中毒②
「今すぐに」と言いつけられたので、千秋は絆創膏を全ての指先に貼った。
本来、爪があるおかげで指先は力が入れやすくなっているが、千秋にはその爪が僅かに残っているだけで何か細かなものを掴むにも一苦労だった。
層になった皮を剥がす作業を何度も何度も繰り返すことで、ふやけたように柔らかなピンク色が見えてくる。ふと力を入れすぎてしまえば血が出ることもしばしばだ。
我慢出来ないほど悶絶する痛みを感じるのは最初だけ。
指先の痛覚はどんどん鈍くなり、我を忘れて剥がしてしまう。修復しようと、伸びていく爪を見れば、気になって剥がしてしまう。
しかし、親指の爪を一掃してしまえば今度は人差し指、中指と順番に剥がし尽くすところまで来て、ようやく彼女は気づいた。
指先が割れ、血が溢れ、醜くなって初めて気がついたのだ。
これを、誰かに見られたら嫌だ、と。
智夜子から受け取った絆創膏は、カラフルな彩色が施されており、ふんわりとしたフォルムのうさぎは流行りのキャラクターだった。
千秋は早速、全ての指先に絆創膏を貼ったままでしばらく日常を過ごした。
不思議なことに指先が見えないせいか、千秋は絆創膏を貼ったその日からしばらく悪癖を働こうという気が沸かなかった。
「雅日さん、ありがとうございます!」
相談室を訪れてから二週間が経った頃。室に入るなり、彼女は元気よく頭を下げる。
突然のことに、智夜子は珍しく面食らったように驚きを見せた。
「ええっと……一体、どういうことかしら」
「だって、この絆創膏貼ったら癖が治ったんですよ! すごいです! やっぱり雅日さんに相談して良かったです!」
へらっと口元を緩ませて、満面の笑みを浮かべる千秋。
相変わらず指先にはカラフルな絆創膏が見えているが、言いつけ通り爪を剥がす行為は一切していない。
まさか、こんなにも安易な方法で癖が治るとは思わず、嬉しさで浮かれてしまう。
しかし、頬を緩めっぱなしの千秋を、智夜子はじっと静かに見据えていた。
この温度差に気づいた千秋は、すぐさま怪訝そうに彼女を見返す。
「ん? どうしたんですか?」
「いえ……なんでもないのよ。良かったわね」
「えぇ! もう本当に、お陰さまで! 本当、ありがとうございます!」
「ふうん……」
智夜子は目を逸らして、持っていた文庫本に目を落とした。
その素っ気なさも、今ではまったく気にならず、むしろ彼女の
「じゃあ、もう悩みは解決したのかしら?」
「へ? したんじゃ、ないですか?」
「いや……私が訊いてるのだけれど」
千秋の楽観的な返事に、智夜子は眉をひそめる。
文庫本を置き、彼女は長い溜息を吐き出すと腕を組んだ。
「ええっと、小早川さん」
「はい」
「痛いところはもうないの?」
「え……?」
千秋は思わず指先を見た。
指先を何かでぶつけたら血が滲むほど皮膚が割れるが、それを注意していれば特別、痛みを感じることはない。
元より、千秋にとって「痛み」は苦痛ではないのだから、気にするほうが不自然である。
それなのに、智夜子は顔を近づけて、尚も問うた。
「ないの?」
千秋は笑顔を引っ込めて、思い当たる節をあたふたと探した。
脳内を巡らすも、やはり最近で痛みを感じたことは――
「……ないですけど」
「本当に?」
「はぁ……」
気の抜けた返事を聞いて、智夜子はゼミテーブルから降りた。そして、目の前にいる千秋の額をさわる。
それは氷を当てたような冷たさで、思わず息を飲んだ。
「ここは?」
指先でとんとん、と軽く小突かれる。千秋は全身を強張らせて、ゆっくりと躊躇いがちに口を開いた。
「うーん……今は、ないです」
「今は?」
