羨望症と渇望症③
藤崎亜子はただ注目を浴びたいだけだった。努力もその目的のための土台に過ぎない。
「一見、非の打ち所のないカリスマ学級委員長。でも、これは自分で望み創造したものだった」
「そして藤崎は、自身を過信していた。自分ならなんでも出来る、と。許される、と……あの頃の僕は、そんな彼女に羨望を送る駒だったんだ」
野添は智夜子の言葉に続けて、淡々と言葉を吐いた。暗い低音に諦めの色が混ざる。
「あらあら、随分と物分りがいいじゃない? 昔の貴方ならそんなこと考えもしなかったでしょうに」
「たった一年で思考ってものは変わるんだよ。あの時の僕は、ただ漠然と藤崎に憧れていたんだ。あんな風になりたいって。そして、藤崎の後ろにいることで安心感を得ていた」
藤崎亜子という越えられない壁を作り、自分の限界を勝手に設定した。
ぬるま湯はいつだって心地良い。ただ気楽に漂っていればいい。壁があれば流されてしまうこともない。
しかし、今はその壁がいない。突然、濁流に飲まれた野添は藁をも掴む思いで母校へ戻ってきた。
自分が目標にしていた人物が消失した、という喪失は大きなもので、彼は酷く憔悴している。
「――さて。貴方が一番最初にここへ来たのは、いつだったかしらね」
静かな時の中で、智夜子の声がふわりと浮かぶ。
野添は顔を覆った手のひらの隙間から、冷たい床を眺めた。
「藤崎の秘密を知った後……僕はどうしたらいいか分からなくなったんだ」
ゆっくりと、時間を辿る。
***
「貴方の悩み、聞かせてちょうだい?」
そう言われるまま、相談室へと恐る恐る足を踏み入れたのは体育祭が終わった後である。
藤崎亜子の働きにより、B組は学年優勝を果たし、クラス全体が一目置かれる存在となった。それについては、何も問題はなく寧ろ願ったり叶ったりで野添にとって不足はない。
しかしだ。亜子の秘密を知った今では、どこか素直に喜べない。
周囲からの注目を集めるためだけに、徹底して作られた個人データ帳――その存在が野添の気持ちを揺さぶっていた。
「ええっと、貴方はB組の副委員長だったわね。この間の体育祭は見事だったわ」
「でも、なんだか……スッキリしなくて」
躊躇いがちに言うと、智夜子は腕を組んでゼミテーブルの上から彼を見下ろした。
「何か不満があるの?」
「いや、そういうわけじゃなく……」
「じゃあなんなのかしら。藤崎さんばかりが目立っているから嫌だ、ということ?」
「違う」
智夜子の軽口に、野添は素早く否定した。その様子に、智夜子は目を丸くする。
「違うんだ。藤崎は、ただ、クラスの為を思ってやってることで……」
「クラスの為を思って、個人情報をその手に握っている」
するりと出てきた言葉に、野添は彼女を凝視して固まった。一方で、智夜子は唇の端をつり上げて笑う。
「あら、大当たりね。でも、藤崎さんって、そういう人だもの。理由もシンプルで、単に周囲の目を集めたいだけ」
藤崎亜子を語るには確かにそのまとめ方が正しいのだろう。
しかし、本当にそれだけなのだろうか?
注目されたいだけで、ここまでのことをやってのけるだろうか?
