学園相談室ラビリンスへようこそ

小谷杏子

case1:自殺願望者

自殺願望者①

 階段を一段ずつ上る足が、鉛玉を引っ張っているかのように重たかった。

 踏みしめてゆっくりと上る。上る。もう一つ、上る。

 どうしてこんなにも重たいのか。上へ上へと幾重にも続く階段が、行く手を阻む壁に思える。

 彼はこめかみから滴る汗を拭った。

 足元に目を落とせば、上履きの賑やかな落書きが否応なしに見えてしまう。彼はそれから目を逸した。白だったはずの上履き。

 それなのに……


「――……」


「……――」


「……――……――」


 頭を左右に振って、脳裏に浮かんだ雑言を打ち消した。


 ***


 ようやく上り終えると、無人の廊下が目の端に入り込んできた。左手には外界の見える透明の窓。右手には木材のドアがずらりと並ぶ教室たち。

 本当はあともうワンフロア上らなくてはいけないのだが、汚れた上履きは廊下へと向かった。

 ドアの上に掲げられているプレートはクラス名はおろか、教室名さえも書かれてはいない。そもそも、空き教室のフロアがあるなんて、聞いたことがない。

 訝しんで更に先を行くと彼は、あるドアの前で立ち止まった。

『学園相談室ラビリンス』

 相談室と書いてあるからには悩みを聞いてくれる場所なのだろう。しかし、無人の空き教室の並びの中心にぽつんと掲げられた看板が如何にも胡散臭い。

 本当にここは相談室なのだろうか。思わずドアノブに手をかける。

 キ、イッ……と、耳障りな蝶番の音。開けるとそこは、普通教室と同じ真四角な教室だった。そしてまず目に飛び込んできたのは、横長に広がるゼミテーブル。それが中央にあり、その上に腰掛ける長い黒髪の女子生徒がいた。

 濡れたような艶がある髪の毛は腰元までストレートに伸ばしてあり、美しくしなやかだ。彼女はドアに背を向けていた。

 その姿を認め、彼はアッと息を飲む。微弱な空気の音を聞き、女子生徒がくるりと振り返った。

「あら、ようこそ。学園相談室ラビリンスへ」

 その容姿は、恐ろしく精巧だった。切れ長の目に、白い肌、りんごのように真っ赤な唇。誰がなんと言おうと美人の部類におさまる。

 彼女は肩にかかった髪を払って、ゼミテーブルから降り立った。

「そんな目で見ないでよ。何も、とって食おうなんてしないから」

 驚いて言葉が出ない彼を前に、淡々と続ける。

「あなたの悩みは、何かしら?」

「……?」

「悩み、あるんでしょう? だから、ここに来たのよ」

 唐突に言葉を投げられるも返す声が出ずに、尚のこと言葉にならなかった。

 その間に彼女は溜息をついてこちらへと近づいてくる。スラっと背が高く、身長の低い彼と目線は丁度だ。

「あなた、二年C組の三鷹みたか陽介ようすけくんね」

 名前を言い当てられて益々驚く。怯えにも似た感情が駆け巡っていく。

「えっと……あの、あなたは?」

 ようやく声が言葉を作った。この問いに、彼女は目を細めて微笑んだ。

雅日みやび智夜子ちやこ。一応、この学園の生徒よ」

 薄手のシャツとセーターという、確かに見慣れた女子生徒の制服を上から下まで眺めておく。言われるまでもないのに、どうしてそう名乗るのか皆目分からなかった。

「それで、三鷹くん。あなたの悩みは何かしら」

 呼ばれて我に還った三鷹は、視線を泳がせて意味もなく教室の隅に目を留めておく。しかし、智夜子の目はそれを許さなかった。その視線を奪うように顔をこちらへ合わせてくる。

「いじめられてるのよね。可哀想に」

「えっ……」

 心臓が跳ねた。頭髪の中でじっとりと沸く汗に気づき、額へ流れる前に拭った。

 ――どうして、それを知っている?

