第5話 和食入門
店には和食部門の社員がいる。寿司のコース料理につく煮物、一品料理、甘味などを作るワンフロア独立したお座敷の裏方で三人働いていたが、一人のベテラン社員が体調を崩して退職することになった。人手が見つかるまで私たち同期社員の一人が交代で助っ人として働くことになった。
和食部門で寿司とは別に食材が届いて朝の検品を行い、親方がやってくるまでに一番出しを引いて、魚の頭落としをやっておかなければならないがそこでも関西弁の奴が邪魔をする。
「お前こっちの朝セットしなくていいの? ただでさえ人手が足りなくなるのにそれはあんまりじゃない? こっち終わらせてから和食の仕事すればいいじゃん。 寿司のことは知らんぷりですか? 偉くなったね〜」
和食の仕事を手伝うことになったのは同期の三人だけで、関西弁は親方から戦力外通告を受けてクビになっていた。口は回るが腕は大したことはない。包丁も滅多に研がないし最近では専ら他人の粗探しに命をかけていた。同期が出世していくのが悔しいのだろう。ネチネチと絡んでくる。
一ヶ月に何回か築地市場の休日がある。その前日は二日分の魚が届いて全ての仕込みが倍近くになる。もちろん保存の仕事をして冷蔵庫にしまうだけでいい魚もあるが大量の氷、ペーパー、タッパを使い冷蔵庫がパンパンになる。その整理整頓だけでも時間が取られる。それは和食の仕込みでも同じで、できれば早く仕事に取り掛かりたいが奴はそれを許さない。
「二日分の仕込みの時はもちろん頑張ってくれるんですよね〜。まさか俺たちを置いて逃げるなんてことはしませんよね。大先生? 」
本当に嫌な奴だ。ギリギリまで寿司の仕込みを手伝い我々は和食の仕込みに行く羽目になる。親方も早く出勤してくるので非常に気まずい。
「何でもっと早く来れないんだ? 俺より遅く来てどうすんだ? 」
「すいません。どうしても寿司の仕事があって抜けられないんです」
「後輩もたくさん入ってきて人はいるんだろう? そいつらは案山子か? 俺たち和食は三人しかいないんだぞ? 分かってんのか? 」
「すいません......」
まさか同期の一人に足を引っ張られているなど情けなくて言えるわけがなかった。最悪のムードの中、和食の仕込みが始まっていく。
普段の仕込みでは包丁を使う機会があまりないがここでは親方がバンバン仕事を振ってくる。
「やらなきゃ覚えられないだろう? 俺が若い時は先輩がポケットマネーで食材を買って来てマンツーマンで教えてくれた。その食材を賄いにしたりしてな。お前らはそういう事してくれる先輩はいないのか?」
同情され多少のミスには目を瞑り、意欲のあるものには仕事を教えることを全く厭わない。高級食材のアマダイやアカムツなどを生まれて初めて三枚おろしにした。身はボロボロでお世辞にも上手とは言えないが親方は怒らない。
黙って手伝い、親方は倍近くのスピードで美しく正確に魚をおろして行く。時には競争もするが絶対に負ける。
「まだやってんの? 」
こっちが一枚おろす間に三枚はおろし終わり余裕の態度でこっちを見ている。
「見てらんねぇな。いいか、こうすんだよ」
ポイントを押さえながら実践で体感してスキルが身に付いていく。私たちは喜びで感動した。普段は後輩の指導や雑用ばかりなので本当に嬉しい。乾いたスポンジが水を吸収するように貪欲に知識と技術を学んだ。
プライベートでも飲むようになり仲良くなった。父と息子ほどの年の差ではあったがケータイ番号を交換して、どうでもいい話をする仲にまでなっていく。
日本酒が好きで刺身をあてにしてチビチビ飲むのが好きな人だ。若い頃は色々な店を渡り歩いたらしい、話も面白く経験に裏打ちされた技術は目を見張るものがあった。
この時の三人は一番幸福だったのかもしれない。
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