シンユウ④

 彼女は、その分厚い眼鏡の奥で耐えていた。

 教室内のじっとりとした嫌な空気。それが全身にまとわりついているようだった。

 くすくす。くすくす。

 ざわめきに紛れるその音が聴こえるたびに首がすくむ。

 授業中も、休憩中も、移動教室でも、放課後でも、隙があれば江美やその周囲のクラスメイトがこちらを見ては忍び笑う。

 ゴミを投げられ、机を倒され、頭を小突かれ、物を盗られる。隙があれば、それは執拗に続く。限りなく。いつまでも。

 ――あぁ、どうして……

 どうして、なんて持ったのだろう。

 美鈴は唇を噛み締め、俯いた。

「江美を怒らせた罰だよ」

 ニヤニヤと笑いながら近づき、腕を掴まれたと思ったら、彼女たちは美鈴をトイレの床に放り投げた。足がもつれ、呆気なく体は床へと伏してしまう。

 ――どうして、江美ちゃんじゃない人がこんなことをするんだろう。

 江美にされるならまだ許せた。今までもそうだったから。

 でも、他人から悪意をぶつけられることは理解出来ない。どうして、無関係の人間が寄ってたかって悪意をぶつけるのか。

 考えてしまう。

 もしも、意思を持たなければそんなこと微塵にも感じなかったのか。ただただ恐怖に怯え、泣き、叫び、絶望したのかもしれない。

 ――あぁ、卑しい。

 江美の食べ残しを美味しそうに啄む、卑しい物体。それらは集団を作り上げ、偉そうに闊歩する。

 美鈴は涙を溢しはしなかった。ただ、耐えていた。

 江美の機嫌は、気まぐれだということはよく学んでいる。

 こうして野放しにした彼女らに、いずれは何かしら命令をするだろう。飽きたからやめた、とか。いずれは、そうやって自分から離れていくはずだ。

「うーん……汚いから

 考えている間に、そんな言葉が聞こえてくる。怪訝に顔を上げた、その直後。

 ぼとぼと、ぼと、ととと

 ドロリとした液状の何かが眼鏡の上、顔面に落ちてきた。

 洗剤、だろうか。ツンと強い臭いが鼻の奥へ侵入する。途端に、ぞわりと背筋に寒気が走った。冷や汗がこめかみから頬へ伝っていく。突然のことに声も出ない。

 目の前に立つ女子生徒が持っていたのは、用具入れにあった液体クレンザーのボトルだった。

「うっわ、きたなっ。余計汚くなったよ~ごめんねぇ、朝田さん」

 すぐに顔を拭うも研磨剤が肌を滑り、顔がヒリヒリと痛む。

 美鈴は口元を覆い、激しく噎せた。喉や鼻の奥に強い刺激が伝い、苦しくなってくる。床に手をついて、その場に蹲った。

 それを見てか、彼女たちは甲高い笑い声を上げた。

 耳をつんざく笑い。嗤い。嘲笑う。反響し、鼓膜を震わせる。

 美鈴は息苦しさと顔の痛みで、気が動転していた。とにかくクレンザーを取り除こうと袖で顔を覆う。

 ――水……今すぐ、洗い流さないと……

「何してんの~?」

 間延びした声でこちらに入ってくる人影が。美鈴は荒く呼吸をしながらその人物に目を向けた。

 江美だ。

 きょとんとした可愛らしいまん丸な目でこちらを怪訝そうにじっと見ている。

 目が、合った。

「……へぇ?」

 丸い目が半月型に細められていく。小さな口が、にたり、と横へ伸びていく。

「なーんか、面白いことしてるじゃん」

 彼女は真っ直ぐに用具入れへ向かうと、緑色のホースを取り出した。

 それをずれた眼鏡から窺い、美鈴は顔を引きつらせる。

「あーあーあー、もう、なんかドロドロしてんねぇ。キモいからさっさと水で流しちゃおーよ」

 楽しげに言うと、他の女子生徒もまた笑う。

 その、圧倒的高揚感に美鈴の全身が拘束される。ただただ、快楽の餌食になりゆく瞬間を目の当たりにし、思考は回らなくなる。麻痺していく。

「はーい。そんじゃー、仕上げしまーす」

 向けられたホースが近い。至近距離。蛇口が勢いよく捻られ――

「っ……!」

 それは、突き刺すような、骨を砕く痛みだった。強い水圧に耐えきれない。

 壁際まで後ずさるも、江美はそれを逃がさない。

 ホースの先端が更に押し潰され、噴射される水は鋭い槍のようだった。

「くっ、あははははははっ! 何、なに、その、顔!」

 水圧で歪む顔を見て、江美が笑う。腹を抱えて笑う。

「折角洗ってやったのにっ! あははっ、ちょっと、マジきたねー! あーははははっ! ちょーウケる」

 水が流れたままのホースを床へと放り投げ、江美は笑いながらトイレから出ていった。

「くっそ、ちょっと濡れたし。あー、もう最悪」

「えー? 大丈夫?」

「江美、やりすぎー」

「あれくらいやっても大丈夫だよ、あいつは。私の言うことならなんでも聞くし」

 遠ざかっていく声はそう言っていた。しかし、耳には入っても脳内で処理は出来ない。

 水浸しの全身をそのままに、美鈴は立ち上がると洗面台の蛇口を閉めた。

 濡れた顔を袖で拭っても、シャツが濡れてしまっているからあまり意味がない。クレンザーの臭いはまだ落ちないが、ひりつく痛みは水の冷たさでいくらか和らいでいる。

 ただ、こんなにも水を浴びたのに、心は渇いていた。


 ***


 幸い、放課後だったこともあり、教室に戻ってもクラスメイトは誰もいなかった。

 ちらりと智夜子の席に目を向けるが、すぐに自分の席へと行く。サブバッグの中にジャージが入っていたはずだ。濡れたシャツでは外に出られない。

 しかし――

「な、んで……」

 体操服とジャージを入れていたはずのサブバッグには、何も入っていなかった。すぐに盗られたのだと気づいたが、まさかここまで、周到に嫌がらせをしてくるとは思わなかった。

