第2話 お仕事

 毎週日曜休み。さらに週一日は早番か遅番か休みになり運が良ければ連休にもなる。社会保険、厚生年金、時間外手当もある。当時の私は理解していなかったが飲食店にしては高待遇だ。


 ビル丸ごとが店舗であり事務所、ホールの人間も合わせると百人近くにはなる。支店もあちこちにあり、仕事の手順、従業員の顔と名前を覚えるためにもメモ帳とペンは欠かせない。


 どこに何があるのか? 一日の仕事の流れは? 電話の使い方は? 最初の一ヶ月はお客様扱いで早く帰らせてもらい、同期で飲み歩いて東京の街を満喫していた。


 休み明けの月曜日の朝は早い。まだ街が寝静まっている頃に起き出して身支度を整え、出勤する寮の仲間を一緒に起こしてから地下鉄に乗る。朝のけだるい雰囲気の車内では誰しもが数分間座るために我先にと、自分の席を確保しようとするが私は油断してると寝過ごしてしまうために敢えて立っての出勤だ。


 駅のホームでスーツを着たサラリーマンと共に早足で歩くのにも慣れた。地下鉄内ではボロボロの服を着て、靴の裏底が剥がれ、足が像のように膨らんで異臭を放っているホームレスが幽霊のようにふらついているが誰も気に留めない。


「奴はここの地下鉄の主だ」


 いつしか勝手に名付けて、同期同士でそのホームレスの姿を確認する事が日課になっていた。明日は我が身かもしれない。企業戦士達は気を引き締めて会社に向かう。


 手早く身支度を整えてセコムキーを持って店に向かう。薄暗いうなぎの寝床のような小道をうねうねと抜けていくと、カラスの集団がゴミを漁りバカにしたような目でこっちを見ている。清掃員が鬱陶しそうに追っ払い、産業廃棄物である大きなゴミ袋を車の後方に力任せに放り投げていく。豪華な繁華街の夜と静かな人のいない朝では空気が全く違い「ああ、これから一日が始まるんだな」と気を引き締める。


 通り道にある洋菓子店ではもう明かりがついていてガラス張りの店内では忙しそうに走り回っているおそらく新人であろう若者が汗を拭っている。パティシエ、パン屋の朝はさらに早い。「頑張って。俺も頑張るから」心の中でエール送り見届けてから仕事に入るのが習慣になっていた。


 仕込み場に入り大きな鍋に昆布と水を入れて火をつける。その間に土曜日から漂白剤につけていた巨大な複数のまな板を洗剤で力を入れてタワシで洗う。各階にもそれぞれ浸かっているまな板を洗いにエレベーターを使う者、別館に行って氷をバケツで運んでくる者(夏場は仕込み中に氷がなくなってしまう為)、シャリ当番でさらに地下に降りて準備を進める者。先輩達が出勤してくる前に、魚が業者から届けられる前に朝セットを終わらせなければならない。


 昆布を取り出し鰹節を入れて布でこして一番だしをとる。寸胴鍋に移し替えて先輩が仕込みがしやすいように菜箸、やっとこ、チャッカマンのガス補充などの道具のセットもしていく。


 魚が届けられると検品をしながらエレベーターで地下の仕込み場に運び、魚をそれぞれ仕込みやすいように小肌を氷の入った塩水のボールに分けたり、青柳を水で洗いざる上げしたり、シジミをこすって水で洗ってから火にかける。


 ガス台の数は限られているために順番を考えて仕込みを終わらせないと仕事が捗らない。仕込み工程の多い車海老を先にボイルするために薄い塩水で沸騰させ、茹で上がったら手早く氷水で冷ましてざる上げしておく。


 狭いシンクで天然の鮑の殻を外して三十個タワシで磨いたり、タコを塩でもんでぬめりを落としていく。時間が限られている中、サボると先輩にはすぐにバレるので必死になって仕込みを終わらせていく。


 先輩達が出勤し始めた。各階それぞれに割り当てられた仕込み場に赴き、内線の電話も鳴り響いて騒がしくなる。


「エレベーターで地下の冷蔵庫に入っている魚上げて!」

「今日の入荷なしの魚は? 」

「俺の包丁どこ〜? 」

「ちょっとひとっ走りいって、コーヒー買ってきてよ」

「トイレの紙が補充されてないぞ!」

「今日の予約の数は? 」

「土曜日、最後に片付けした奴誰だ! 冷蔵庫の中身処分してないぞ! 」

「野菜が足らないから誰か買ってこい! 」

「キッチンペーパー別館からもってこい! 」

「〇〇が遅刻です! 電話にもでません! 」


 仕込み場は人が溢れ一気に温度が上がり戦場と化す。月曜は魚の在庫がゼロなのでランチ営業に間にあわせるべく、それぞれが大量の仕込みをこなし殺気立っている。


 新人は命令に従い右に左に、上に下に動き回り包丁を触っている時間がない。一日中走って誰もがみるみる痩せていった。


 ランチ営業が終わっても仕込みは終わらない。営業に回る者と仕込みをする者達で別れる。仕込みが終わった残骸を片付けるだけでも一苦労だ。何十本もある包丁を集めてクレンザーで磨いて洗ってから鞘にしまう作業、二メートル近く山積みにされた大量の発布スチロールを外に運ぶ作業、鳴り止まない頼み事の内線の電話。


「マグロ、エレベーターで上げろ! 」

「魚が足りない。水槽に行ってヒラメ一匹締めて! 」

「手が離せないから食堂に行って弁当作ってもらって持ってきて! 」

「エレベーターに洗い物溜まってるから、下ろせ! 」


 これらの頼み事と仕込みを同時並行させるのは至難の技だった。ここで大事になってくるのが「要領の良さ」だ。全部一人で作業したのでは絶対に間に合わない。なので普段から先輩と仲良くなり頼みごとをしやすい雰囲気を作り


「すいません、今手が離せないんで自分でやってもらっていいですか? 」

「〇〇先輩ならきっと手伝ってくれますよね! 」


 などと後輩の可愛らしさを利用してあざとくお願いする。だがクソ真面目で人と距離を置いている者はパンクしてしまい、イライラしてミスも出て声を荒げてしまう。内線の電話で、ふてくされた声を出してしまい


「なんだお前、その態度は? 口の聞き方に気をつけろよ! 」


 ストレスが溜まると人によって様々な症状が出る。無口になる者、物に当たる者、自分の中に溜め込んでしまう者、食欲をなくす者、胃が痛くなる者、急に歌を歌う者、気分がハイになり修羅場で仕事している俺ってかっこいい! と勘違いする者(こういう奴は仕事が終わっていないものが多い)。

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