羨望症と渇望症②

 最初は、美術の授業で描いた自画像だった。

 それまで目立つこともなく、淡々と大人しく息を潜めて過ごしていたのだが、呆気なくそれは周囲の羨望を集める素材へと変貌を遂げた。

「藤崎さんって、すごく絵が上手なんだね!」

 中学一年の頃である。

 美術室に飾られた優秀作品の中に藤崎亜子の顔があり、瞬く間に彼女はクラス一絵が上手い人、という称号を手に入れた。美術部の顧問や上級生に引き抜かれる、なんてこともしばらくは続いていた。

 ――こんな私でも、目立つことがあるんだ。

 その頃はぼんやりと、ただただ周囲の羨望を客観して捉えていた。

 ――今のうちだろうね……。

 初めてのことに、実感などなく、どこか他人事でもあった。

 しかし、高を括っていた直後も同じ出来事が起こる。

 校内の掲示板に貼られた成績順位。学年で上位成績を修めてしまい、またしても注目を集めてしまった。

 これには驚いたが、それでも彼女は、淡々と、日々の生活をそつなくこなすのみ。

 その静かな姿勢が周囲に影響を与えていくことも知らずに。

「藤崎さん、勉強教えて」

「頭いいんだね~、羨ましい~」

「塾、どこに通ってるの?」

 そんな言葉を一斉に投げられるも、しばらくは慣れない環境に居心地の悪さを抱いていた。


 だが、時が過ぎればその羨望も薄れていく。

 ――そう言えば、最近、何も言われないなぁ……。

 煩わしく思っていたはずが、クラスメイトの注目を浴びることがなくなった途端に気づいてしまった。

「別に、凄いことはない」

「ただ、こつこつと毎日勉強していただけ」

「絵を描くのが好きなだけ」

 その言い訳を口にするのが、実は楽しくて仕方がなかったのだ。仲が良いわけでもないクラスメイトの目に留まるのが、堪らなく気持ちが良かったのだ。

 他人からの羨望を糧にしているのだと、気がついた彼女は渇きを感じた。

 同時に、そう思えてしまう自分が卑しくも思えた。


 ◆


 二年生になり、クラス替えもし、彼女を知る者は少なくなったが、そこでも何かしら突出していれば瞬く間に羨望が集まる。

 久しぶりの感覚に、渇きを潤すような感覚に飲まれた。一時は卑しいと蔑んでいたのにも関わらず、賞賛の声を浴び続けることでその心地よさに溺れてしまう。

 美術部ではコンクールの度重なる入賞、それ以外の生活も相まって、彼女の評価はぐんぐんと勢いを増す。

 自身の影響力を、亜子は過信した。

 ――みんなが、私を羨んでいる。

 それは、どこかで渇望していた優越。こんこんと湧き上がる泉の如く、彼女の中で「羨望」は大きな存在となる。

 しかし、その泉がやがては枯渇していくものだと、そんな戯言は心の隅からもいつしか追い出していた。

 狂い始めたのは、この頃か。

「藤崎なら、出来るよな?」

 恐らく、教師のこのセリフがきっけだろう。周囲の人間は「藤崎なら出来る」という認識へと切り替えた。

 絵画コンクールで金賞をとっても「当たり前」。

 学年トップの成績を修めても「当たり前」。

 学級委員に推薦されても「当たり前」。

 良い高校へ入学しても「当たり前」。

 全てをこなし、力を認められてもそれらは全て「普通」だと感覚が麻痺していく。見向きもされない。

「藤崎なら」当たり前だから。


 ◆


「私は、ただ、みんなに頼られたいんです」

 セミロングの髪の毛をばさりと下ろしただけの、鬱屈とした様子を醸し出す藤崎亜子は枯渇した泉を抱えて相談室へ現れた。

 入学して半月のことである。

「別に、名誉とか権力とかそんな大それたことには興味ないんです。ただ、頑張ってなんとか期待を裏切らないようにしてきたのに、『当たり前』って言われるのが……もう、嫌なんです」

