悪夢③
コツ、コツ……
後ろから足音が聴こえる。
いつか夢に見たものと同じ。暗い黒の道を歩いていると、足音が二重に聴こえてくる。
彼女は立ち止まると、すぐさま振り向いた。後ろから歩いてくる人物を捉える。
あの真っ黒なフードをかぶった、得体の知れないものがそこにいた。
「あ、あなたは、誰なの?」
震える喉を押さえながら問うてみる。
「……」
しかし、待てども返事はない。
「誰なのよ。なんで私をつけ回すの?」
「……」
「――そのフード……脱いで」
何も言わないそれに、気味の悪さを感じる。正体を知りたい。でも、知るのが怖い。手を伸ばせば、その黒に吸い込まれてしまいそう。
対して、真正面のそれは身動き一つしない。逃げようとも、しない。
思わず手を伸ばした。そして、ゆっくりとフードを払う。
そこにいたのは――
***
「嘘……」
唇は、そんな言葉をつくった。
目を覚ますと、そこは真っ赤な教室。
どうやら、ゼミテーブルに突っ伏して眠っていたらしく、首が痛い。労るようにゆっくりと体を起こすと、冷や汗が頬を伝って床へと落ちた。心なしか小さな動悸がする。
「あら、起きたのね」
そう声をかけられ、思わず肩を震わせる。
声の方向を見やると、そこには机の隅に座って本を読んでいた智夜子がいた。
あっと驚くほどの美しさを放つ彼女は、こちらの状況とは対称に軽快な口ぶりである。
「よく眠れたかしら?」
むしろ、皮肉に思えてくる。しかし、文句は吐き出されず、胸の中でとぐろを巻いたまま。ミナミは押し黙っていた。
すると、智夜子は溜息混じりに訊く。
「ちゃんと会えた? あの子に」
「……っ!」
何気ない、ただの言葉がどうして胸を突くほどに衝撃を与えるのか。
ミナミは驚きで声が出せなかった。その代わり、何故か涙が出てくる。後から後から溢れ出して、涙が出てくる。
夢に見たあの人を、どうして彼女が知っているのか。
脳内は夢と現実を交互に映し出し、混乱を極めていた。
何も言えず、ただしゃくり上げているミナミの前に影ができた。智夜子がいつの間にか脇に移動し、自分を見下ろしている。彼女の艶がかった髪の毛がさらさらと落ちてくる。
「――今の貴女は誰?」
その問の意味は分からない。
しかし、智夜子ははっきりとゆっくり、強い口調でもう一度問う。
「今の貴女。一体、誰なの?」
更に顔が近づき、智夜子の髪の毛がミナミの顔に当たる。ひやりとくすぐられ、思わず飛び退けば、椅子から落ちそうになった。その腕を捕まれ、なんとか大事には至らずに済む。
「今の、私……?」
今の、というのはなんなのか。
訊き返せば、智夜子はゆっくりと頷いた。
「何言ってるんですか……私は……」
野坂「ミナミ」という名前を脳内に作り出しても、何かに阻まれる。
まるで、それは「違う」と言っているように。
――私は……誰なの?
唐突に、赤が遠ざかった。あの真っ暗な空間に、吸い込まれていく。
これも夢なのだろうか。
目まぐるしく回る景色に、理解が追いつかない。ただ、椅子に座って呆然としているだけ。
すると、遠くで微かに啜り泣く音が聴こえた。
教室の隅と思しき場所がぼんやりと白い光で覆われた。そこに朧気な姿が浮かび上がる。
徐々に正体を現したのは小さな女の子だった。蹲って泣いている。
――慰めたい。
そんな感情が波のように押し寄せ、彼女は椅子から立ち上がった。しかし、腕はまだ掴まれたまま。
《 駄 目 よ 》
ゆるやかな声が響き、彼女はそれに従った。
啜り泣く女の子の横に、また白い光が浮かぶ。
今度は二人の男女。
姿形が浮き彫りになった時、彼らは泣いてる女の子に手を振り上げた。
「やめてっ! お願いっ!」
女の子の声と重なって、彼女はいつの間にか叫んでいた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
――お願い、許して。私、変わるから。
そう懇願して、彼女は顔を両手で覆う。
――あぁ……そうか。
叫びの中で静かな悟りが舞い降りる。
――あの子は、私だ。
気がつくと、教室は赤い光がそろそろ傾いていた頃だった。
静かな教室に、チャイムが鳴り響いても、智夜子と彼女はじっと向き合って座っている。
「貴女の名前は、野坂『ミナミ』?」
そう訊かれるも、彼女は首を振る。
「あたしは……
思い出した。全て。
「あたしは二人いる……」
智夜子は黙ったまま。聞いているのかいないのか。
それでも、美南は吐き出したかった。全部、胸の内に秘めた、自身にさえも秘密にしていたことを。
息を飲み込み、開口する。
「事の発端は、父のリストラが原因でした。荒れて、母にも八つ当たりしてて……母もそれで、壊れてしまったんです」
あれは、まだ小学生だった頃。
父が打つ。母は罵る。その繰り返しの毎日だった。
豹変した大人というのは、子どもにとって脅威である。
浴びせられる罵詈雑言。それは、とても酷い言葉で、思い出すだけで吐き気を催してしまう。
――必要とされる、
彼女は願い続けた。
それなのに、いつの間にか……一人歩きするようになった。
