が怖いの?」

「智夜子さん……何言って……」

 ようやくそれだけが出て来る。陸に水揚げされた魚のように、呼吸をする。脳が混乱していた。

 思い出すって何を? 自分は何を忘れているのか? 仮にそうだったとして、そもそも、何故彼女がそんなことを知っているのか? 知っている? 何を?

 自分は、とても重要なことを忘れている……?

「大吉くん」

 唐突に鳴る智夜子の声。それは耳元のすぐ近くにあった。

「……貴方、自分の名前、分かる?」

「え?」

 彼女の質問に、大吉は拍子抜けした。

「ちょっと……智夜子さん。何を言い出すんですか、突然。名前くらい分かりますよ。僕の名前はです」

 しかし、智夜子は首を横に振って彼を見た。その瞳には薄っすらと悲しみが滲んでいる。

「下の名前は?」

「何言ってるんですか。下の名前が大吉ですよ」

「じゃあ苗字は?」

「……えっと」

 言葉に詰まった。

 ――苗字……自分の、苗字?

「あのね、それは私が呼んでいるからそう思っていたんでしょう? それね、私が貴方につけた渾名あだななの」

「えっ?」

 額からこめかみへ汗が流れていく。

 初冬の候、教室に暖房はついているが暑くはない。指先だって震えている。

 智夜子の小指からは相変わらず、溢れ出した彼女の血が床を滴っている。

 その赤が突然、脳の中に流れ込んできた。どんどん溢れそうになり、全身の血管が破れてしまったような感覚に陥る。

 彼は床に膝を落とした。

「大吉くん、貴方の本当の名前は大吉おおよし晃太郎こうたろう

 頭上から智夜子の声が聞こえる。

 ――オオヨシ、コウタロウ。

 反芻するも、実感は湧かない。自分の名前だというのに、自信が持てない。

「やっぱり、全て忘れてしまったのね……」

 智夜子の声は、ほのかに哀を浮かべていた。

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