「でも、まだ入学したばかりじゃない。貴女のことを知らない人だっているでしょう? そんな人達が最初から決めつけて言うかしら?」

 ゼミテーブルに座る雅日智夜子は首を傾げて言った。

 周囲に色と呼べるものはなく、ただ彼女の真っ赤な唇だけが鮮明で、とても明るい。

 亜子は分厚い眼鏡の奥からそれをじっと見つめていた。

「いいえ。どうせ、そのうち言うに決まってるんです……中学のときもそうだったから……」

「ふうん? まぁ、貴女の中学時代なんて知ったことじゃないのだけれど、その様子を見る限りじゃ、そうなのでしょうね」

 素っ気ないが、言いたいことが伝わっただけマシだと思った。

 とにかく、枯れた泉を元に戻したい。その一心で亜子は智夜子に助言を求めた。

「そうね……要するに、貴女は周囲の羨望を集めたいのよね?」

「羨望って……そんな、大袈裟なこと望んではいません。私はただ……」

 その言い訳は、途中で止まってしまった。

 今まで、ろくに考えなかったが確かに自分は周囲からの「羨望」を集めたいが為にあれこれと画策してきたのではなかったか。実は気がついていたのに、気づかないふりをして。

 改めて言われれば、途端に自分が「卑しい」ものだと再認識してしまう。亜子は項垂れて目を瞑った。

 その時、智夜子はひやりとした指先が伸びてくる。それは亜子の顎を持ち上げた。

「貴女の気持ちは、悪いものではないのよ。誰しもあるもので、貴女が特別汚いわけではないわ」

「え……」

 亜子は瞑っていた目を開かせた。智夜子の黒眼に、自分の野暮ったい姿が映る。

「貴女は周囲の羨望を集めたい。だったら、まずは周囲を知ること。他人に無関心でいるうちは、一時的な注目だけで、その後は誰も支持しなくなる」

 そうでしょう? と智夜子の口元がつり上がった。

 確かに、そのとおりだ。

 今までがそうだったように、これからも同じことの繰り返し。枯れる度に自信が失われていく。

 が自分には必要だ。

「それにはどうしたら……」

「『完璧』に見合うための貴女自身の魅力が足りない、と言っているのよ」

「……」

 智夜子の細められた目が近い。

 亜子は気まずい思いを噛み締めて焦点をずらした。完璧な綺麗さを持つ智夜子を見ていれば、己の醜さが身に沁みてくる。

「今までの方法では駄目。だったら、やり方を変えればいいわ。『完璧』を引き立たせるための努力も必要よ」

 智夜子の唇の端は更につり上がり、白い肌に裂け目が出来たように見えた。


 ◆


 自分に足りない魅力は何か。

 それは勿論、外見だと判断した。野暮ったい眼鏡に髪型。前髪なんて、たまに自分で切っているものだから形が悪い。

 周囲に目を向け、教室の中でも目立つ生徒を観察した。

 内面が大事だと言いつつも、所詮は見た目が世の常だ。発言力のある生徒の共通点は突出した美形ではなく、ただ華があるかないかだと思った。

 魅力を身につけるには「明るさ」も「優しさ」も勿論のこと、それだけでは足りないらしい。

 そうと分かれば手っ取り早く、髪型を変えてみる。そして、眼鏡もコンタクトレンズに変えた。

 外見が変わればそれだけで人は物珍しさで集まってくるもの。だが、それも一時的なものであると分かっている亜子は、ゆっくりと自身の改革を始めた。

 制服の着こなし、感情豊かな顔、言葉遣い、仕草、気配り、語彙力。あらゆる面を磨き、徐々に教室内での発言力を確立させる。

 変える度に周囲の目が良くなっていき、それがどんどん自信となるので亜子にとって「変わる」ことは大した苦ではなかった。

 藤崎亜子がクラスの「華」として認識されたのは、二学期の学級委員選出からだろう。

 クラスメイトを観察し、ありとあらゆる情報を調べ上げたのもこの頃からである。ただクラスの雰囲気を良くすること、それが与えられた使命。それには、情報が必要不可欠だ。

 秘密のデータを持ち歩きながら、彼女は全ての仕事を完璧に全うした。

「もう、『藤崎だから』なんて言わせない」

 その決意は固く、亜子の泉は枯れることがない。

「藤崎さんのおかげで、体育祭優勝出来たよ!」

「藤崎さんが頑張ってくれたから、文化祭楽しかった!」

「球技大会、お疲れ様。藤崎さん」

「ねぇ、藤崎さん、勉強教えてよ」

「藤崎さん」

「藤崎」

「亜子ちゃん」

 絶え間なく止まない声。そのどれもに耳を傾けて、常にアンテナを張り巡らせる。

 誰かが悩んでいれば寄り添い、笑いかける。誰かが間違えれば優しく正す。教師の理不尽な叱責にも臆すること無く立ち向かう。

 こうして生まれたのは、藤崎亜子というブランド。

 学級委員長という枠には収まらない、あらゆる肩書きを与えられた羨望の的そのものだった。


 ***


「彼女は、ただ、注目を浴びたい……羨望を集めたい為に努力をしただけなの」

 静かな室には、ゼミテーブルに座る智夜子と喪服に身を包んだかつての在校生、野添克彰が向かい合っている。

 薄暗さが野添の心情を表すようで、酷く重苦しい。

「でも、藤崎さんの物語はこれで終わりではいないのよ。寧ろ、彼女が彼女として出来上がった始まりに過ぎない。そして、いよいよ貴方も登場人物に加えられるわね」

 智夜子の口ぶりは、軽くはなかった。それなのに、彼女の唇は三日月型をしている。

 目の当たりにした瞬間、野添の胸中にどす黒い不快感が溜まるように思えた。

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