シンユウ⑥

 ***


 後日談。


 放課後の賑わいが耳に心地いい。肌寒い季節だが、夏の蒸し暑さとも冬の厳しさとも違う中途半端な温度の方が過ごしやすい。

「朝田先生、さよーならぁ」

 廊下ですれ違う女子生徒たちに、絵の具などの画材を抱えた美鈴はにこやかに微笑む。

「気をつけてね」

「はぁ~い」

 美鈴は今、母校で美術教師として働いている。

 少し前、校舎の屋上で飛び降り自殺をしようとした生徒がいた。先日なんかは、行方不明となっていた男子生徒が校舎内で遺体となって見つかったばかりだ。

 この学園は死が近い場所なのだろうか。そんな馬鹿げた考えが過ぎり、美鈴は自嘲した。

 未遂とは言え、自殺を図ろうとした屋上はいつまで経っても閉鎖しない。その理由の一つは、学校の構造である。屋上は校舎に沿ってコの字形を模しているのだが、その一角にプールがある。

 なくしてしまえばいいのに、と思う反面、自分のお気に入りの場所がなくなるのは嫌だと矛盾した思いを抱えていた。

「あの頃から、なぁんにも変わってない……」

 学園も、自分も。

 いつも誰かに何かにしがみついて、それでしか自分を保つことができなくて、いつも不安で、怯えていた頃の自分。今も、大して変わってはいない。

 放課後の空は澄み渡っていて、不甲斐ない自分を嘲笑うかのように見下ろしている。美鈴は画材を降ろすと、溜息を吐き出して手摺を握った。

「こんにちは、朝田さん」

 静かな声が背中に刺さる。振り向いて息を呑んだ。

 長い髪に、真っ白な肌、りんごのように真っ赤な唇はあの頃と変わっていない。

「まさか……本当に……」

 また会えるなんて思っていなかった。本当に、存在しているなんて信じていなかった。

 可哀想な男子生徒が「雅日」と口走るまで、思い出したくもなかったのだから。

 智夜子は首をかしげた。その動作が何故だか似合わない。年相応の仕草であるはずが、端正な顔立ちが邪魔をしている。

「本当に、雅日さん、なの?」

「えぇ。そうよ。私は雅日智夜子。今はね、相談室を開いているのよ」

「相談室……」

 美鈴は反復し、やり場のない溜息を吐くために彼女から目を逸した。強めの風が頬を叩いていく。それはどうにも冷たくて、心地が悪い。

「ここで飛び降り自殺しようとした生徒がいたの。その……相談を受けたって、あなた?」

「どうしてそう思うの?」

 智夜子は楽しそうに唇を緩ませて訊いた。

「なんとなく」

「なんとなく、ね。随分と賢くなったじゃない」

 鋭く物を言うところも相変わらずだ。楽しげな智夜子とは裏腹に、美鈴は眉を寄せた。

「相談室、なんてものがあったのね……どうなんだろ。今も、誰かの悩みを聞いているの?」

「えぇ、まぁ。色んな悩みが溢れてるわよ、ここは」

 智夜子の真っ黒の目が近づく。それはいつの日か見て、いつの間にか忘却しようとしていた色。これに捕まると、身動きが取れなくなる。

 思わず目を逸らした。

 口ごもってしまう癖はある程度直したつもりだったのに、智夜子を前にすると十七歳の自分に戻ってしまう。

「雅日さんは、今もここにいるのね」

「それはお互い様よ。あんなに怯えていたのに、まだここにいる」

「そう、かもしれない」

 ――何故だろう。何故、私はまだ学校にしがみついているのだろう。

 考えないように努めていたのに、彼女を前にすると思考が巡っていく。目まぐるしく。

「ねぇ……どうして死んでしまったの?」

 思わず口走った。

「あの時、何も死ぬことなかったじゃない。私のせいであんなことになって……あんなの、ないよ……」

 今にでも涙は溢れてくる。いつまで経っても枯れない。長い時間を費やして、どんどん溢れてくる。

 そんな、悲痛な表情を浮かべる美鈴に、智夜子は吹き出した。

「ふふっ」と。実に軽く。それから、真っ赤な唇から笑いがこぼれ落ち、次第に大きく膨らんでいく。

「朝田さん、貴女、勘違いしてるわ」

 智夜子の声には相変わらず情はなかった。無邪気さを孕んで、ただ笑っている。そんな彼女を美鈴は黙ったまま怪訝に見つめた。

「自惚れないで。貴女の為に死んだわけじゃないのよ……私は、貴女なんかに構っていられる余裕がなかったの」

 智夜子は美鈴に近づくと、人差し指と中指を這わせて肩を撫でた。服の上からでも伝わる、ひんやりとした感触に思わず身震いする。

 かつてのクラスメイトが、今では何か恐ろしい物に見えた。見た目こそ変わらないのに、自分だって中身はあの頃と同じなのに、何故、恐怖を覚えてしまうのだろう。

 彼女が生きていないからか。

「あの時の私は、どうしようもなく辛くて苦しくて、死んでしまいたいくらいに悲しかったの。何故だか、分かる?」

 智夜子の指が、首筋をさわる。美鈴は恐怖と闘いながら、記憶を掘り起こした。

「あの時期に、ご家族の誰かが亡くなったっていうのは、知ってるけれど……」

「そうよ。唯一の理解者だった人が死んだの。あの頃に、丁度」

 ――唯一の理解者……?