その疑念が渦巻く以上、亜子を異端に思えてしまう。野添は智夜子を見やり、困惑の表情を見せた。
「とにかく僕は、彼女の行いを黙認することにしたんだ。それについてどうも、自分の中で納得がいかないようで……」
「迷っているのね。彼女の真意が分からないから」
言葉の続きを掠め取られ、押し黙る。
「本人と話をするのが手っ取り早いと思うのだけれど、まぁ、そういうわけにもいかないわね。何せ、彼女は完璧なのだから。貴方好みの答えを用意してくるに決まってる」
妙に説得力があり、野添は黙ったまま頷いた。
亜子は自分よりも先回りして物事を見据えている。そうなれば、行動次第では上手く丸め込まれてしまうだろう。
現に、あのデータ帳を見せられた直後に実証済みである。
「どうしてこれを?」と問えば、亜子はあっけらかんと言い放った。
「クラスの為よ。より良い環境を作るため。先生だって個人情報を把握しているのだから、それと同じこと」
教師といち生徒では立場が違う……だが、藤崎亜子というブランドは三年目の学校生活において、教師と同等の価値にまで成熟していると言える。それほどの発言力があるのだ。
「野添くん」
思案していると、智夜子の声が割り込んできた。
「貴方は彼女を支えてあげたらいいわ」
「はっ?」
予想に反して、智夜子は至極真っ当な意見を述べた。
陰湿な笑みを浮かべる彼女に、あまり良い印象を抱いてなかったわけで、どこか毒を感じていたのだが。
ありきたりな解決法を告げられて思わず面食らう。
「何よ。私は相談室の室長よ。相談者の具体的な解決策を考えるのが仕事なのだから、意外でもなんでもないでしょう?」
「あぁ、まぁ……でも、それだけでいいのかな?」
釈然としない野添は探るように問う。すると智夜子はぴしゃりと言い放った。
「それだけしか貴方には出来ないわ」
「……」
「怒った顔しないでよ。何も、貴方が非力だとは言ってないわ」
「それじゃあ、どういう意味なんだ」
なだめるように言う智夜子だが、野添はまだ眉をひそめたまま。そんな彼に智夜子はほっそりとした人差し指を向ける。
「藤崎亜子の理解者というそのポジションが、貴方にとって都合がいいからに決まってるじゃない」
その声音の低さに、野添は言葉を失った。
***
「貴方って、とても律儀よね。私の言葉通り、あの子を支えて高校生活を終えたんだもの」
「あぁ。僕は、それなりに充実した高校生活を送り、終えた。先を考えもせずにね」
パイプ椅子の背にもたれ、野添は溜息を吐き出した。鬱屈とした空間は未だに慣れない。
「……その言い方だと、どうも不満があるようね」
察しの良さは嫌いではない。寧ろ、話が早くて助かる。しかし、彼女の不遜な態度が気に食わない。
野添は不機嫌あらわに智夜子を見やった。
「僕はようやく気づいたんだよ。君に騙されたってことに」
「卒業して、大学生になって、彼女という羨望の対象が居なくなって、ようやくってことね」
淡々と並べられるそれは、軽薄な色を浮かべていた。情も悔いも一切見当たらない。それが野添の全神経を逆撫でする。
パイプ椅子を押し倒す勢いで立ち上がると、彼はその手のひらで智夜子の襟を掴んだ。
「分からないか? 僕は君を恨んでいるんだよ、雅日智夜子」
眼鏡の奥にあるどす黒い目で彼女を睨みつける。
智夜子は怯むことなくゼミテーブルに座ったまま、細めた目で見返している。
「私を恨むのは筋違い、というものよ」
冷たく嘲った口調が、ずぶりと胸に突き刺さった。だが、ここで引くわけにはいかない。
「貴方がどうして怒っているのか、理由はよく分かっている。けれど、それを分かった上で言っているの。もう一度言うわ。私を恨むのは筋違いよ」
「うるさい。君は彼女を止めるべきだった。それをしなかったせいで、藤崎は死んだ。君のせいで死んだんだ」
口から出てくる言葉は、何故かこちらへ跳ね返ってくるように思えた。
それでも、言わずにはいられない。責任転嫁してしまわないと、自分は藤崎亜子の死に顔を見ることが出来ない。
「……少し落ち着いたらどう?」
冷ややかな言葉と視線のせいか、それとも智夜子の纏う冷たいシャツのせいか。みるみるうちに熱が収縮していく。
野添は彼女の襟から手を離した。皺の寄ったシャツをじっと見つめ、視線は合わせない。
「野添くん」
呼ばれても、彼は顔を上げようとはしない。しかし、それに構うことはない智夜子である。彼女は淡々と言葉を投げてきた。
「一つ、確認をするけれど、藤崎さんは死にたくて死んでしまったのよね?」
そこには情というものが欠片もない。しかし、率直な言葉は回りくどくなくていい。野添は静かに頷いた。
「あの子は、周囲の目を集めるために、わざと公衆の面前で自殺した。そうよね?」
「……そうだ」
「もう気づいているでしょう? あの子は、注目を浴びる為には何を犠牲にすることも出来るって」
その通りだった。藤崎亜子の過去を知った上で、それがよく分かる。
亜子は追い詰められて死んだのではない。
――人助けをして非業の死を遂げるって、カッコイイと思わない?
