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3.0
私は家を離れた。
望郷の心があったわけではない。我が身の不幸の始まりである巣は、三界無案の発祥地にて余すことなく憎しみの対象であった。幾度となく過去を憎み、悲観したか知れない。どれほどの怨讐を思ったか知れない。廃れ、崩れ落ちることに歓喜こそすれ、憂う事などあるはずはなかった。なかったのだ。
それがどうだ。私は家を離れるにつれ、言いようのない悲しみに暮れている。おぼつかない足取りは更にもつれ、後ろ髪を引かれるように歩幅は狭い。一向に進まぬ身体は寒く、痛かった。ため息をつけば、そのまま意識を失いそうになるほど、落胆を感じていた。
私の家は小さな村にあった。酒場と食堂があるだけの、寂れた寒村。改めて見れば活気のなさが際立った。苦しかったのは、母だけではないのが分かる。この村は皆等しく困窮しているのだ。やせ細った牛が喚き、小さくなった田畑は、冬季というのを差し引いても荒れ果てていた。ボロボロとなった民家が修繕される事なくそのままになっていて日々の生活さえままならぬ事がうかがえる。
たまにすれ違う人々は一様に下を向き寒さに身を震わせている。私の着ているボロと同じような服装で、寒い寒いと言いながらどこぞへと向かって行く。見慣れぬ私を気に留めることなく消えていく姿は物悲しく、息苦しく感じた。
酒場に入った。私を知っているものはいなかった。暗い空気が覆う店内では誰しも無口で、酒を飲む以外に口を開く事がない。魂が抜けたような顔をして、酔うためだけに酒を摂取しているのだ。死んでいないだけで生きていない。私と同じく先のない人達。脳の機能を低下させるためだけの儀式は、亡者が血を啜っているように見えた。
金を置いて、私は店を出た。そのまま鉄道に乗って魔法学校のある街まで来た。私の村と違って都会である。ここは活気に溢れていたが、やはり戦争ムード一色であり肩身が狭かった。昼も夜も関係ない演説と議論。声の大きい反戦主義者も一定数いる為、所々で怒号と悲鳴。それと暴力の音が聞こえる。
世界は確実に次の時代へと動き出している。取り残されてしまった私は果たしてどうなるのか。どう考えても悲観的な未来しか見えなかった。まともに、人間らしく生きる事は到底無理に思えた。だからどうだというわけはない。奔流に弾かれ溢れた淀みに沈む枯葉の如く、私は死を待つ他する事がない。すぐ死ぬもよし。このまま時の流れに身を任せ、生きるでもなく死ぬでもない運命を受け入れるのもまた、自由であった。
その日は宿を取った。疲れ果てた私は泥のように眠り、夢を見る間も無く朝を迎えた。そして、その宿が学生時代の夏に泊まった宿である事が分かった。惨めな記憶ではあったが、それすら美化してしまうくらいに私は弱っていた。それを発端に記憶を辿り始め、一つ気になっていたことを思い出した。チェルシーの事である。今更彼女に会っても言い訳くらいしか話す事はないし、それすら聞かぬほど恨んでいるであろうことも予想できていたが、子は生まれたのか。ちゃんと生活できているのか。それが一抹の心残りであった。
宿を出て、私はチェルシーと出会った公園へ向かった。当時は新しく美しかった噴水はところどころに傷ができており、ポンプにガタがきているのか水の勢いも大人しかった。ベンチに座りそれを見ていると、一人の女が現れた。顔はよく見えないが薄汚れた服を着て、何をしているのかフラフラと動き回っている。手入れがされていない髪が風になびき、深く不快な黒色をはためかせている。私は女を観察していた。そして分かってしまった。あの気狂いのような女に見覚えがある事を。私がかつて愛した女である事を。
女と目があった。しかし、彼女は私に気が付いた素振りを見せない。というより私がいるかどうかも分からないと言った様子である。
彼女はしばらく不審な挙動を取るとふらりとどこかへ向かった。私はそれをつけた。その道なりはよく知っていた。なぜなら、私が住んでいた家へ続く道だったのだから。
女が入ったのは私の家であった。さすがに中に入る勇気が湧かなかったが帰ることもできずその場でまごついていると、中から声が聞こえた。私は、そっと玄関扉に耳をつけ聞き耳を立てた……
「ただいまオセロー。お行儀よくしていたかしら。いつお父様が帰ってきてもいいように、誰も見ていなくともちゃんと紳士としての振る舞いをしなくてはいけませんよ。オセロー。私の可愛いオセロー……」
女の声だけが響く。私は裏に回り、窓に付けられているカーテンの隙間から中の様子を伺った。部屋では椅子に座らされた、ミイラのような子供の死体にチェルシーが顔を埋めている。テーブルの上には、スティムラントの瓶が大量に置かれていたのであった。
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