case4:中毒
中毒①
ぷつりと、繊維が解けていく。そして、ぷくりと紅い血溜まりが出来上がる。
じわじわと浸蝕する痛みは「生」を感じるもので、その瞬間が堪らない。
例え、この指先がボロボロになってしまっても、やめることは出来ないだろう。
もっと、深く。
次は綺麗に剥がしてみよう。
ゆっくりと、ゆっくりと、慎重に。
力を、こめては、いけない……。
「ただいまぁー」
階下から聞こえる母の声に、彼女は思わず肩を震わせ、手元を狂わせた。
まるで、針に糸を通すような慎重さがいとも簡単に破られ、指先は真っ赤に染まる。
机に散らばった剥がした爪と血を流す指先を見つめて、彼女は溜息を吐いた。
***
「どうしたら治りますか?」
出し抜けに、彼女はそう訊いた。その口調には勢いがあり、どことなく焦りを感じる。
しかし、目の前の女子生徒――
「……それはお医者さんにでも治してもらえばいいわ」
相談室は少し肌寒い。枯れ葉はとうに地面へと落ちている今日この頃。
まだ真新しいセーターの袖をひっきりなしに伸ばそうとするその少女が相談室へ現れたのは、昼休みのことだった。
「でも、あまり大事にはしたくないんです。私、長女だし、お母さんは弟たちに構いきりで……お父さんは単身赴任でいません。お金だってそんなにないし……」
冷たい視線に耐え切れず、今度は消え入る声でそう言う。
感情の起伏が激しいが、結局のところ焦りは最初から拭いきれていない。
「
「でも、雅日さんなら……」
「私は万能じゃないの。特殊な力を持っているわけでもないし。そもそも何故、私に相談してくるのかしら?」
智夜子は彼女の袖をチラリと見た。その下に隠されているものは、出会い頭に確認している。
その視線から隠れようと、彼女は更に袖を引っ張った。
「同じクラスの、
飛び出した答えに、智夜子は顔を歪めた。鬱陶しげに肩にかかった髪の毛を払う。
「……なるほどね。呼んでないのに、ここへ来たってことはそういうこと」
智夜子は表情を緩めて言葉を吐いた。穏やかなその声に少しの悔いが含まれている。言葉の意味は分からない。
しかし、説明するでもなく智夜子は天井を見上げ、目を閉じて思案する。
沈黙の後、薄く目を開いた。真っ赤な唇がゆらりと動く。
「小早川
「は、はい」
改まって名を呼ばれ、千秋は背筋を伸ばした。緊張の顔を向ける。
「指を出して」
智夜子に言われるまま、袖に隠した指をゆっくりと出す。
「でも……前にも見てもらいましたよね」
「まぁ、あまり人目には触れられたくないものでしょうね」
千秋が差し出した両の手の爪は、ほとんどが剥がれていた。断層のような透明のそれは、指先を守る機能を果たしてはいない。
柔らかな肉にまで針を刺した痕があり、真っ赤な指先を智夜子は無表情で見つめる。
「あのぅ……」
千秋は今にでも指を引っ込めて隠したい衝動に駆られていた。しかし、智夜子はそれを許さず、彼女の両手を掴んだまま離さない。
「きっぱりと『やめる』ことをお勧めするわ」
「でも!」
「いい? やめること。それしか方法はないわ」
素っ気なく言い放たれるも、解決法が思いつかない千秋は項垂れるしかなかった。ふてくされた顔をする。
「……やめられないからこうなったんですよ」
「やめなさい」
ピシャリと言われ、千秋はもう口を閉じた。ようやく両手が開放され、すぐさま袖を引っ張る。
「明日、また来るといいわ。もう追い返したりしないから。こうなったら、貴女がきっぱりとやめられるまで付き合ってあげる。そうねぇ……手始めに、貴女が持ち歩いているソーイングセットを寄越しなさい」
智夜子は無感情に言うと、千秋に手のひらを突きつける。
あまり納得は出来なかったが、それでもこの悪癖を治してもらえそうならば、と千秋は渋々パイプ椅子から立ち上がる。ポケットに忍ばせていた手のひら大のソーイングセットのケースを智夜子に差し出した。
***
痛みは、ある意味「生」を感じるものだった。
いつから始めたのかは忘れたが、今やあのじわじわと身体を巡る痛みが忘れられない。それが脳からでも指先でも手首でも足でも、どこから来ようが同じものだと思う。
思考は既に、痛みでいっぱいだった。
その理由は恐らく、指先がむず痒いせいか。爪が目に入ってしまえば益々気になってしまう。
――もっと……もっと……。
脳が信号を送っている。
