第3章 職人一年目
第1話 入社式
再び上京して会社の寮に向かう。マンションと銘打ってはあるが、実際は一九八八年に建てられた三階建ての古びたアパートだった。関係のないおしゃれな玄関で近代的なマンションが隣接しているので勘違いして
「今日からここに住めるの? マジで? 」
ぬか喜びするのは新人の通過儀礼らしい。落胆し立派なマンションから横に移動して階段を登る。そこの二〇三号室が私の部屋だった。ワンルーム六畳、ユニットバス、青いカーペットが引かれた西向きの間取りだ。窓を開けて景色を眺めると大きな木が景観を邪魔して見晴らしが悪い。風通しは良く、日当たりはまあまあだった。
昔の寿司屋の寮はタコ部屋でプライバシーなんてものは存在しない。しかしそれだと今時の子は入社したがらないので、一人に一部屋割り当てられたらしい。ありがたいことだ。家に帰ってからでも先輩と一緒だなんてぞっとする。
田舎から送った荷物の段ボールを開いて物をセッティングしていく。テレビのチャンネルが田舎とは比べられないほど多い。あまりの感動にぼーっと眺めてしまった。小腹が空いたので近所を散策する。坂を下りていく道の両側に桜の木がそびえて春らしさを演出してくれる。
目の前には大きな病院がありそこを下りていくとオフィス街だ。国道、コンビニ、おしゃれなBAR、チェーン飲食店、風俗街、山手線の駅。徒歩圏内になんでも揃っている
しかし私は田舎者なので一人では飲食店には入れず、またもやコンビニでおにぎりとお茶を購入して部屋に持って帰ってから食べた。性格の問題なのだろう。明日からの入社式を前に気持ちが高ぶり食欲もない。
隣近所の部屋に菓子折りを持って挨拶に行こうとしたが留守だった。そもそも隣が先輩なのか同期なのかもわからないので、さっさと諦めてその日は早めに就寝した。
実は夏に関西の支店で一週間の研修があった。先輩達と四人で一部屋のマンションに住み店に通った。お客様扱いなので大したことはしなかったが、買い出し、賄いの準備、営業中の裏方の補助と、一日中立ちっぱなしでこき使われてひどく疲れた。
最後の日はおしゃれな居酒屋でお別れ会をしてもらった。私は初日に部屋に入り風呂掃除と部屋の掃除をやっておいたので、だいぶ気に入られた。最初が肝心という処世術である。気を使うに越したことはない。
翌日、新入社員が会場に集まった。皆、坊主頭に黒いスーツなので他人から見るとやばい集団に見えただろう。先輩達は眼光鋭く、恰幅もいいのでその筋の方にしか見えない。社長が前に出て挨拶を始め、会食と入社式が始まる。
おそらく日本中の新入社員は入社式で社長が何を喋っていたのか覚えている者は稀だろう。記憶を振り絞るが全く思い出せない。何かいい言葉をかけていてくれた気がする。その程度ではないだろうか?
一人一人自己紹介が始まった。中途入社の方もいる。
「私は自分で店をやっていたのですが、潰してしまいましてどうしようもなくなった時に、再就職できたのがこの店です。命がけで頑張ります。よろしくお願いします」
ヘビーな自己紹介をさらっと言ってのける。苦労なされたのか、体質なのか分からないがその方はガリガリに痩せていた。
あまりに長い淡々と続く入社式のせいか、いびきをかいて居眠りする猛者まで現れた。社員の方々が慌てて起こす。
「おお。すまん、すまん」
なかなかの大物ぶりだ。いい歳した肥満気味の浅黒い男だった。和食出身らしい。
若い子では十八歳の子もいる。その子は実家が寿司屋で修行しに来たらしい。予想はしていたが新入社員の中では私は若くはない。
関西から来たという二十八歳の方もいた。前職ではスーパーの鮮魚売り場で働いていたらしい。其の他、北は北海道から南は沖縄まで全国から様々な年齢の者が集まっている。顔と名前を覚えるだけでも一苦労だ。
誰もが相手の出方を伺う、そんな微妙な空気の入社式がようやく終わった。寮に戻り明日からの仕事に備える。帰り道でお互いの情報を交換し誰が何合室に入っているのか初めて知ることができた。
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