 江美は気まぐれのはずだ。もうそろそろ飽きてくる頃だ。

 いつもなら――

 これはもう、ただ事ではない。こうなったらもう、だ。

 明日も明後日も明明後日も、その次も、一週間だって続く。もっと、一年、二年、死ぬまで、ずっと。

「どうして、こうなったの……」

 嘆いても、事は変わらない。抗わない限り、何も。それでも、今は気力が湧かない。

 美鈴は鞄を肩にかけ、すぐにその場を離れた。

 廊下は薄暗く、外のオレンジがここまで届かない。

 季節はゆっくりと秋から冬へ移行しつつある。日が落ちれば、気温がいくらか下がってしまう。

 美鈴は濡れた体を抱きながら昇降口へ急いだ。俯き加減に階段を降りていく。どこか遠くの教室から吹奏楽部の演奏が聴こえていたが、耳を通り抜けていく。

 鞄で胸元を隠して足早に行くも、上履きが濡れているせいで足元に注意を払わなければいけない。手すりを握って一歩ずつ踏み出した。

 一階に辿り着けばあとはもう帰るだけ。教師に見つからないようにそろそろと昇降口へ向かう。

 そんな警戒心を張り巡らし、視線を這わせていると、一つ、人影を目の端で捉えた。

 廊下の奥に、ゆらめく長い黒髪。

 あのシルエットは、間違いがなければ……思わず、その後ろ姿を目で追いかけてしまう。

 濡れた眼鏡を拭き、もう一度よく目を凝らした。

 その女子生徒は、こちらへ向かって歩いてきていた。その動きの速さに美鈴は慌てふためく。

 こんな、惨めな姿は誰にも見られたくない。見つかってはいけない。智夜子であろうとなかろうと。

 そうして美鈴は、昇降口の靴箱へと避難する。物陰からそっと様子を窺った。

 あぁ、やはり智夜子だ。薄暗い廊下を早足で横切る艶やかな黒髪。その隙間から――

 美鈴は目を瞠った。

 一瞬だけだったから、見間違いかもしれない。しかし、自分で見たものが紛い物ではないと心の奥底が訴えていた。

 雅日智夜子の、あの陶器のような滑らかな頬にが流れていたことを。

 ――雅日、さん……?

 廊下の奥にある中庭まで行く後ろ姿を見やる。

 左右に揺れ動く彼女の長い髪の毛がオレンジの中へ吸い込まれていくよう。

 妙な胸騒ぎを覚えた美鈴は、勢い良く靴箱の影から飛び出した。途端、段差に躓いて前のめりに倒れていく。

 バチン、と床を叩くような音を響かせてしまった。

「いっ……たい……」

 じんわりと熱い痛みに呻く。

 ゆっくりと起き上がり、膝を見てみると薄皮が削れたような赤い痕がある。

「朝田さん」

 頭上から声が降りかかり、すぐさま顔を上げた。

 長い黒髪を垂れ落とし、訝しげに眉をひそめる智夜子の顔が視界に映る。

「どうしたの? そんな……格好で」

 智夜子の声にいつもの調子はなく、歯切れが悪い。視線は少し揺らいでいるように思えた。

 美鈴は慌てて透けた胸元を隠す。

 しかし、既に遅かった。見られた。まさか、彼女が気づいて戻ってくるなんて……恥ずかしさがこみ上げてくる。

 美鈴は鞄を抱えると、痛む足にムチを打って智夜子から離れた。すぐに靴を履き替え、校舎から飛び出す。

 地面を叩く靴底は広大な校庭には届かない。小さな足音が校門を走り、それは徐々に減速していく。

 息が上がった美鈴は、学校の最寄りのバス停で足を止めた。ベンチに手を置き、咳き込みながら息を整える。

 智夜子は……追ってこない。

 どくどくと早鐘を打つ心臓を落ち着かせ、美鈴は大きく息を吐いた。

 ――やってしまった。

 押し寄せてくる罪悪感。わざわざ戻って顔を覗いていた智夜子に申し訳なく思う。心配、してくれたのだろうか。

 ――いや、私のことはどうでもいい。

 美鈴は頭を振って思考を変えた。

 智夜子の頬には、涙など流れていなかった。やはり、見間違いだったのだ。

 一人でいることを選び、涼しげな顔でクラスメイトを観察し、強くあろうとする人だ。あまり感情豊かではない彼女に涙は

 もしも、見間違いじゃないとしたら、自分なんかでは到底抱えられない何かが起きているはずだ。

 智夜子が泣いていないと分かっただけで、美鈴は少し安堵していた。まったくの無関係なのに、と自嘲を溢しながら。


 ***


 しかし、翌日。

 智夜子は学校に来なかった。教師が言うには、身内に不幸があったということらしい。

 だが、そんなことはどうでもいいクラスメイトたちの意識は、別のところへ向けられている。

 江美の機嫌を損ねた美鈴への制裁が始まろうとしていた。

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