この世界での人間失格者

白川津 中々

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1.0

 生きている意味が分からなかった。

 幼少の頃より希薄な生への執着は日に日に細くなり、今や一本の枯れ枝の方がよほど逞しく見えるくらいには頼りなくなっていた。


 私は名家と呼ばれていたらしい一族の嫡男として産まれた。他には姉と妹がおり、そのせいか私は随分と女らしく育ってしまった。特に姉には良くしてもらい、本を読んで貰ったり、絵の書き方を教えて貰ったりした。時には可愛らしいリボンを私の頭につけ、「ヨウちゃんも女の子ならよかったのだけれど」と冗談交じりに笑うのである。姉の笑顔は実に美麗で愛おしく、「やめてったら」と口では言うものの、私は微塵も嫌な気はしなかった。

 しかしながら家長である父はそれを良しとせず、母もまた男児たれときつく私に言うのであった。女々しい遊びは咎められ叱られる。姉には特に厳しく、容赦のない折檻が行われていた。白い肌に浮かぶ痣は消えては浮かび、消えては浮かび。その度に、姉の顔は曇り、人知れず大きな雫を落としていたのであった。


 さて。先に私の家柄を名家であったなどと妙な形で述べたわけだがその理由は単純明快で、既にその体を成していないからに外ならない。そもそもが何百年前に国を救済した人間が我が血筋の祖であるらしいが、その次に起きた何百年前かの戦争で我が国は敗れ、それまでの歴史や価値観などが圧倒的に破壊し尽くされてしまったわけである。私の先祖に当たる人間の英雄譚など忘却の彼方へと消え失せ、世界は、新たなる時代へと進まざる得なかったのであった。


 ではなぜ、私が私の先祖が救国の勇者である事を知っているのかといえば、母から寝物語に聞かされていたからである。毎夜毎夜飽きるほどの世迷いごとは睡眠を促すに覿面であったが、副作用としてくだらぬ空想の物語を暗記してしまうという弊害に悩まされた。恥ずかしい話であるが、子供の時分はこの病的な妄想に心底憧れ、自身が特別な人間であると信じて疑わなかった。よく学友に話しては揶揄われ、 口論となったものである。


 しかしながら、そんな可愛らしい時代も終わりを迎えるのであった。

 ある日の事。いつもであれば帰ってくる時間に姉が未だ学校から戻ってこなかった。父母はまったく心配する様子もなく、「一族の者であれば心配はなかろう」と根拠のない言葉を吐く。まだ両親を両親として信頼していた当時の私であったが、その時ばかりは、口には出さなかったが反感を抱いた。なにが一族だ。姉は普通の人間だろう。


 姉は早くから我が家の狂気に気付いており、私に「ヨウちゃん。あんな話信じては駄目よ」と何かあれば言うのであった。私は姉が好きだったものだからそれを父母に告げ口することはなかったが、もし知られれば酷い虐待を受ける事は目に見えていた。華奢な体でろくに運動もできない姉がそんな目に遭えば、私は耐えられなかっただろう。




 さて。時が過ぎしばらく。夜増える前。ようやく帰ってきた姉を見て、私は言葉を失った。服がはだけ、垣間見える白い肌からは鮮血が蜜のように滴っている。無体な姿と相まって、姉の無表情が私の心に刺さる。何があったのかは一目瞭然であった。姉は穢されたのだ。どこ馬の骨とも知らぬ野蛮な男達に!

 姉は何も言わなかったが父は怒鳴りつけ母は私と妹を部屋から遠ざけた。私は遠くから響く怒号が妹に聞こえぬよう耳を塞いだ。しかしそうなると必然。私には父が何を言っているのか分かってしまう。


「勇者の家系である人間がなんと無様な!」


 哀れな話である。勇者の子供がまた勇者であるとは限らぬと、自身を省みて分かっていないのだから。しばらくすると頬を叩く音が聞こえ、それで落着となったようであった。


 その夜。すっかり寝静まった妹をの横で天井を見ていると、部屋に姉が忍び込んできた。


「ヨウちゃん。ちょっといいかしら」


「いいけれど、そのヨウちゃんというのはやめてくれませんか? 僕ももう十になりますから、いつまでも子供扱いされるのは困ります」


 さして困っているわけではないが、私はわざとそんな事を言って姉の様子を見た。姉はクスリと笑い「分かりました」と言ったものだから私は安堵し、姉の手招きのまま、彼女の部屋へと導かれたのであった。


 小さな部屋に小さなベッド。そして卓に乗ったいくつかの本とランプ。姉の部屋にはそれだけしかなかった。


「ヨウちゃん。この家の事、どう思う?」


 姉は相変わらず私の事をちゃん付けで呼んだが、私はもはや気にもしなかった。


「分かりません。ただ、由緒正しき家柄なれば、建て直したいと思います」


 私がそう言うと、姉は「そう」と言ったきり黙りこくってしまった。ランプに点けられた淡い炎の揺らめきが、二人の影を伸縮させる。私がその影をじっと見ていると、姉の影の先端が、私の影の先端に触れたのが分かった。突然の出来事で何が何やら理解しかねていたが、姉の影はすぐに離れて、「ごめんなさい。おやすみ」と言って私を部屋から追い出したのであった。それが、姉の最後の言葉であった。翌朝、姉は首を吊って死んだ。


 涙は流れなかった。ただ受け入れるしかなかった。両親は「恥ずかしい」とか「惰弱」とか好き放題に言い、まったく悼むそぶりもなく悲しみもなかった。(私が落涙しなかったのは、あるいはそんな空気に屈したからやもしれない)

 姉の遺品を整理していると、私が貸した本のページに一通の手紙が挟まれていた。内容は、父も母も狂っているから早く家を出るように。と丁寧に書かれているだけであった。私はそれが、悲しかった。せめて恨み言の一つでも記してくれていればと思った。それ以来、私は信奉していた、我が先祖の崇拝をやめた。

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