「私はね、親に嫌われていたの。何故かは知らないけれど、疎まれていたの。でもね、だけは違った」

 耳を塞いだ。目を瞑った。それでも智夜子の声は掻い潜って心に侵入する。

 母親に見向きもされない日々が目まぐるしく駆け巡り、美鈴はふらりとよろける。聞きたくない。江美のこと以上に、母のことは思い出したくもない。

 智夜子と自分が重なっていくことに耐えられなくなる。

 本当は、江美なんかどうでも良かった。問題を江美だけに押し付けて、自分の中ですり替えていた。そして、智夜子が死んでからは「自分のせい」と思い込んで、また大きな問題に目を背けていた。

 忘れようとした。

 江美が退学して、自分の元から綺麗に消えても、得るものは何もなかった。そもそもの始まりが江美ではないのだから、いなくなってしまったところで現状は変わらない。むしろ、存在意義さえもなくなった。

「いや……」

 最初から必要とされていない。

 だから、自身をも必要としない。だから、意思なんて要らない、と言い聞かせていつの間にかそうなっていたことを、まざまざと思い起こされて吐き気がする。

「私はただ、消えるための度胸が欲しかったの。私、こう見えて臆病なのよ……田代さんには悪いけれど、でも、彼女は既に許されないことをしていたものね」

「やめて……」

 それからすうっと息を飲む音が聴こえ、声は言葉を紡ぎだした。

「朝田さん」

 智夜子は美鈴の涙をすくい取った。途端、震えが収まり、耳を塞いでいた両手が離れる。美鈴はゆっくりと目を開けた。

 いつの間にか手摺が、自分の背後に移動している。いや、自分が手摺を越えたのか。分からない。

「ごめんなさい。本当に。こんなにも、遅くなってしまって」

「……え?」

「約束、したでしょう? 貴女の悩みを聞くって。それを、今、ようやく果たせそうなの」

 彼女の声は、先ほどとは打って変わって冷ややかだった。それが更に恐怖を倍増させる。

「貴女は、だわ」

「っ……!」

 智夜子が美鈴の肩を押す。強くて、抵抗できない。仰向けのまま、手を伸ばす。でも何もつかめず、空を握るだけ。

 身体がふわりと浮いたと気づいた頃には美鈴は深い底へと落ちていった。



 *


 *


 *



 光が瞼に当たる感覚に、美鈴は思わず呻く。

「気がついたのね」

 顔を覗き込むようにして智夜子が言う。

「ここ、は?」

 白い天井、手に張り付く埃、見覚えのある教室が視界に浮かぶ。そんな挙動不審な旧友を見て、智夜子は笑う。

「そんな間の抜けた顔をしないでよ」

「え? 私……死んだんじゃ……」

 意味が分からない。古ぼけた空き教室は、今の学園の造りと少し違う。ここは一体、どこなのか。

「ここは学園相談室ラビリンス」

 クスクスと尚も笑いながら智夜子が言う。美鈴は起き上がって辺りを見回した。

「悩める人だけに開く相談室」

「相談室……? でも、ここって……」

 木材の匂いと、黒ずんだ床板、チョークの跡が消えない黒板。ここは、八年前、美鈴が使っていた教室だった。しかし、机と椅子が一掃され、代わりにゼミテーブルとパイプ椅子が二つだけの寂しい空間に変わっている。

「朝田美鈴は。でも、それはだけ」

 ゼミテーブルに腰掛けて、智夜子は言った。その言葉を美鈴は心の中で反芻する。

 ――朝田美鈴は死んだ。大嫌いな自分が、死んでしまった。本当に?

 美鈴はふらりと立ち上がると、スカートについたゴミを払った。赤を背景に悠然とゼミテーブルに座る智夜子を見つめる。

「……雅日さんは、いつもここにいるの?」

 身軽とまではいかずとも口元は滑らかだった。重たくなっていた思考も溜まっていた鬱もまだ燻ってはいるが、不思議と息苦しさはない。

「えぇ。でもね、私が呼ばなければここには来られないの。私の、本当の悩みを教えてくれる人が現れるまで。ずっと、ここに」

「そ、っか……」

 ということは、自分は彼女の悩みのではなかったということか。

 彼女が居続ける限り、学園の生徒の悩みは全部、彼女に食べられてしまう。

 いつか、代弁者が現れるまで……。

「寂しく、ないの?」

 愚問だと思った。それでも、智夜子は口を開いてくれる。

「別に。もう、慣れたもの」

 無愛想な声。智夜子は足を組み替えると、脇に置いていた文庫本を開いた。美鈴には見向きもしない。

 もう興味とやらはなくなってしまったのだろう。智夜子はまるで何も変わっていない。変わることなく、居続ける。居なくなってはいないのだ。

 それなら――

「また、会いに来ても……」

「いいえ、もう来ないでちょうだい。貴女はもう悩まなくていいはずなんだから」

 素っ気なく冷たい声だ。しかし、その真っ赤な唇が緩んでいたことを美鈴は見逃さない。苦笑を湛えてドアまで足を踏み出す。

「さようなら、朝田。しっかり頑張って」

 ドアを開け放つと同時に、智夜子の激励が背中を押した。


《case7:シンユウ、了》

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