恋愛相談③
「ええっと……」
顔を仰け反らせて、慧は声と一緒に息を吐き出した。それから、一拍置くと話を始めた。
「彼女の名前は
「それで付き合ってみたら、イメージと全く違ったのね」
智夜子の繋ぐ言葉に、こくりと頷く。
そう。まさか、彼女が束縛をするとは思わなかった。
クラスが違うので、部活を引退してからはめっきり学校で会うことはなくなった。その分、連絡してくる量が異常に多い。
「毎日、決まってその日の行動を聞いてくるし。最初は会話してるみたいで楽しかったけど、それなら電話すればいいよなーって。でも、ユカは電話じゃなくてトークアプリの方が良いみたいでさ……で、付き合い始めて一ヶ月経った頃、別れようって言った」
堰を切ったように口から言葉と感情が溢れてくる。
毎日毎日、文字を打つだけに時間を取られる。画面越しの彼女はよく笑い、楽しげで、時折甘えてくる。それが可愛いと思えたのは最初だけ。
相手をすることが億劫になっていくのも、割りと早い段階で訪れた。
「ふうん。別れようって、そうはっきりと言ったのね。それは何故?」
「面倒くさくなった」
「あら、まぁ」
智夜子は面食らった表情をさせるも、すぐに愉快そうな笑みを見せた。対し、慧は俯き加減でボソボソと呟く。
「だって本当のことだし……」
「素直なのは良いことよ。今初めて貴方に好感を持てたわよ」
「そりゃどうも」
自嘲気味に笑い、それから慧は唇を噛み締めた。
嫌な記憶を掘り起こす。それは、とてつもなく面倒で、腹の底に不快を生んだ。
「……それからだったよ。あいつが更にしつこくなったのは。前はそうでもなかった通知が一分も置かずに頻繁になった。『今なにしてるの?』から始まって、返さなかったら最後は『死ぬ』と脅しにかかってきた」
絞り出す、慧の言葉。それを智夜子は黙って聞いていた。ただ、大人しいわけではなく、艶やかな自身の髪の毛を人差し指で丸める動作を繰り返している。
そんな素っ気ない態度に苛立ちを覚えるも、慧は構わず話を続けた。
「『死ぬ』なんて大袈裟な、と初めは放っておいた……でも、その通知の翌日、ユカは……」
声が出なくなった。
指先がかじかんでいるのか、少し震えている。身体の奥底がざわざわと騒がしい。あの時のことは思い出したくない、と脳が勝手に消去を促す。
「――自殺未遂を起こした」
慧の代わりに、智夜子が言葉を掬う。
その重い言葉は脳天を突き刺す程の衝撃があり、彼はすぐさま頭を抱えた。
「まさか、本当にやるとは思わなかったんだ。それで俺は、面倒だったけど返信してきた。さすがにまた『死ぬ』なんて言われたら堪んねえし……」
「だから貴方は、まだ彼女と付き合ってるわけね。なるほど」
まとめるようにして智夜子が神妙に頷く。事務的なその態度に、何故か寂しさを覚えてしまう慧は顔をしかめた。
「それで、今日、事件が起きたのよね」
「あぁ……酷い目に遭った」
深い溜息が飛び出す。いつの間にか、身体が重たい。肩に何かが伸し掛かっていく。
疲弊した声を落とすと、智夜子も合わせて息をついた。それは実につまらなさそうに。
「昨日、貴方がここでばったり会ったのが川井さんね。彼女、こう言ってたの。『飯原が、私のこと好きだって聞いたんだけど、本当にそうなのかな』。更には『でも、他にも告られた子が他にもいるわけで……たぶらかされてんのかな、私』と」
「……お前、それで何て言ったんだよ」
その結末が見えてくるようだったが、試しに訊いてみる。彼女は、サラリと答えた。
「知るわけない、って言ったわ。そしたら、彼女、怒っちゃって」
「怒るに決まってるだろ……」
いくらなんでも無愛想だ。
慧は呆れの目を向けた。しかし、咎めるも彼女は表情をツンとさせて、真っ赤な唇を尖らせている。
「むしろ、あんな
「……今日、その三人に会ったよ」
すっかり意気消沈した慧。智夜子が目を細める。先を聞こうと、彼女は黙り込んだ。
