case5:羨望症と渇望症
羨望症と渇望症①
「あら、久しぶりね」
言葉の割に素っ気ない声を投げられ、彼は足を止めた。
誰もいない廊下に漂う古めかしい匂いに懐かしさを覚える。しかし、昨年までは自分もこの校舎で学生生活を送っていたはず。それが随分と遠い日に思えるのは何故なのか。
「
右手にある相談室のドアから顔を覗かせるのは、黒髪がとてもよく似合う華奢な女子生徒。カッターシャツに赤いリボンは、この学園の制服だ。
一方で、自分は重苦しい黒のスーツ。着慣れなさも相まって、随分と心地が悪い。
「どうしたの? また、何か悩み事?」
「うん、まぁ……色々とあって」
苦笑を浮かべた彼は、少しだけ大人びた顔つきで彼女を見やった。しかし、すぐに目を逸らす。
雅日
「いいわよ、聞いてあげる。元、三年B組の
手招きする智夜子に促され、野添は吸い込まれるように相談室の中へと足を踏み入れた。
一年前の記憶が、鮮明に蘇る。
***
三年B組は他のクラスに比べ、真面目で行事にも積極的、クラスには活気で溢れていた。教師受けも良く、表立った悪評はない……とは言え、まだ学期が始まったばかりなのだが。
恐らく彼女がクラスに存在しているからか、自然と見場が良いと感じる。
「やっぱり
「まぁ、三年生だからね。一番重要な学年でもあるし、何より、今年は去年以上に力を入れるつもりよ」
放課後の教室は、まだまばらに生徒が残っているものの、こちらの会話には気づいていない様子だった。
野添は目の前に座るサイドテールの女子生徒に微笑む。すると、彼女もきりっとした目元を緩ませる。
「それじゃあ、改めてよろしくね。野添くん」
「あぁ、一年間よろしく。藤崎」
その日は、クラスの委員決めが行われた。
学級委員長に選ばれたのは藤崎
前学年で一番に活気があったのは彼女がいたA組で、体育祭も文化祭も球技大会も遠足ですら、クラスのまとまりが他に比べて断然良かった。
彼女の在籍するクラスは、内申点が上がる。そんなジンクスまで出来上がったのは、確か一年次修了間際だったろう。
「僕には、藤崎みたいな人望もカリスマ性もないしね」
「やだ、やめてよ、大袈裟な」
彼のおどけた言葉に、亜子は苦笑交じりで片手を振った。
「野添くんだって、ずっと学級委員長じゃない。委員会で何度も会ったはず」
その返しに、今度は野添が笑う。少しの自嘲を含ませて。
「いや……そうなんだけど、まあ、普通って感じで。目立った良いことは一つも無かった」
前学年は、教師に目をつけられる問題児こそいないものの、穏やかでのんびりとした空気感だった。逆に言えば消極的で少し冷めており、目立たないクラス。故に、野添は亜子のいる華やいだA組を密かに羨んでいたのだ。
「へぇ、意外。野添くんって神経質そうに見えて、精力的なとこあるんだ」
亜子はクスクスと愉快そうに笑った。からかわれているように思えて、つい早口で弁明する。
「いやいや、別にそこまでじゃない。ただ、楽しそうでいいなぁって思ってただけ」
「あー、なるほどね……んー、その辺は気が合いそうだなぁ」
なおも笑う彼女だが、わざとらしさは見当たらなかった。単純にそう思ったのだろう。
「だって、楽しい方がいいし。私はね、クラスの雰囲気が良くなればいいなぁっていつも思ってるだけなんだよ」
「……ふうん?」
純粋な言葉を投げられるとかえって邪推してしまうもの。野添はわざとひねた言葉を選び、亜子に訊いてみた。
「でもさ、実は内申とか気にしてたりするんじゃない?」
「それもまぁ……」
彼女は照れくさそうに笑いを返すと、すぐさま考え込むように唸った。それは、答えを探すように見える。
「でも、そんな下心はあんまりないかなぁ」
返ってきた言葉には、すっきりとした清廉さがあった。それから、彼女は無邪気な笑顔で言葉を続ける。
――品がないから、と。
こちらの醜さが浮き彫りとなり、野添は素直に恥じた。同時に、藤崎亜子へ抱くものが膨らむ。
今となって思えば、それは確かに「羨望」というものだった。
***
「藤崎さんって、とても完璧主義よね。悪く言えば汚れを拒む潔癖さ……それが命取りだってことに、結局気づかなかったのね」
相談室は在校当時と何ら変わりなく、ただ、その日は天気が悪いようで薄暗かった。
智夜子は当然の如くゼミテーブルに座り、その真向かいに置いてあるパイプ椅子に野添を促す。