死ぬ間際、亜子は野添にそう言った。
「私は、貴方にこう言ったはずよ。彼女の理解者になりなさいって。あれはね、藤崎亜子の支配にある教室での貴方の立ち位置を作るために言ったのよ」
「あぁ……なるほどね。うん、まんまと救われたよ、それに関しては」
棘を含んだ言葉を返す。
つまり、智夜子はあの時は藤崎亜子を助けるつもりは微塵もなかった、ということだ。
あの時に依頼したのは野添なのだから、相談対象も野添だけ。だが、それが分かっても感情は納得しない。
またも苛立つ彼に、智夜子はくすりと小さな笑い声を投げた。
「貴方がそんなにも激高している理由、教えてあげましょうか?」
「え?」
野添は目を瞠り、顔を上げた。
智夜子の顔が近い。頬に、彼女の艶やかな黒髪が垂れ落ちてきて、その冷たさに身震いする。喉の奥が凍りついてしまい、呼吸もままならなくなった。
真っ赤な唇が、視界を埋め尽くす。
「貴方は『羨望』の対象がいなくなったから怒っているのよ」
その言葉が脳に浸透すると、身体の中の水分が全て引いていくような感覚がした。
「別に、藤崎さんがいなくなったから怒っているわけじゃない。憧れが消えてしまったから、壁がなくなったから、怯えている」
「そ……んな、わけ……は」
声が詰まる。喉を締め付けられている圧迫感。
全身が固まり、眼鏡が落ちてもそれを掬い取ることは出来なかった。
「さて――」
智夜子の口が開き、野添は怯むように息を飲む。
「貴方の悩みは、前と同じ。今後をどうするか……そうでしょう?」
***
後日談。
相談室を出た後すぐに彼は学校から葬儀場へ向かった。
『
雅日智夜子は愉快そうに笑った。
それから、冷たい人差し指を野添の胸に突き刺し、彼女は強い口調で言い放つ。
『葬儀に出なさい。そして、きちんとお別れを言いなさい。貴方の憧れに』
黒い喪服は重たい。分厚く、蒸し暑い。息苦しい。
野添は喘ぐように深呼吸し、悲しみに暮れた白い花が手向けられた藤崎亜子の元へ向かった。ゆっくりと、一歩ずつ。
「亜子ちゃん、線路に落ちかけた学生をかばって亡くなったそうよ」
「電車が来る瞬間だったって」
「本当、立派よね」
「藤崎さんは凄い」
「凄いね」
そんな声が密やかにあちらこちらから上がってくる。
――違うんだ。
野添は喉元に出かかった言葉を無理矢理に押し込み、亜子の亡骸に目を向けた。
白く綺麗な顔がそこにあった。それなのに、彼女の中身はない。眠っているようだ、とは思えない。本当に藤崎亜子なのかと疑ってしまうくらいに。
彼女の存在が彼女だったものへと変わっていく。
すると、心のどこかで何かが音を立てて崩れた。その欠片がサラサラと空気に溶ける。
自覚していくうちに脱力と喪失がのた打ち回り、腹の底が震え上がった。その抑えようのない感情のせいで、目尻から涙が溢れていく。それを拭おうとはせず、白い顔に落とした。
「藤崎亜子」は羨望を欲する、果のない
壁のない世界へ足を踏み出すのは、とても怖い。
それでも彼は、自身から消えゆく憧れを見送ることに決めた。
「……さようなら」
──僕の憧れの人。
純粋な白さを持つ空っぽの器に、震える声で囁いた。
《case5:羨望症と渇望症、了》
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