シンユウ⑤
思えば、この立ち位置は最初から決められていたのだろう。
家が近所だからという理由で、江美と仲良くさせられていた。いつの間にか順序が決まっており、特に江美は人よりも優位に立ちたいというきらいがあった。
今も、同じだ。
だが、抗う力も勇気も意思もない朝田美鈴が既に完成している。このままでいい、とむしろ願っていた方だと言うのに、現状はすこぶる悪くなる一方で、美鈴は息を潜めることもままならなかった。
まるで筆洗いに張った水に、じゃぶじゃぶと筆を突っ込んで汚水を作り出すよう。悪意を持った集団というのは。
だが、あらゆる色を混ぜ合わせた水を飲み干さなければいけない。
生きるためには。そこに、存在するには。
誰に命令されるわけでもないが、鼓動が胸を打つ限り耐え
助けを求める相手がいるならば、とうにしがみついている。出来ないのだから。頼る者はどこにもいないのだから。
――感情を、殺せ。
痛みに鈍くなれば、「悲しい」なんて無駄なエネルギーを使わずに済む。
しかし、江美はそれが気に入らなかった。一週間は喜々として美鈴への嫌がらせを行っていたのだが……彼女は楽しそうではない。
「あーあ。もう、飽きたなあー」
どことなく退屈気な顔で、ただ美鈴を睨んでいるだけ。
だからだろうか。標的を変えたのは。誰でも良かったのだろう。彼女の憂さを晴らす道具は、美鈴だけでなくとも。
「朝田、お前さ。ほんとつまんねーよな。反応薄いし。もういいわ」
今朝のことだ。江美は突然、美鈴の目の前で宣言した。
感情を殺したばかりで、それはあんまりじゃないか。なんて、そんな反論は出来やしない。
そうして、彼女は遊び尽くしたオモチャを呆気なく手放し、すぐに代わりを見つけた。
それは――
「久しぶりだね、雅日さん。ずっとズル休みしちゃってさ、寂しかったよ〜」
一週間ぶりの登校である。
江美は随分と親しげに彼女の元へ向かった。
――まさか……。
すっかり鈍くなった脳を回転させ、美鈴は目を瞠る。思わず立ち上がると、江美はちらりとこちらを見やり、ニンマリとほくそ笑んだ。
「雅日さんってさあ、朝田と仲が良かったんだっけ?」
「……どうして?」
短く、小さな問い。そこには、不審が詰め込まれている。
智夜子は、その陶器の如き滑らかな首筋に、絆創膏を貼り付けていた。とても、不自然な位置に。
それが遠くからでもはっきり窺えたのは、彼女が長い髪の毛を後ろへと払ったからだ。
だが、江美は気づくことはなく、
「いやー、だってさ、私見てたんだよー。あいつに声かけてたの」
智夜子は何も言わなかった。ただ、冷たく空虚な瞳で別の場所を眺めている。
「ね、話聞いてる? あんたさ、いつも涼しい顔してるけど、何考えてるか全然分かんないよね〜。陰でコソコソと弱いやつ助けちゃってさ、意味不明」
「……別に、貴女が知ることでもないわ」
智夜子の声は冷たく、苛立ちが含まれていた。それがはっきりと分かるくらいに、彼女は教室の中で初めて声を上げた。
誰もが驚き、中には江美への怯えで息を止める者も。空気が一気に凍りつき、その冷たさにクラスメイトは動けなくなる。
「――はぁ?」
江美は顔を歪めた。
「何それ? 何? 偉そうに。あんた、今の状況分かってて言ってんの?」
彼女の目が鋭く光る。獲物を狙う猛獣のような目に、美鈴は凍っていた足を動かした。途端、勢い良く立ち上がったために、椅子は大きな音を立てて倒れた。
しかし、それでも江美の目を逸らすには事足りない。
一度、スイッチが入った江美は今や誰だろうと構うこと無く簡単に手を上げる。足を出す。
たった一週間で、江美の感情は自制が効かないものとなっていた。感覚が破綻しているのだ。
智夜子の長い髪の毛を掴むと、それを思い切り引っ張り上げ、床へと叩きつける。華奢で折れそうな智夜子の体は呆気なく崩れ落ちていった。
「あー、そっか。そうだった。あんた、家族の誰かが死んだんだっけね。なんか先生が言ってたけど。それで休んでたんだったね。じゃあ、分かるわけないか〜」
暴力を奮えば少しは気が済んだらしく、江美は床に伏した智夜子に静かな声を投げた。反応はない。
だが、返事を待っていたわけではない彼女は、友人に目配せして教室を出ていった。
嵐が去ったことで、ようやく息を吐き出すクラスメイトたち。その誰もが智夜子を見ることはなく、当然、美鈴とも目を合わせる者はいなかった。
ターゲットが変わったというだけで、教室内は更に緊張感が高まったのも事実。元より、美鈴へ手を差し伸べる者などいないが、まだ存在だけは許されていた。
それなのに。
他人に向けられる視線が、威圧を帯び始めたことに美鈴はすぐさま気づいた。
智夜子の周囲では、いつもゴミ箱がひっくり返されていた。机の上に接着剤が塗られ、ゴミが取り除けなくなることもあった。
物がなくなることは当然で、彼女は毎日毎日毎日、毎日毎日毎日、日々、絶え間なく江美の率いる女子たちから嫌がらせを受けていた。
特に意味もなく嘲って罵って賑やかで騒々しくて、ただ傷つけるためだけに投げられる罵詈雑言の嵐。
音の一つ一つは大して何の力もないのに、組み合わさっただけでこうも他人の悪意が浮き彫りになる。
それらを乱暴に投げられ、塗りたくられ、時には刃の如く深く身を抉っていく。
率先して行っていたのは江美だ。
黒板消しを智夜子の頬に投げつけると、彼女は大声で笑った。
「うわっ、粉まみれじゃん! 雅日、ちょっとこっち来てよ。洗ったげる!」
何も言わない智夜子だったが、その目はどろりと黒く、生気の欠片も見当たらない。ひと目で分かった。
智夜子は明らかに憔悴している。
――このままじゃ、駄目だ。
美鈴の胸の中で、初めての感情が渦を巻いた。
とても、見ていられなかった。自分に向けられるものならまだいいのに、よりにもよって関係のない人間を巻き込むことは許せない。
許せない……?
