3.2
上手く言葉が出なかった。今の自分を見られるのが恥ずかしいと思った。
差し出されたカップを受け取り茶を飲む。私も彼も無言。ストーブと、衣服が擦れる音がするくらいで気まずかった。辺りを観察すると見覚えのある部屋である。私は朧げな記憶の断片を必死にすくい上げ何とかここが魔法学校の保健室である事を思い出した。
「散歩中、人が倒れていると思ったら懐かしい顔だった。こんな時に会うなんて、まったく因果なものだ」
「こんな時」という言葉に違和感を覚えた私がそれを聞く前に彼は答えてくれた。
彼。グレイは、放校となった後家業を継いだそうだ。実業家として随分な活躍をしており、この魔法学校も国から安く買って軍事工場として再利用するつもりなのだという。背景には魔法学校卒の大臣や有力者の発言力減退を目論む社会的な駆け引きがあるそうだが、私にはまるで興味がなかった。
「凄いじゃないか」
掛け値無しに、本当に何の打算も邪もなく私はそう言ったつもりであった。しかしグレイは「相変わらず嫌な笑顔だ」と吐き捨てため息をついた。
「お前さんが何をどうして馬鹿な考えを起こしたのかは知ったことじゃないがね。俺に見つかったのが運の尽きだよ。丁度人手が足りなかったんだ。手伝ってもらうが文句はないだろう?」
グレイのその言葉で、私は彼の組織の一員となり働く事となった。今までで一番に大変であったが、不思議な充足感に満ち、生の喜びの、ほんの一旦を垣間見ることができた気がする。彼と共に同じ旗を仰ぐのは快感だった。気分が高揚し、かつて見たことのない世界を私に与えてくれた。しかし、全ては遅すぎたのだ。この刹那に訪れた幸福が、私にとって最後の人間らしい生活であった。
働き始める前に、グレイが私に言ったことがある。
「酒も煙草も好きなだけやるといい。だが、薬は止めろ」
彼は私を保護した際、私の痩せ細った身体と注射痕を見てスティムラントを乱用していると気づいたのだった。キツく咎める事はなかったが語気は強く、同じ年齢とは思えぬ圧力を感じた。
私は彼の言いつけを守った。だが、薬を絶った際に訪れる不安と焦燥感。そして身体中を虫が這うような感覚に襲われ、恐ろしい不快感と悲しみが 私の心を捉えたのであった。正気という異常が、私をドブの底へと沈めていく……
気がつけば、私はスティムラントを打っていた。爽快感と罪悪感。それに伴う背徳感。自己嫌悪と抗えぬ誘惑。私の精神は傾き、揺れ、今にも崩れそうなほどに震えていた。もはや薬なしでは生きられない。比喩ではなく、現実問題としてスティムラントを手放せなくなっていた。昼の休憩時間中にひっそりと抜け出し薬を買いに行くのが習慣となった。徐々に静脈への注射がやりづらくなっていく。こうなるともう後戻りができないと人伝に聞いた事がある。なるほど。私はもう駄目なのだなと、その時改めて自覚した。そしてある夜。決定的な事件が起こった。寝入っていた私はふと目を覚ますと、どこからか声が聞こえるのである。
「ヨウちゃん……ヨウちゃん……」
姉の声であった。私が飛び起きると、目の前には姉が首を吊った状態でこちらを見ているのであった。
「ヨウちゃん……苦しい……苦しい……」
戦慄した。恐怖で声が出なかった。すると、私の身体の中から妹が現れ、そっと首に手をかけるのである。「恨めしい恨めしい」と呟きながら私を見据える目は獣のようであり、むき出した歯からは唾液と血が滴り落ちている。
堪らず、妹を足蹴にしてしまった。すると妹の顔がぐちゃぐちゃと音を立て変化していく。気がつくとチェルシーの顔となって私をじっと見ていた。それがまた次第に変化していき、部屋で子供の死体を愛でていた頃のような狂気を帯びたのであった。
その時ようやく悲鳴を出す事ができた。私は頭を抱え、震えて動けなくなっていた。ドタバタと廊下を走る音が聞こえ誰かが私の部屋に入ってきたのは分かったが、恐ろしくて恐ろしくて首を上げる事ができなかった。
しばらくすると、グレイの声が聞こえた。誰かが読んだのだろうか。「しっかりしろ」と叫ぶ彼の声に、私はようやく安心できゆっくりと頭をあげた。すれと、そこに絶っていたのは、私が最も愛した娼婦が、身体中に痣を作って立っていたのだった……
私は拘束され馬車に乗せられていた。どこに行くのかと思えば病院であった。覇気のない医者に色々と診られたようだが、何が何やらさっぱり分からなかった。ただ一言、「これは駄目ですね」という言葉だけは聞き取れた。隣に誰かいたようだったがそれが誰かも分からず、私はただ、虚ろな意識のままでひたすらに彼女達への謝罪を続けたのであった。
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