シンユウ③
その日、美鈴は怯えながら教室の前で立ち止まっていた。腹の底が嫌な音を立てている。
いつものように江美の迎えには行かなかった。
昨日の言葉が頭から離れず、江美の家を通り過ぎて学校へと一目散に逃げた美鈴は、どうにか心臓の鼓動を落ち着かせようと努める。
そうだ。いつもならまだ江美がいない時間。このままやり過ごせたらいいのだが。
呼吸を繰り返し、震える手でドアに手をかける。ゆっくりと中を覗くと、彼女は目を瞠った。
「……っ」
教室には既に江美がいた。頬に絆創膏をつけており、友人たちと談笑している。そして、登校してきた美鈴に気付くなり眉をひそめた。
「おっと……来た来た」
席を立ち、美鈴の元へまっすぐに向かってくる。
「おはよう、朝田さん。昨日はよく眠れたかな〜?」
教室中に響く声で江美が言う。そして、美鈴の腕をぐいっと掴むと、無理矢理に教室の中へ入れた。
「ほら、そこに立て」
教卓まで連れて行かれる。一番目立つ場所に立たされ、美鈴はわなわなと唇を震わせた。
そこにいた全員が、自分をじっと見つめている。冷ややかな目、目、目。あちらこちらから目が覗く。
「さて、と。はい、朝田さん。みんなからお話があるようなので、ちゃぁんと聞いてね」
「えっ」
どういうことだろう。美鈴は目を泳がせ、俯いた。
その時……
「江美のこと殴ったって?」
声が、ぽつりと沸いた。
それを皮切りにじわりと波紋が広がっていく。
「最低じゃん」
「しかも、前から嫌がらせとかしてたって」
「あー、あれ。幼馴染なのに、差がありすぎて嫉妬? みたいな?」
「自分が目立たないからってそれはなくない?」
「大人しい顔して、やること酷いよねぇ」
「江美、かわいそ〜」
ざわめきが大きく膨らんでいく。どんどん、どんどん、どんどん。
そのどれもが見に覚えのない話。
美鈴は辺りを見回し、背後の黒板まで後ずさった。
「ち、ちが……私、そんなこと……」
「嘘ついてんじゃねぇよ!」
激高と共に教卓が倒れる。轟音。
江美が蹴り飛ばした教卓は横へと倒れた。それを見て、教室内は静まり返る。美鈴はへたりと床へ崩れた。
「あのさぁ、こっちは怪我までしてんだよね……見てみ、これ。あんたがやったも同然だよな? いいから謝れって言ってんの。今すぐ!」
そう怒鳴ると、江美は美鈴の頭を掴んだ。床へとそのまま押し付けられる。頬をぶつけ、思わず痛みに呻いた。
「ご、ごめんなさ……」
「聞こえねーんだよ! ほら! 土下座しろ!」
全身が震えた。骨の奥までもが小刻みに揺れ動く。床に顔を押し付けられたまま、美鈴は声を振り絞った。
「ごめんな、さ……い……」
屈辱よりも、恐怖の方が強い。こめかみや手のひらにじっとりと汗が滲む。息をするのもままならない。
何も聞こえなかった。何も考えられない。今、自分がどうしているのかも泣いているのかも判断つかない。
そんな無の世界へと陥った美鈴の耳元に、ふわりとした囁きが響いた。
「これで済むと思うなよ」
***
逃げなくては。心の奥底でそう叫びをあげていた。
逃げなくては。誰にも見えない場所へ。
自分でもどこへ向かっているのか分からなかった。息を切らし、走る。走る。ひた走る。
階段を駆け上がり、後ろも振り返らず、ただ無我夢中で上り続ける。
最上階まで到達すると、美鈴はその先へと続く扉を開いた。開けた広い場所が視界いっぱいに現れる。
屋上はいつも寒い。強く吹き付ける風を受けながら、美鈴は勢いに任せて手すりまで走った。
「……っ!」
もしも、手すりなんてなかったらそのまま飛び出していたかもしれない。
美鈴は渇いた喉を抑えて激しく咳き込んだ。身体の内側が干上がったように、ヒリヒリする。上がった息はそうそう整わなかった。手すりに持たれて、膝からくずおれる。