「そう、だね。確かに。今思えばそうだ。藤崎は綺麗だったよ。例えるなら……足跡のない積雪みたいな」
「本当。その通りだわ。彼女は綺麗すぎる……でもね、それはただただ純粋のままでいたかっただけなのよ」
「うん。そう……だから、かな」
野添は椅子に座るなり、天井へと目を向けた。ゆるゆると息を吐き出すと疲労が煙となり、もくもくと膨らむよう。
その中に、明るく笑う藤崎亜子の像を見つけた。
***
それは、体育祭間際のこと。
亜子が風邪をひいてしまい、クラスの指揮は副委員長の野添に一任された。
不満はない。むしろ、彼女の代わりをきっちり務めたいとさえ思っていた。
しかし、亜子のいない教室はなんとも自堕落に見える。私語をやめない生徒、黙々と勉強をする生徒、ただやりたいことだけを言う生徒……まとまりがない。
「……あの、ちょっと、みんな、黙って聞いてくれよ」
その声は誰にも届かない。
――藤崎がいれば、まとまるはずなんだ。藤崎さえいれば……
ずり落ちた眼鏡を掛け直し、野添は遠い目で教室内を見渡した。
「不甲斐ないよ、僕は。藤崎がいないと駄目みたいだ」
藤崎家の玄関前で、彼は情けなく弱音を吐いた。
プリントを渡しに見舞いへ来たのだが、その浮かない顔を亜子が気にしないはずがない。
「どうしたの?」と問われれば、隠し立てすることもなく正直に吐いた。
「僕がもう少ししっかりしていれば……藤崎みたいに」
「そう思いつめなくてもいいじゃん。たかが種目決めだよ……あー、でも、私が風邪ひいたせいだからだよね」
泣きついたにも関わらず、彼女の声は優しげだ。
野添は更に気が滅入っていくようで、肩を落とした。
「分かった。明日には学校に行けるし。私がどうにかする」
「……ごめん」
「OK。任せなさい!」
頼もしい返しに、亜子の調子はとても良さそうで安堵する。
「でもね、私がいない時こその副委員長でしょ。野添くん、みんなをまとめようと思っちゃうから、上手くいかないのかも」
「え?」
慰められたと思えば、ピリリとした厳しい声に面食らう。
「でも、それじゃあ、どうしたらいいんだよ」
今までのやり方を否定された気がした野添はむきになった。そんな彼に、亜子は顔を近づけてこっそりと耳打ちする。
「やり方を変えればいいのよ」
まだ頬が赤い彼女の熱がじんわりと伝わる。
「私がいなくても上手くできる方法、教えてあげようか?」
言葉に導かれるように、野添は彼女の部屋に通された。
女子との交流など小学生以来なく、緊張はしていたものの亜子の含んだ笑みと秘密が気になってしまうのはどうにも抑えられない。
因みに、こちらの複雑な心境にはお構いなしの亜子は机の引き出しから、A4サイズのクリアファイルを取り出す。ふんわりとしたフォルムのうさぎが描かれた流行りのキャラクターが窺え、いかにも女の子の持ち物といった淡いピンク色だ。亜子はその中に入っていた紙の束を掴む。
「これが、私のやり方」
くすり、と悪戯に微笑む彼女が差し出してくる。
「え……っ?」
そこには、クラスメイト全員の個人情報や細かなデータが書き留められていた。
***
「彼女は、完璧だった。その完璧さは僕の想像を遥かに越えていた。あの個人データ帳は、自分で調べたもので、彼女はクラスメイト全員のことを知ろうとしていたんだ」
ありとあらゆる情報を掴んでおく。それが彼女のやり方。
どうりで人を扱うのが上手いはずだ。
あらかじめ、彼らの個人情報は勿論、好きなもの、苦手なもの、趣味、交友関係、なんでも把握して言葉を選んでいたのだから。
「あの時に止めていたら良かったのかな」
「でも、貴方があのファイルを取り上げたところで、何も変わることはなかったと思うわよ。だって、あの子はもう既に手遅れだったんだもの。それに……」
智夜子は言いかけてやめた。
その中途半端に切られた言葉が気になるも、野添は言及せずに項垂れた。
顔を手のひらで覆い、溜め込んでいた息を吐き出す。しかし、いくら吐き出しても消化しきれない。
やはり、この服のせいだろう。とにかく息苦しい。
初めて袖を通す日が、まさか藤崎亜子の通夜になるとは購入した頃には思いもよらなかった。
「手遅れ、か……じゃあ、いつから藤崎はああなってしまったんだろう」
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