「聞いてみたらあいつら、俺の好みに合わせて外見を変えてきたらしい。一気に文句言われて散々だったぜ」
「そうなの。彼女たちは誰に言われたって言ってた?」
そう問うも、彼女の口ぶりは何もかもを見透かすようだった。
――分かっているくせに、あえて訊くなんて性格悪いやつだ。
内心で毒づきながら重い口を開かせる。
「……ユカだ」
あの三人は口を揃えて、ユカの名前をあげた。そこがどうにも分からない。
ユカは、慧が誰とどこで何をしたのか正確に訊いてくる。学校で女子と喋っていたと知ったら、しつこく追求してくる。それにもかかわらず、だ。
「何か、その原因の心当たりはないの?」
「あるわけないだろ。何一つ思い浮かばねぇ」
「そう……」
智夜子の声のトーンが急に下がった。何か思案するように考え込んでいる。
彼女が黙ると、その気配が消えてしまったように教室は静まり返った。慧は膝に肘をつき、頬杖をついている。
しばらくして、スマートフォンの通知音が「ポーン」と鳴り響いた。無音の空間に突如現れたその音が、胸を締め付け全身の不快感を募らせる。
――ユカだ……。
ブレザーのポケットに入れていたスマートフォンを、思わず握りしめた。
「……ねぇ、飯原君」
「え?」
唐突な呼びかけに、慧は思わず声が上ずった。
それまで沈黙していた智夜子の、真っ赤な唇が滑らかに動き始める。
「人気者って、つらいわよね」
彼女はいつも言葉が唐突だ。話の流れを勝手に動かしてしまう。それに追いつくのがやっとだ。
「例えば、貴方は元サッカー部のエース。進路も既に決まっている。顔もスタイルもいい。持ち物は全て一級品。不自由はないけれど、その分かかる期待は膨れ上がる」
「……何? また、嫌味?」
彼女の吐く毒に、慧は慣れがきていた。思わず笑ってしまうほどに。
しかし、智夜子はそんな軽口をあっさりと躱す。
「貴方はそうやって今まで『完璧』に生きてきたわけだから、大抵のことは慣れていると思うわ」
「何が言いたいんだよ」
回りくどい言い方に、苛立ちが再び戻ってきた。そんな彼の険しい顔に、智夜子が長い髪の毛を落として、顔を近づける。
「一番つらいのは人気者の側にいる人ってことよ」
「……は?」
「まったくわけが分からないって顔ね。説明してあげる」
偉そうな口ぶりで言うと、彼女はニヤリと笑った。その三日月型の唇が目に焼き付く。慧はごくり、と唾を飲み込んだ。
「あるところに、人気者の男の子がいた。彼は才能を持ち、魅力もあり、あらゆる人々に好かれていた。その大勢の中、ある女の子がたちまち彼の目に留まる姿に変身した。無論、彼はその子に一目惚れしてしまう……なんだかおとぎ話のようね。こうして、二人は結ばれました。めでたしめでたし」
小さな拍手が教室に響く。
それが徐々に消えれば、彼女は物語の続きを始める。
「……ではなく、ここからが始まりだったの」
それまで高らかだった智夜子の声が、暗く、低いものへと変わっていた。
「ある日、彼女は不安になった。彼は自分のものになったけれど、ライバルはたくさんいる。彼が奪われてしまうかもしれない、という不安、恐れ、焦り……だから、彼女はそのライバルたちを先に取り込んだ」
「……」
「敵を味方へと変えて、彼女は信頼を得た。そして仕上げにかかったのよ」
息を飲んだ。段々と浮かび上がる真実に、顔が青ざめていく。
「つまり、ユカは俺を貶めて自分だけのものにしようと……?」
「えぇ。彼女はね、あの三人の信頼を得た後、実行したの。大方、『飯原君の好きなタイプを教えてあげる』とか言って、ね。その結果、貴方は今、最悪な状況に陥っている」
言葉を突きつけられてから、ようやく事の重大さを実感した。どこか他人事のに思えていたのが、途端に焦りを覚え、体の中の何かが振動する。
慧は息を止めて、智夜子の黒い瞳を呆然と眺めた。
「噂って、怖いわよね。悪い方に向かわなければいいけれど」