いつかこうなることは分かっていた。
ずっと江美にすがっていた自分が悪いのだ。罰が当たった。自分では何もできない。何も言うことが出来ない。
――そんな自分……
「朝田さん」
唐突に、背後から声がした。勢い良く振り返り、その人物を捉える。
「みや、び、さん……?」
智夜子が小走りに駆けてくる。美鈴は逃げようと身構えた。しかし、全速力で走ったせいで全身が重く、動くことが出来ない。
「朝田さん、大丈夫?」
逃げ場を失った。智夜子が顔を覗き込んでくる。
「顔、汚れてるわ」
言われるまで気が付かず、美鈴は袖で顔を覆った。床の砂埃がくっついていたのだろう。そんな惨めな姿を、智夜子に見られたくなかった。
「……教室で、何かあったのね」
その口ぶりから、彼女はあの騒動を見ていないのだと気がついた。それでも、今は何も言いたくない。話したくない。見られたくない。
「私、さっき着いたの。それで、貴女が教室から出ていくのが見えたから……」
智夜子は躊躇いがちに言った。そして、もう顔を覗こうとはせず、立ち上がって一歩離れる。
美鈴は袖を僅かにずらし、それを見やった。
「原因は、田代さん?」
風の唸りの隙間から、その短い問いが聴こえてくる。美鈴は首を横に振った。
「いいえ、そんなわけないわ。貴女、田代さん以外に悩み事なんてないでしょう?」
――どうして……。
「だって、貴女は田代さんしか見えてないもの」
見透かされた、と思ったらどうやら違うようだ。
美鈴はゆっくりと腕を下ろし、俯いたまま智夜子と対峙した。
江美しか見えていない、という指摘に美鈴は止まっていた思考を巡らせる。
引っ込み思案で、人とまともに話せない。話し方が分からない。だから、幼馴染の江美にくっついていた。そのことだろうか。
「気づいた?」
智夜子の声に、美鈴は目線だけ上げる。智夜子の艶やかな黒髪が風に煽られ、乱れていた。
「私は……もう、駄目なの」
言われるまでまったく気が付かなかった。
何をするのも、どこへ行くのも、江美なしでは不安になる。一緒にいても怒られるから怖い。不安。怖い。その感情が層となって積み重なり、美鈴の体内で蓄積されていった。
苦しい。パンクしてしまいそうだ。
「もう、駄目よ……私、私は、もう……どうしたらいいか分からない。駄目だ……嫌だ、やだ……どうしよう……」
江美に見放されたら、何も出来ない。何も残らない。自分というものがどこにも見当たらない。
美鈴は嗚咽を漏らした。息苦しさのせいで、呼吸ができなくなる。
――いっそのこと、もう……
「朝田さん」
智夜子の手のひらが、肩に触れた。しっかりとした掴みに、美鈴は我に返る。
「朝田さん。貴女はどうして、そんなに怯えているの?」
「え……」
問われても、すぐに反応が出来ない。
――どうして、怯えているのか……
答えが分からない。正解はどこにもない。見つからない。
「私が訊いているのは貴女自身の気持ち。どうして怯えるのか、それは貴女にしか分からないことよ」
正しい答えではない、ということか。
智夜子の真っ直ぐな瞳が突き刺さり、思わず目を逸してしまう。美鈴は自分の気持ちというものを探そうと努めた。
ゆっくりと、辿々しく口を開く。
「私が……怯えているのは、怖い……から?」
「怖い。そうでしょうね。じゃあ、何が怖いの?」
「なに、が……って……」
何が怖いのか。頭の中に浮かべてみる。ゆっくりと、ぼんやりと、それは姿を現してくる。
「一人、でいること……と、あとは……」
江美の顔が浮かび、すぐさま掻き消す。途端に智夜子の溜息が顔面に吹きかかった。
「今、誰を思い浮かべたの」
「う……」
言えない。言ってしまう自分が怖い。
「……まぁ、いいわ。でも、それが貴女自身の気持ちよ。正解、不正解なんて、誰も決められない。本物は貴女しか導き出せない。それが意思というものでしょう?」
