2.13

 その内に私は酷いことをした。秋頃だったろうか。酒を買いに外に出ていた時、一人老婆が蹲っていた事があった。よせばいいのに私は「大丈夫ですか」と彼女に話しかけた。


「いえ、お気になさらずに。老体にはよくあることです」


 そうはいったが老婆の皺だらけの顔はまさに死人みたく真っ白に変色しており、手に触れた肌は冷たかった。本人が気にするなと言っている以上放っておくのが礼儀なのだろうが、私は良心の呵責によって善業(と思っていた)と傍観を秤にかけた。すると、僅かであるが善業の方が傾いたのであった。


「いえ、大変でしょう。おぶって差し上げます。さぁどうぞ。頼りない背中ではございますが」


 老婆は二度断ったが、その都度私がまた「大変でしょうから」と食い下がり、三度目の提案にしてようやく「じゃあ頼みましょうかね」と身を委ねた。

 老婆の身体は細く軽かったが、私の足腰には十分な負荷となり時折ふらついた。そうすると老婆の息が乱れ腐臭が鼻にかかった。不快であったがやむ負えぬ事である。年老いれば、人は誰しも肉が溶け臓腑が腐る。常世の民になる準備段階へと入るのだ。生から死への転換。拒絶から受容へ到る過渡。恐怖から安堵への変化。それが老いであると、私は認識している。この老婆がどのような人生を歩み、それを終えるのか興味はなかったが、消えゆく命の灯火を見た私は自身が歳を重ねた時のことを空想した。しかし結局上手い具合に思い描けなかったしそもそもが毒に塗れた身体である。私がこの老婆の年齢くらいまで生きるのは、いささか無理があると自覚はしていた。


 背にした老婆の案内で私は彼女の家についた。そのまま立ち去ろうとする私を、老婆は留めた。


「悪うございますから、お茶の一杯でもおあがりください」


 老婆の棲む家は薄汚れていた。申し出を断りたかったが、親切の押し売りをしたの私である。内心嫌であったが笑顔で「いただきます」と答えた。汚い上に小さな家の中はこざっぱりとしていて無駄なものがなかった。いや、もしかしたら必要なものさえないのかもしれない。この老婆も私と同じく、困窮の果てに今に至った悲しい同胞なのかもしれないと思った。その予想は、老婆が出してくれたお茶を飲んで確信に至った。緩く薄い茶は水の臭みを消す効果しか発揮しておらず、香りも深みもまるでないただ飲むだけに葉の成分が添加されたものであった。「こんな不味い茶しかなく申し訳ない」と詫びる老婆に、私は「いえ」と否定とも肯定ともつかぬ返事をするので精一杯だった。


 傷だらけの古いイスとテーブル。奥には乱れたベッド。衣装が仕舞われていると思われるキャビネットは埃がかり、もはや身の回りの事さえ難儀するほどの生活であるというのが伺えた。


「それと、ちょっとまっていてくださいね。お礼を、したいので」


 そう言って老婆はよろよろと立ち上がりキャビネットの中から銀貨を一枚取り出して寄越した。私が「頂けません」と言うと、老婆は「冥府には持っていけませんので」と、私の手を持って無理やり金を握らせた。


 これがいけなかった。

 この老婆は近く死ぬ。金は死後無意味となる。


 私の中に邪が入り込み、瞬く間に成長し悪魔となった。


 悪魔は囁く。


 あれは死に金だぞ


 キャビネットを見る。あの中に、いくら入っているのだろうか。いや、あの銀貨が一枚だけ、たまたま入っていたから老婆は私に渡したのかもしれない。


 馬鹿を言うな。もっとあるに決まっているだろう


 いけない。駄目だ。あの老婆とて、苦しんでいる。助けのない世で必死に生きているのだ。それを、一度きり、ほんの些細な事であっても、同じ境遇だと哀れみ手を貸した私が裏切るわけにはいかない。


 金があれば、酒と薬が買えるじゃないか。迷う事はない。あのガラクタ同然のキャビネットに入っている金はお前のものだ。隙を見て取り返せばいいじゃないか


 不味い茶を飲む。私はあえてキャビネットからは目線を外し窓の外を見た。通りに人影はなく寂寞。中心地から外れたこの家は孤立している。この辺り一帯に住む生きた人間は、目の前にいる老婆ただ一人だけのような気がした。その一人も、いずれ……


 他愛ない世間話しは退屈であった。老婆の身の上に相槌を打つだけの時間。およそ意義が見出せぬ閑話は苛立ちを募らせ私の心を蝕んだ。しばらく経つと老婆は話し疲れたのか、合間の静寂が訪れた際に寝息を立て始めた。


 好機じゃないかね


 秤が傾く。善から悪へ。ここに来た動機が崩れそうになる。空の財布が、いやに気になる。

 静まった空気に責められているような、急かされているような感覚。どうしたらいいのか。どうしたいのか。罪を、犯すのか否か……


 いや、罪ならもう背負っている。私がどれだけの人間を不幸にしてきたか、私自身、忘れた事はない。今更一人増えたところでどうなろう。踏み止まった功績として、神から恩赦されるのか。されるわけがない。地の獄があるとすれば私はそこへ死後堕ち責め苦を受けるであろう。ならば、ならば今、この生にどれだけの罪を重ねようとも!


 愚かであった。悩むべくもない。罪は犯すべきではない。重ねてはいけない。分かっているのだ。私は罪深く、弱い。そう。分かっている。分かっているのである。私は、それを分かった上で、老婆の金を盗んだ。


 キャビネットの引き出しを開けると布袋が置いてあった。紐を解くと、銀貨が幾らか……私はそれを懐に忍ばせ老婆の家を出た。達成感と解放感が清々しく、罪悪感を薄めた。自らの手で犯した罪の計量は計りかねた。得た金で酒と薬を買う算段を立てた。私は、初めて自発的に罪といえるような罪を犯した。






「あんた……」


 しばらく経ったある日。私はふいに呼び止められた。例の老婆であった。


「お金、返してくれないかい……返してくれるなら、大ごとにはしないから……」


 被害者だというのに懇願する姿が痛ましかった。しかし、私にはもうどうすることもできない。金は、すべて使ってしまったのだから。


「なんの話ですか」


 私はしらを切り通した。「お願いだよ」と繰り返し頼む老婆に、さも辟易した風な素振りをした。


「証拠はあるんですかね?  ないでしょう。お気の毒ですが、私にはどうする事もできません。これ以上付きまとうのはやめて下さい」


 私の言葉に、老婆は倒れ咽び泣いた。響く嗚咽。しかし、本当に、本当にどうしようもないのだ!  私には、どうしようも……





 酒を飲んだ。どれだけ酔っても、老婆の声が消えなかった。自らの犯した罪に押し潰されそうになる。あまりに身勝手な、あまりに非道な犯行であった。どうしようもない。どうしようも……どうしようも……

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