 三鷹は足元に視線を落とした。賑やかで騒々しくて、ただ傷つけるためだけに投げられた罵詈雑言が……ある。

 文字の一つ一つは大して何の力もないのに、組み合わさっただけでこうも他人の悪意が浮き彫りになる。

 それらを隠すために、彼はズボンの裾を伸ばしている。擦り切れた裾はボロボロで、すだれのようだった。

「知っているわよ。でもまぁ、同情はしないけれどね」

 情のない言葉が突き刺さる。三鷹はやはり何も言えずに立ち尽くしていた。一方で、智夜子の口は止まらない。

「どんな悩みを聞かせてくれるのかしら。いじめをやめさせてくれ? 復讐したい?」

 目を逸らそうとしているのに、彼女は三鷹の顔を覗こうと更に顔を近づけてくる。少し言葉を切ると忍び笑うように囁いた。

「それとも、死にたい?」

 その言葉に三鷹は目をみはった。

「なん、で……」

 それだけ、やっと言えた。しかし、あとは言葉にならない。息が詰まる。

 そんな彼を見やり、智夜子は愉快そうに「フフフ」と高い笑い声を上げた。

「なんででしょうね。そこはまぁ、置いておきましょ。さて――」

 ふわりと身軽に三鷹の傍から離れると、彼女はコツコツと教室の中を歩いた。背後に差し込む真っ赤な夕焼けが彼女を包んでいく。

「あなたは、どうしたいの?」

「え?」

「さっき挙げた三つのうち、どれがあなたの悩み? どうもお口が上手く動かせないようだからわざわざ私が絞ってあげたのよ。で? どうなの?」

 靴底の音が軽やかに鳴る。智夜子は赤の光へ入り込み、表情を隠していた。声音は全て淡々としており、どうにも読み取れない。

 三鷹は恐れを抱き、「えっと……」を繰り返した。場を繋ぐために発せられた声は、か細く消え入る。その最中、しっかりと脳内を占めていたのは彼女の言った三つの言葉。内、一つが大きく明るく点滅していた。

 迷うことなど、ない。

「僕……は……」

 ごくりと唾を飲む。そして、ゆっくりと時間をかけて息を吐き出す。

「僕は……死にたいんです」

 振り絞ったのは声だけではなかった。しん、とした教室はまるで真空だ。

 三鷹はいつの間にか目を瞑っていた。どのくらい時間が経ったのだろうか……いや、そんなには経っていないのかもしれない。

 彼女が「ふぅ」と息をついたと同時に、そっと目を開かせる。

 智夜子は相変わらず赤を纏い、窓を背にして立っているのでやはり表情は翳っている。が、口元だけはしっかりと捉えられた。三日月型につり上がっている。

「いいわ。私が導いてあげる」

 そう、彼女ははっきりと言う。

「いじめをやめさせて欲しい、でもなく。復讐したい、でもなく。あなたは死を選ぶのね。懸命な判断だわ」

「え?」

 てっきり咎められるかと思っていたもので、この言い様には拍子抜けだ。

 智夜子は左足を前に突き出すようにして、ゆっくりと教室の中を歩き始めた。ひらり、黒のプリーツスカートが揺れる。

「それじゃあ、早速始めましょうか」

 彼女は、両手をぽんっと合わせて明るく言うと、教室のドアを開けた。

「え? え? ちょっと、どこに行くんですか?」

 慌てて問えば彼女は片眉を上げて、蔑みを向けた。こちらの都合はまるで無視である。彼女は当然のように言い放った。

「決まってるでしょ。自殺スポットよ」

「じ……っ!?」

 三鷹は思わず声を上げた。驚きで目を丸くする。

 対し、智夜子は小首を傾げてこちらをじっと見ていた。

「何か?」

「いや……あの……」

「あら、もしかして怖気づいたの?」

「いや……えぇっと」

 急な展開に三鷹はしどろもどろ。初めからどもっているが、今は戸惑いが殆どを占めており、それまであった鬱が隅へと追いやられていた。

 智夜子はふわりと髪の毛をなびかせ、迷いを見せる三鷹の前へと飛んだ。そして、追い打ちをかけるようにじっとりとした声で囁く。

「死にたいんでしょう?」

 その言葉に身震いしてしまう。

 死にたい……それはもう、勿論。この世に未練なんてないのだ。生きていたって何の実にもならない。

 いじめをやめさせてもらえることも、復讐をすることも、言われれば確かに「あぁそうだ」と選択肢を増やせた。しかし、それらを一篇に片付けられる方法がある。

 それが、死だ。だから死を決意した。

 こうなれば今となっては「未練はない」だの「生きてても楽しくない」と宣っていたものが「死」を決意した後付けのようにも思えてくる。

 三鷹の背後を滑るように動く智夜子。彼女はまた、ドアの前へと居直った。

「さ、行きましょ」

 智夜子はほっそりとした指を這わせ、彼に手を差し伸べた。

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