握りしめた拳は、関節が白くなっている。熱い。指先も体の内側も脳も沸騰するように熱い。目頭も何かがこぼれてきそうで怖い。
湧き上がる怒りは、あまりにも大きくて抱えきれなかった。募っていく。喉の奥から今か今かと飛び出すのを待っている。獣じみた唸りが、腹の奥底に溜まっていく。
「江美ちゃん!」
机をかき分け、美鈴が駆け寄る。もう黙っていられなかった。耐えられなかった。感情が言うことをきかない。
そんな美鈴を跳ね除けて、江美は鬱陶しそうに目を細める。しかし、すぐにニヤリと口の端をつり上げた。
「何、どうした。そろそろ遊んでほしいの?」
美鈴は唇を震わせた。勝手に目頭が熱くなる。怖かった。身がすくんだ。それでも、言葉は口から飛び出した。
「え、江美ちゃん。やめて。もう……駄目だよ」
「あ?」
江美に言葉は届かない。醜い笑顔を浮かべて、睨む。彼女がまとう空気に気圧されて美鈴はその場に立ち尽くす。
逃げたい。今すぐ、ここから逃げ出したい。頭は真っ白だった。涙がとめどなく溢れてくる。
「何だよ。どうした? ほら、何か言えよ。用があるんだろ?」
「あ……」
江美の背後には、ぎらりと目を光らせた猛獣のような目つきをする女子が三人もいる。
傍らには俯き加減の智夜子。頭から制服まで汚れてしまっている。そんな姿に耐えきれず、飛び出したはいいものの言葉が上手く出てこない。
何を言えばいいか分からなくなった。
駄目だ。無力だ。どうせ、すぐに力でねじ伏せられる……
「朝田さん、こっちに来ないで」
渦を巻く笑いの中で、静かに冷めた声が割り込んだ。
「来ないで」
素っ気なく、寧ろ、苛立ち紛れの声。智夜子の長い髪の隙間から漏れて出て来る。それを江美は愉快そうに目を細めて笑った。
「あーらら、美鈴。可哀想に。意味がなかったね〜、せっかく頑張ったのに」
「江美ちゃん……」
美鈴の肩を掴み、江美はくすくすと陰湿な笑いを耳元に寄せる。そして、ひっそりと自分だけに囁いた。
「あんたは大人しく、私の言うこと聞いてればいいんだよ。なのに、調子に乗ってこいつとコソコソ話してるからさ、ムカつくんだよね」
美鈴は江美を見た。彼女はにっこりと朗らかに笑い、美鈴の頭を撫でた。
「ね、私たち親友じゃん? 美鈴はなんでも言うこと聞いてくれたよね。私、本当は美鈴が好きなんだよ」
「シン、ユウ……」
その言葉に、何故か心がむず痒くなる。真っ白だった頭に黒々とした靄が湧き出す。熱が駆け巡る。
幼いころ、言うことを聞かなかったら砂をかけられた。
小学生の頃には、ジャングルジムに無理やり登らされて、そこから落とされた。靴を隠された。プールに沈められた。
高学年になれば無視が多くなった。中学校に上がれば、毎日のように雑用を押し付けられた。「朝田さんって、田代さんの家来なの?」とからかわれたこともあった。
――それって、シンユウだからなの……?
「だからさ、雅日と仲良くするよりも私と一緒に居たほうがいいんじゃない? 確かに、ちょっと酷いことしたかもだけどさ」
どろどろとした甘ったるい何かが流れ込んでくる。心臓は未だに大きく脈打っており、落ち着きがない。息を吸おうにも苦しい。
江美の指が美鈴の指に絡みつき、ぞわりと鳥肌が立った。
「美鈴、こいつを窓から突き落としてよ」
江美は軽薄に言い、ニヤリと笑うと智夜子の髪の毛を掴んだ。
「なんか、全然反応がないからさ。面白くないんだよねぇ。弱いやつが何を頑張ってるの? どんなに頑張って黙って耐えてても意味ないんだよ? 無理しないほうがいいって。ね、そうでしょ、美鈴」
「あっ……や……なん、で……そんな……」
口が回らない。あまりの衝撃に、全身から汗が吹き出し、身動きも取れない。歯の奥がカチカチと震え、胃の中のものがのたうっている気持ちの悪さを感じる。
恐る恐る智夜子に目を向けた。彼女の瞳は、いつもと同じように冷たい。氷のように。情というものがどこにもない。
そんな彼女の、りんごのように真っ赤な唇がゆっくりと開く。
「まったく……その通りね」
「え?」
どちらが音を発したのか。江美か、自分か。どちらもだろうか。
思わぬ智夜子の同意に、困惑の波紋が広がっていく。それまで静かに息を潜めていたクラスメイトがざわつく。
智夜子は揺らめくように動くと、教室の窓から身を乗り出した。
そして――
「まっ……て! 雅日さん!」
誰かの声が教室の中に埋まる。何が起きたのか分からない。
ただ、最後に彼女の艶やかな髪が黒い煙のように見えただけだった。
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