3.1

 変わり果てた彼女について考える事は多々あった。勿論責任は感じているし、あのとき彼女の元から逃げ出さなければお互いに違った結果が待っていたのではないかとも思う。幸せとはいえないまでも、彼女の心が壊れる事はなかっただろうし、私がこの悶々とした後ろめたさと後悔を抱く事はなかったであろう。自責の念が拭えるはずもない。チェルシーが狂気の果てに至った原因は、ひとえに私が彼女の元を去った事にあると断言してもいいのだから。


 しかし、私は彼女の愛に応えることができなかったのもまた事実である。愛してはいた。結婚も考えた。しかし、輝く彼女の生は灼熱の閃光を放ち、私の心を焼き尽くさんとしていたのだ。それが耐えられなかった。影の中で生きてきた私にとって、彼女の命の放光はあまりに眩しすぎたのである。

 私は彼女の影に惹かれ闇に安らぎを感じていた。それが反転してしまえば、愛など、情など塵芥が如く消え去り、残るは惰性と怠慢だけである。


 私は私が住んでいた家から離れた。彼女の為に何かしてやりたかったしするべきなのだろうが、私にそんな力はない。お互いに不幸を増大させるだけで、今以上の悲劇しか生まないだろうから。


 私は馴染みだった酒場に足を運んだ。店主は気付いたの気付いていないのか分からなかったが、見すぼらしい私の格好を見ても店の中に入れてくれた。

 活気に湧く店内に私の居場所はないような気がしたが、店の隅に座り一番安い酒を頼む。それが出てくる前にスティムラントを飲んだ。効果の切れる間隔が日に日に短くなってきておりもはや手放せなくなっていた。さすがに外で注射をするわけにはいかないので私は錠剤を持ち歩き、効果が切れる少し前に飲むようにしていた。衆人環視の中堂々とアンプルを動脈に打つのはばかられるのだ。また、そういった人もいない事はないのだが、やはり、白い目で見られるのは避けられない。私も彼らと似たようなものなのだが、まだいくらかの羞恥心と尊厳は持ち合わせており、せめて忍んで薬に頼ろうという意味のない意地をみせていたのだった。真っ当に生きている人間からすれば、極々微小なものであるが。


 店主が黙って頼んだ酒を置いた。一口飲み、間を置く。薬が効き始め、辺り一面がクリアになり周りの声もよく聞こえる。喧騒が煩わしい反面心地いい。このうるさい中で、よくシュタインとくだらぬ話をしながら酒を飲んだものだ。

 そんな懐古に浸っていると彼がしてくれた神学校時代の学友の話を思い出した。落伍し、田舎に帰って溺死した彼のことである。私は彼に感じていた美を自らが再現できないかと思った。彼と違い、新たな一歩を踏み出す勇気は持てなかったが、命の始末を自身の手によってつけ、それを我が人生の完遂として幕を下ろせないかと考えてみた。死への恐怖。無への回帰が私を悩ます。しかし、この先に待ち受ける四苦八苦に抗えるかと問われれば、私は不可能だと断言しよう。生きるも死ぬも、結局のところは同じである。


 死。


 その一言が重く肩にのし掛かる。生きていても意味はない。重々分かりきっていることだ。それに私は死にたがっていたはずだ。生きている意味が分からないと世を儚み、自身の生まれと無能を呪っていた。

 しかしそれが、死という選択肢がいよいよ現実味を帯びてくると途端に及び腰となり、死ねない理由をこじつけ今日まで生き汚く永らえてきたのである。


 だがそれもこれで終わりだ。私は今日こそ死ぬ覚悟を決めた。いや、生きるより、死んだ方が楽だと考えがまとまったのだ。方法と場所は決まっていた。私は金を払い酒場を出てまっすぐ、その場所へと向かった。


 海は静かに蠢いている。穏やかな波が私を待ち受けているようで不気味だった。しかし、もう迷う事はない。この場で私は命を散らし、忌まわしき世の呪縛から解放されるのだ。苦しみも悲しみもない無へ、何もない世界へと私は赴く。

 潮風が肌を裂くように吹き付ける。寒さが意思を揺るがしそうになったが、私は死ねば寒いも何もないと波に向かっていった。足下が砂浜から濡れ池へ。濡れ池から海中へと変化していく。このまま沖まで泳げるだけ泳げば、寒さか疲れか、あるいはその両方かで私は死に至るだろうと思った。海水は外気より暖かく感じたがやはり冷たく、私の身体は徐々にしびれ感覚がなくなっていった。意識が、切れる。暗闇が襲う。あぁ、死ねる。これで、死ねる……






 天井があった。柔らかな感触がベッドであると理解するのに数秒。何があったか思い出すのにまた数秒の時間を要した。

 服は着ていない。誰かが脱がしたのだろう。薄い肩が掛け布団からはみ出ていたが、寒さは感じなかった。火が爆ぜる音が聞こえるのでストーブが焚かれているのだろう。私は思い切って身体を起こしてみた。痩せ襲った肢体が露わになった所に、私のよく知っている、懐かしい友人の声が響いたのであった。


「海水浴って時期じゃないと思うんだがね」


 隣を見れば冬服を着込んだ男がカップを二つ持って立っている。厚着の上からでも分かる逞しい肉体は、彼と初めてあった時より随分と成長しているように思えた。

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