智夜子は少し威圧的に訊いた。その鋭い声には威圧感があり、まるで叱責を受けているかのようで怖気づいてしまう。
肩を震わせ、千秋は小さな声で薄情した。
「はい。あの、元々、偏頭痛持ちだったんですけどね、今はなんともないです」
「ふうん……それじゃあ……」
智夜子の指が頬を撫で、首筋を伝う。
そして冷たい指先は、次に彼女の小ぶりな胸へと到達した。
「ここは?」
「えぇっ? えぇっと……えぇっと……?」
「答えて」
千秋の耳元で、智夜子は囁いた。
キリリとした柑橘系のような、いや、甘ったるい花のような……不思議な香りが鼻をくすぐり、千秋は固まる。
「痛くない?」
撫でる指先は服の上からでも冷たさが分かる。ごくりと息を飲み込むと、震える声で答えた。
「いえ、別に……特には」
「――そう」
千秋の答えに、智夜子は声を低めて頷いた。
***
「ねぇ、ちあちゃん。指先、どうしたの? 大丈夫?」
移動教室の為、廊下を歩いている時だった。仲の良い友人である
右袖から覗く絆創膏に気がついたのだろう。すぐさま、袖を伸ばして爪を隠す。
「あーっと……ちょっと、切っちゃって」
「でも、人差し指から薬指まで絆創膏貼ってたよ? どういう切り方したらそうなっちゃうの」
訝る友人に、千秋は必死に誤魔化そうと大袈裟に笑う。ついでに、長く伸ばした袖も振っておいた。
「あーははは! いやぁ、私ってば包丁の使い方がてんでダメで」
「あ、料理したのね。なんだぁ~、そっかぁ」
「う、うん……」
右利きであるから、怪我をするはずがない。誤魔化した後に気がついたが、巴絵はそれからも気にする素振りがなく、千秋はホッと胸を撫で下ろした。
しかし、その瞬間に脳の奥を圧縮する感覚を覚える。鋭く切り込んでくる痛みに顔をしかめてしまった。
顔を伏せてももう遅い。
「ちあちゃん? どうしたの?」
「あー……うん、大丈夫、だいじょぶ……」
「頭痛い? 私、頭痛薬持ってるよ。あげようか」
僅かな変化を見逃さない友人を、疎ましく思う気持ちと有り難い気持ちが混ざり合う。
「ありがと」
巴絵はペンケースに常備させていた、白い錠剤を出した。市販の頭痛薬である。
彼女も最近は頭痛に悩んでいるらしく、酷いときには学校を休むほどだった。
因みに、その頭痛薬を教えたのは千秋である。
「最近はないと思ってたのに……急にくるから嫌になっちゃうよねぇ」
苦笑を見せれば、巴絵も安心したようだ。
袖から僅かに指先を覗かせて手を差し出す。右手は見られているのでもう隠す必要はないだろうと考えた。
一方、千秋の後ろめたさをまったく感じない巴絵はにっこり微笑むと、錠剤を彼女の手に二つ落とした。
「まったくもう。我慢しなくていいんだからね」
「うん……そうだね」
世話を焼くような友人の言葉に、千秋はやはり苦笑するしかなかった。
胸の奥では、何やら不吉な鼓動を感じる。その正体はなんなのか、はっきりとは分からないので、頭痛のせいだろうと決めつける。
授業が始まる前にさっさと薬を飲み込み、千秋は脳の締め付けに耐えようと俯く。
まさか指の代わりに、頭が痛み始めるとは思わなかった。
しかし、
初めの痛みは鈍く、じわじわと不快。しかし、それを耐えると痛覚は麻痺していく。
痛みを感じることで、生を実感するのだ。そこに溢れる安心感に溺れ、何も考えられなくなる。
痛み止めだって、本当なら必要のないもの。
――足りない……物足りない……。
いつしか「痛み」は、千秋の生活に欠かせないものとなっていた。
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