背筋が凍った。指先の震えは、かじかんでいたからではなく、右手に握られたスマートフォン……それは今も絶え間なく通知音が鳴り響き、振動する。
慧はそれを忌々しげに見た。
「くそっ……あいつ……!」
「本当、迷惑よね。あの子の愛情はとても重くて歪んでいる。でも、それは貴方に魅せられたから」
「俺のせいってか。ふざけんな。冗談じゃねぇ」
「いいえ。運が悪かっただけよ」
慧は立ち上がり様にパイプ椅子を倒した。気にしていられない。握っていたスマートフォンを床に叩きつけると、智夜子を見た。
薄暗がりの部屋に、ゼミテーブルの上で優雅に座っている智夜子の姿はまるで人形のよう。
カーテンからは何の光も漏れていない。今日は、とにかく天気が悪い日で、曇り空は陰鬱な空気を醸し出していた。
「このままで、いいの?」
静かな声で問われると、感情が冷めていく。
慧はスマートフォンを睨みつけたまま、低く唸った。
「良くないに決まってる」
叩きつけたスマートフォンはカバーのプラスチックが欠けただけで、壊れてはいない。通知は未だに止まない。
「じゃあ、どうするべきかしら?」
「……」
――どうするべき、か。
このままだと、積み上げてきたものが全て消えてしまう。先の人生を綿密に計画していたわけではないが、このままでは良い方へ向かうとは到底思えない。
彼女の毒に冒され、窮屈な日常を過ごすことを選べば……気が狂いそうだ。
――だったら……
「答えが出たようね」
何の色もない智夜子の顔に、笑みが浮かんだ。床に投げられたスマートフォンの光で、室は明暗を繰り返す。
「あぁ。もう……」
――こんなことは終わりだ。
鳴り止まぬ電子音を無視し、慧は踵を返すと相談室を出て行った。
―――未読メッセージ――
〈ユカ〉 どうしたの?
〈ユカ〉 何かあったの?
〈ユカ〉 ねぇ、慧くん、返事して
〈ユカ〉 ねぇ
〈ユカ〉 慧くん、返事して
〈ユカ〉 はやく
〈ユカ〉 はやく
〈ユカ〉 でないと、
〈ユカ〉 わたし、
〈ユカ〉 しんじゃうからね
―――
***
後日談。
「これ、お前の同級生じゃないか?」
その話を朝食の席で、父親から問われた。
目の前に掲げられたのは、新聞の見出し記事。知った名前の女子生徒が自殺未遂をし昏睡状態、との内容である。
慧は青ざめて、ブレザーのポケットを探った。何もない。空っぽだ。
「えっと……うん。そうだと思う」
たどたどしく答えると、父親は怪訝そうな顔をしたが、それきり何も言わなかった。
――俺のせいじゃ、ない。
しかし、右手はブレザーのポケットに突っ込み、ないはずのスマートフォンを探している。
もう彼女からの連絡はない。来るはずがない。自らで断ち切ったのだから。
「どうしたの、慧くん。具合でも悪いの?」
「え?」
母の声に、思わず肩を震わせる。
「顔色が悪いわ。まぁ、嫌だ。クマも出来てる。今日はお休みしたらどう?」
心配そうに顔を覗き込まれ、慧は思わず仰け反った。目を逸し「分かった」と小さく返すと、自室へと走る。
勢い良くドアを閉め、身を投げるようにベッドへ倒れ込んだ。
失くしたはずのスマートフォンを、右手は未だに探している。頭は消去作業で忙しい。
やはり、我慢すれば良かったのだろうか。いなくなれ、と思ってしまったのが悪いのか。
「後悔してるように見せかけて、本当は少し安心しているんじゃない?」
唐突に、そんな声がふわりと耳をさわった。あの無情な声は――さて、誰だったろうか。
痛む額を揉みながら、ゆっくりと起き上がる。窓の外は暗く、陰鬱な曇り空。
昨日の空と同じだ。
「俺のせいじゃない。あいつが悪いんだ」
言葉にして吐き出せば、心にかかった靄が溶けていくように思えた。
《case3:恋愛相談、了》
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