柔らかく薄っすらと膜が張った、その指先に鋭く光る針を刺したい。
ふっくらと真っ赤な鮮血があらわれる。じんわりと浸蝕する、痛み……その感覚に溺れる。
針はどこにいったのだろう。
彼女はポケットを探ったが、そう言えばソーイングセットを預けてしまったことに気がついた。
無いのならば、諦めるしかないだろう。それなのに、指先は勝手に爪を剥がそうと引っ掻いている。無い爪で引っ掻いている。
「……あぁ、もう」
上手く剥がせない。
あの、薄皮をめくる感覚が欲しい。でも、針はない。
彼女は苛立ち紛れに、机の上にあるものを探した。
何か、尖ったものはないか。ピンセットでも、ハサミでもなんでもいい……と、ふと目に留まったのは、脇に転がっていたシャープペンシルだった。
カチカチとノックしたら、黒い芯が出てくる。針には劣るがそれは細長く、鋭く、今のこの症状を抑えるには気にするほどもない要素だった。
先端を、傷口に刺す。差し込んでいく。
薄く透き通った爪を捲るように。
赤の中に黒が混ざり合い、彼女は僅かに怯んだものの、すぐに余計な思考を跳ね除ける。
「いった……っ!」
思わず呻きたくなる指先に伝わった強い刺激に、彼女は顔をしかめつつも恍惚の笑みを浮かべた。
――あと、もう少し……
しかし、その行為を邪魔する音が耳元に伝わった。
「千秋ー、ご飯よ」
「っ!」
階下からのその音に、千秋は身震いして持っていたシャープペンを落とす。
コロコロとフローリングに転がっていくそれは、ベッドの下へと隠れた。
「はーい。今行く……」
溢れ出る自身の血を舐めて、彼女は長く伸びきった袖で指を隠す。そして慌しく部屋を出た。
***
「指を見せて」
ゼミテーブルの上に座る智夜子が繊細で細い手を差し出しながら言う。
ほっそりとした指はしなやかで、自分の不格好な指を晒すのは気が引けた。しかし、無言で迫る圧迫感に耐え切れず、千秋はのろのろと長く伸ばした袖を捲る。
「はぁ……またやったわね」
智夜子の冷たい声に、千秋は思わず身震いする。
「す、すみません……」
「袖で隠しても無駄なことよ。まったく、何のために針を取り上げたと思ってるのよ。一人になれば自傷行為を抑えられないなら、強硬手段に出るしかないわね」
「え……」
呆れたように息をつく智夜子。彼女はゼミテーブルから降り立つと、部屋の隅にある棚へ向かった。
千秋の胸に不安が過ぎる。
一体、彼女は何をするつもりだろうか。どこか人間離れした情のなさや声は一層の不安を煽るもので、ただただ固唾を飲んで成り行きを見つめる。
しばらくして、智夜子は棚から何かを探し当てたのか、千秋の元へ戻ってきた。
「小早川さん」
「はい……」
恐る恐る返す声は震えが混ざる。そんな彼女に、智夜子はスッと手のひらに収まるほどの箱を差し出した。
紙で出来ているとすぐに分かる。そして、その箱には不安を一気に解消するような、ポップな絵柄がひしめいていた。
「え? 絆創膏?」
「そう。貴女に一箱あげるわ」
素っ気なく言う智夜子。千秋は安堵して苦笑した。
「意外ですね。雅日さんが可愛いキャラものの絆創膏を持ってるなんて」
「私のじゃないわよ」
千秋の言葉を一刀両断する智夜子。その顔には一切の情がない。
そのせいで、ぴたりと笑いがおさまった。
「とにかく、爪を剥がしたところ全部にその絆創膏を貼りなさい」
人差し指を向け、智夜子は命令の如く言い放つ。千秋はそれでも首を傾げて絆創膏のケースをしげしげと眺めた。
「薬、とかつけなくていいんですか?」
どうにも彼女の言動が解せないので訊いてみる。すると、智夜子はあっさりと返した。
「いいわよ、別に。まぁ、つけてもいいけれど」
「でも、こんなの気休めにしかならなくないですか? すぐに治るわけでもないし……」
「治療……と言えば、確かにそうなんだけれど」
何やら含むような言い方だ。それから、彼女はふふふ、と甲高くも小さい笑い声を飛ばす。
「そのうち分かるわよ」
声と同時に、どこからかチャイムが轟く。一時間毎に正確に刻むチャイムだが、この部屋に時計はない。
千秋は外の景色を窓から覗いた。もう、陽が暮れかけている。
赤いその色は、いつもよく見ている自分の血液と同じに思えた。
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