2.14

 月日が経ち、程なくして雑誌が休刊となった。私の収入はなくなった。借金が増える一方で、浪費を繰り返した。借りた金を無闇に使い、金を返すために金を借りた。


 雪がちらつき、人々が着ぶくれする中で拾った薄いコートだけが私の身を温める。心許ない防寒で身を震わせるのは貧困に似ていた。どれだけ我慢しても、苦痛が去ることはない。


 エマの言うようにスティムラントが市販され手軽に購入できるようになったのは、世が私に与えた温情であるかのように思えた。注射液のものが一段とよかった。効果は即刻あり覿面。値は張るが、この頃効き目が薄くなってきた私は専らこちらを利用していた。


 仕事がなく、する事のなくなった私は意味もなく外をぶらつくようになった。薬を打てば寒さなど気にならなかった。反面、効果が切れた時は凍死するのではないかというぐらいに寒気を感じた。にも関わらず汗が出るのが不思議だった。


 陽気な素振りで街を歩くのは愉快であった。自分がどれだけみすぼらしくみっともない格好をしているか忘れるくらいに気分が高揚する。他の者と同じく人の世に生を受け、他の者と同じく歩く。それが特別な事であるような気がして嬉しかった。私を知る人が見れば、気が狂ったのかと思うことであろう。それくらいに私はかつての私と変わっていた。


 そんな折に女を抱きたくなったのは厳冬のせいでもあるし薬のせいでもあった。そして、急にグレイの事を思い出したのも私の男性を蘇らせた。彼の逞しい肢体にと血色のいい顔は、まさに雄の化身である。記憶の彼方に仕舞われたグレイの声が、質感が私を滾らせ、かつて彼と行った売春宿の記憶を引っ張り出してきた。あの淫猥なる背徳の園への興味が湧いてきたのだ。煌めく太陽の照らす世界に掛かる影。私はそこに安らぎを、一時の休息を求めた。慰みを必要としていた。渇きを満たす一雫が欲しかった


 金を借りた。夜を待って家を出た。進む足ははやり、心音が高鳴る。若返ったような錯覚が心地良い。女を抱くのにこれほど高揚したのは初めてで、まだ見ぬ裸体の艶めきに空想の中で愛撫をした。待ち焦がれていた。女が恋しかった。


 色街に着いた。人混みの中、一目でそれと分かる女を物色し耽る。どれがいいとか悪いとか、まったく無遠慮な視線を彼女達に投げかけ品定めをするのだ。自身の下衆な行為を私は容認した。恥知らずを認め、色魔の如くいやらしい目つきを輝かせていた。それすらも快感であった。悦が漏れる。だらしなく口角が上がるのが自覚できる。汚れた花を摘みたいと願い、私は笑ったのだ。その笑顔が向けられている先すら知らぬままに。


 一人の女と目が合った。ゆっくりと、理解していく。顔の崩れが戻っていく。見てはいけないものを見てしまった。知ってはいけない事を知ってしまった。どうして世界は、こんなにも、こんなにも私を悲しませるのか!  それともこれが罰なのであろうか。なれば私だけを傷つければいいではないか!  どうして、なぜ、罪のない者を使い私を追い詰めるのだ!  非道である!  無情である!  あまりにも、あまりにも……!


 私は踵を返し立ち去ろうとした。雑踏の中、人が近付いてくるのが分かる。どうして。やめてくれ。私は合わす顔がない。これ以上、これ以上私は彼女の存在を認識したくないのだ。話などできるものか。声など出るものか。逃げる他にどうしようもない。私は、この残酷なる運命に耐えられない。


 私は駆け出した。人混みを掻き分け、必死になって。追いかけてくる足跡は止み、代わりに彼女の声が聞こえたのだった。


「お兄ちゃん!」





 街から離れ部屋につき、私は膝から崩れ落ちた。震えが止まらなかった。それは寒さからでもなく、薬が切れたからでもなかった。罪の意識が、恐怖が私に絶望を与えた。かくも醜きこの世の邪悪は、いままでより強く、はっきりと現れ私を見据える。

 心臓が握り潰されるような痛みを覚えた。途端に吐き気と頭痛が訪れる。かような再会は望んでいなかった。かような運命を望んではいなかった。妹は豊かで、幸せでなければならなかった。私の為に苦労をした妹は、救われていなければならなかったのだ!


 私は再び外に出た。当てもなくふらつき、朝を迎え、開通したばかりの鉄道を使ってまた歩き、行き着いた先は産まれた故郷であった。意図したわけではなかったが、私は二度と踏む事は無いであろうと思っていた故郷の土を踏んだのであった。

 記憶を辿り、道を歩く。人里から離れた小さな家が、私の住んでいた所であった。色の剥げていた木製のドアは元の色が分からぬほど朽ちており銅の取っ手は錆びている。試しにノブを捻ってみたが、施錠されており入ることはできなかった。静まり返った家屋に人が生活している気配はない。いつからこうなっていたのか。母はどうなったのだろうか。それを知る術はない。私はその場で立ち尽くし、産まれ住んだ家を眺めた。それくらいしか、できることがなかった。

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