美鈴は呆然と智夜子を見た。
意思……今まで、そんなものを持つことがなかった。ただ、言われることをして息をしているだけ。
なるほど、自分は今まで意志を持たない人間だったのだ。
ようやく目が合ったからか、智夜子は口元を緩めた。真っ赤な唇が動く。
「意思を潰すのは良くないわ」
「でも……
生きていてはいけないのではないだろうか。
誰かにすがることでしか存在を許されない、そんな生き物なのだから、意思なんて持っていたら……邪魔になる。
「私もね、貴女と一緒よ……誰かにすがってないと生きていけないわ」
唐突に、智夜子が小さく言った。
思わず目を瞠る。
「そんな……でも、雅日さんはいつも一人で……」
そこまで言いかけて美鈴は口をつぐむ。智夜子は目を細めて笑みを見せた。
「誰か、というのはあのクラスには存在しないの」
くすくすと、面白そうに音を立てる智夜子のそんな顔を見るのは初めてだった。いや、今まできちんと彼女に向き合ったことはない。もしかすると、見逃していたのかもしれない。
クールで無情、それは勝手なイメージだ。目の前の智夜子は無邪気に笑う、ただの同級生である。
真っ直ぐにこちらを見るその瞳には光は見えない。濁りもなく、輝きもない。ただ、強い意思を持っている。
それが何故だか無性に――綺麗だと思えた。
「それが私の意志よ。あの中に、私を理解してくれる人間はいない。だから……興味がない。無関心でいる。それだけよ」
無関心……クラスメイトに対する智夜子の態度は冷ややかだ。それはどうも本当のことらしい。
――いや、でも……
「……私のことを追いかけたり、硝子拾ってくれたり、したのは?」
恐る恐る訊いてみる。すると、彼女はまたも柔らかに笑った。
「だから、ただの気まぐれよ。何か理由が欲しいって言うなら……貴女が私の興味を惹かせたから、かしら」
「きょう、み?」
美鈴は不信を露わに、智夜子から少し離れた。
しかし、彼女はそれを逃さない。口の端を吊り上げて唇を開く。智夜子の整った顔を横に引き裂くような……まるで、三日月の形だ。
「貴女の悩みごとに興味が湧いた」
強く、熱の入ったその声に思考が追いつかない。
智夜子は美鈴を手すりまで追い詰めると、腕を掴んだ。力が強く、振り切れない。
困惑で頭が混乱していると、智夜子は美鈴の頬を撫でながら、声を風に乗せた。
「悩みよ。もしかすると、私の悩みが分かるかもしれない。私の悩みを貴女が教えてくれそうな……そんな気がしてならないわ」
目の色が変わった、と瞬時に悟った。智夜子の瞳が近づく。その黒さに吸い込まれてしまいそう。
息もつけず、押し黙っていると智夜子は美鈴からふわりと離れた。背後の手すりを握り、スラっとした長い足で跨ぐ。
「あ、危ないよ……っ」
思わず口走っていた。智夜子が長い髪をなびかせてゆっくりと振り返る。
「危ない? そんなの当たり前じゃない。手を放せば下へ真っ逆さま。そうしたら、スッキリするわよね……江美ちゃんが落ちてくれれば」
智夜子の顔に、江美の顔が重なって見えた。
そうして彼女は、握っていた手すりを……放す。
――落ちる……っ!
咄嗟に手を伸ばす。でも間に合わない。息を飲む。
しかし、彼女は落ちなかった。手すりを掴み直して、軽やかにこちらへ戻ってくる。
「悩み、いつでも聞くわよ……そうねぇ、私の興味が薄れるまでは、待ってあげる」
ふふふ、と甲高く笑うと、彼女はくるりと踵を返して屋上のドアまでゆったりと歩いていった。その後姿は揺らめく黒い煙のよう。
「ほら、教室に戻りましょう、朝田さん」
彼女の手招きに、美鈴は呆けたまま足を踏み出した。
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