第5話 お客様と電話
ランチ営業が始まる少し前に必ず予約の電話が入り来店する老夫婦がいらっしゃった。予約の連絡を受けるとカウンターのネタケース前では、ネタを吟味し板前全員が慌ただしくなり始める。マグロと旬のネタ三貫だけ召し上がる二十数年の常連客だった。必ず店長か副店長がお相手する。来店すると静かに椅子に座り会話も少なく召し上がり、そして去っていく。長年の一連の所作が出来上がっていた。なんとも粋な食べ方だと感心したものだ。自分が歳をとってからああいう風な振る舞いが取れるか疑問だった。
あるお客様は必ず付き人と運転手を同行して来店した。一度も自分で頭を洗った事がないらしく、付き人が身の回りの世話を生まれた時から全て行い生きてきたらしい。六〇過ぎのマダムだった。運転手のお土産用の寿司折も必ず注文する。どこか浮き世離れしていて華やかでゴージャスなオーラが漂う方だった。大きなサングラスと白い日傘をいつも持ち歩いていた。
ある方はいつも一人でふらっと訪れる。静かに熱燗を飲みながら板前のお任せでつまみから入る。板前の話では
「あの人、家が金持ちすぎて国税局の人間がいつも出入りしてるらしい。家の掃除をすると新札の百万円の束がタンスの裏から埃かぶって二、三個見つかったりして大変なんだとさ」
自分の家に現金がいくらあるのか把握できないくらいあるらしく、度々マルサの方が出入りする家。なんだそりゃ。聞いたことがない。ぱっと見はどこにでもいる普通のおばさんだった。本当のお金持ちは騒がず優雅でいつもおとなしくご飯を食べるものなのかもしれない。
たいていの常連客は来店前に電話してくるが、ホテルの古い電話ではナンバーディスプレイがないため声質で常連客の判断しなければいけない。
「〇〇様! 毎度〜! 六時に二名様ですね! お待ちしています! 」
瞬時に判別し粋で威勢の良い電話対応をしなければすぐに店長に怒られる。
「なんだ、あの小さい声は? 周りに聞こえるくらい大きな声を出さないとサポートもできないだろう? 」
転勤したての頃はすぐに判別できるわけもなく周りに確認を取り、時には先輩に電話を変わった。名前、人数、来店時間、連絡先、予約を受けた日にち、受けた者の名前を予約帳に書かなければならないが、最初から全てを聞くと怒りだす常連客もいる。
「俺だよ! 俺! 分かんないの? 君、新人? いいから店長に変わってよ! 」
まるでホテルの人間全員が自分の声を把握しているとばかりに不機嫌になる。こうして怒られてしまうのは新人の通過儀礼らしい。人は不安になると声は小さくなり言葉遣いも怪しくなる。電話恐怖症になる者が現れるが電話に出て克服するしか道はない。
「いいか、最初の電話対応から接客は始まっているんだ。お前が逆の立場だったらどうだ? 暗い弱々しい声の対応じゃ相手は不安になるだろう? 寿司だってまずいと思うかもしれない。営業中だろうが電話に出た奴は電話だけに集中しろ。他のことは放っておけ。俺が許す」
ここでは本当にしごかれた。ノイローゼになるくらいだった。新人も最初は大目に見られるが一ヶ月もたてば戦力とみなされて厳しい指導が入る。声のトーンから言葉遣い、微妙な言い回しと実に奥が深い。電話対応の時は誰もが脳がフル回転だった。周りの人間全てが聞き耳を立てミスをしないか聞いている。完璧に対応しなければいけない緊張感が半端なかった。
海外のお客様だとホテルの交換代スタッフにつないで内容を聞いてもらえる。だいたい同じ女性が対応しているので何度もやりとりしている内に、仲良くなりお互いの事情を把握する。
「〇〇ホテルのコンシェルジュからの紹介らしいですが、連絡先はお客様の電話番号よりホテルの番号の方がいいですよね? 」
「そうですね。できればコンシェルジュの名前と連絡先、お客様の部屋番号も聞いてもらえますか? 念のため一応お客様のケータイ番号も伺ってもらえます? 」
海外のお客様の場合、なんらかのトラブルでホテルに辿り着けなかったり、予約時間を大幅に遅れることが多いため特に注意が必要だった。ケータイにかけても出ないことも多く保険をかけておく事は必須だ。
席は空いているのに他の客様をご案内できないのは非常に勿体無い。大人数の場合はキャンセル料を取ることもあるが、バックパッカーの場合、少人数である事が多くキャンセル料は頂かなかった。海外のホテルコンシェルジュ経由だとなおさらややこしく、予約していることを忘れたり、当日に予定を変えて無断で他の店に行ってしまう方も多い。またそれを悪いと思っていないので厄介だった。
営業中の忙しい中、受話器を耳に当てあちこち電話をしなければならず、一人が釘付けになってしまい裏の厨房は混乱する。そのまま予約のお客様が現れない事を「NO SHOW」と呼ぶがそうなると店長はカンカンで店の雰囲気は最悪になる。
「まだ連絡つかないのか? この予約受けた奴は誰だ? 」
悪いのは連絡をしてこないお客様なのだが、犯人探しが始まりこってり絞られる。
「本当に今日の予約だったか? 他の日じゃないだろうな? 電話番号の数字はあっているのか? 時間は正しいのか? フロントに確認してチェックインしてるかどうか聞いたか? 」
最初の頃は疑われてその度に言い訳をしていたが、明確な返事、行動ができていないとさらに店長はヒートアップする。それは予約の電話を受けた全ての人間に降りかかるため誰もが戦々恐々していた。新人だろうが板前だろうが怒鳴りつける。
ホテルでキャンセルする場合は早めに連絡してください。無断でバックレるのは最悪です。是非お願いします。
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