叔母の家に預けられるようになった今でも変わらない。
「それが『ミナミ』を生むきっかけだったのね」
「はい」
「でも、大人しいはずだったミナミが……あの悪夢を見せたのかしら?」
その問は、記憶を掘り起こすような促し方だった。ゆっくりとゆっくりと、閉ざされたものが姿を現していく。
「限界、だったんです……もう、抱えられなくて」
その言葉はやはり重々しい。
言葉にするのが怖い。認めるのが怖い。
「蓄積された嫌なこと、それがミナミを暴走させた。そういうことね?」
代わりに智夜子が言葉を紡いだ。
それは彼女なりの優しさか、はたまた悪意か。その判断を鈍らせてしまうほど無感情だった。
しかし、事実である。美南は俯いたまま頷いた。
「大人しくなろうと無理して抑えこんだ貴女は、いつの間にか壊れてしまった。自分でも気がつかないうちに」
――ミナミは……化物だ。
改めて気づかされる。「壊したい」と願う「彼女」は、自身で生み出した化物なのだ。
いつの間に、こうなってしまったのだろう。
「あたしは、ただ……良い子になりたかった、だけなのに」
喉を絞り出すようにして、美南は呟いた。
「それなのに、どうして……」
「始まりは、猫だったのよ」
思考の中へ割り込む、智夜子の涼し気な声。
「え?」
「始まりは、猫。貴女の友人だった猫。あの子が貴女のお父さんに殺されてから、始まったの。嫌なことだけれど、よく思い出して」
昨日に見た幻か。
美南は血の海と化したあの惨状を脳裏に浮かべ、嗚咽を漏らした。
「そうやって、夢と現実の区別がつかなくなっている。でもね、ただの夢なのよ。不安と恐怖に支配されて記憶が錯綜されてしまっただけ。彼女のせいでね」
――貴女のせいではないのよ。
その言葉が蘇り、美南は智夜子を見た。
あれは、美南に向けた言葉だったのか。
「今の貴女は『美南』と『ミナミ』の二人がようやく再会しただけで、まだまだ不安定。いつの間にか反発して仲違いしていたけれど、それじゃあ駄目なんだって、どちらもお互い、気がついたのね」
何故だろう。
本人でも分かり得ないことを、何故、いとも簡単にあっさりと見透かしてしまうのだろう。
その疑問を口にしかける。しかし、先に口を塞がれた。
「もう、やめなさいよ。良い子でいること」
「え?」
いきなり放たれる適当な言葉に、思わず拍子抜けする。
「でないと、次はないわよ」
智夜子の目が、鋭く突き刺さる。ニヤリと笑う彼女の唇が横へと伸び、三日月に変わる。
「つ、ぎ……?」
「そう、次。もし、またこういうことが起きたら『美南』でも『ミナミ』でもない別のものを創りだしてしまう。嫌なことが起きる度に貴女は増えていく。そうなれば今度は、もう本来の自分に戻ることが出来なくなってしまう」
「そ、そんなこと……あるわけ……」
非現実的な言葉は素直に受け入れられない。その発想に理解が追いつかない。想像が出来ない。
そんな美南に、彼女は溜息を投げた。そして今度は脅すように、恐ろしく冷たい声を吐いた。
「自分が消えてしまうって言ってるのよ」
その言葉が重く伸し掛かる。
「いい? 良い子をやめなさい」
――消えたくないのなら、ね。
救いの言葉か、悪魔の囁きか。
美南は重さに耐えきれず、こわごわ頷いた。手を取るように、彼女の助言を受け入れていく。
その時。
どこか奥の方で、頑丈だった鍵を破壊する音が響いてきた。
***
後日談。
あの日を境に、美南は少しずつ顔を上げることが出来るようになった。
「美南ちゃん、行ってらっしゃい」
「行ってきまーす!」
語尾を伸ばして言っても、大声を出しても、怒られることはなかった。
教師に授業の分からないことを訊いても、嫌な顔はされなかった。
顔を上げてみると、教室の賑やかな音の正体が分かった。
笑顔を見せると、クラスメイトが話をしてくれるようになった。
全てを吐き出していっぱい泣いたからか、それと同じくらい笑うことが出来た。
最初はぎこちなかったけれど、まだ完全な自由はないけれど、今まで縛り付けられていたものが、解けていくように思えた。
「良い子」はある種、呪いの類だったのだろう。
しかし、未だ「ミナミ」の影が残っているのか、度々、昔の記憶を引っ張り出そうとすることがある。
いつかまた「ミナミ」に戻る日が来るかもしれない。それでも、彼女はもう一人の自分を残すことに決めた。
怖がらず、疎まず、彼女を受け入れてあげようと、少しずつ手を重ねていく。
――もう、怖くないからね。
そう、言い聞かせて。
あれから「相談室」には行っていなかった。
もし、また同じことで悩んでしまったら行けばいい。今度は、「ミナミ」ではなく「美南」として。
放課後の校舎は赤い。振り返れば、あの無人の廊下がある特別教室棟が見えた。
「……ありがとう」
風に乗せたら届くだろうか。
そっと呟き、彼女はくるりと踵を返すと、家路へと向かった。
《case2:悪夢、了》
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