2.7

 私はその事を公園に捨てられていた新聞で知った。エーテルの観測ができなくなったと一面に書かれていた。試しに術式を試みたところ、本当に何も起こらず、呪文が虚しく響くだけに終わった。


 私は魔法だけが取り柄だった。自分が望む、望まざるに関係なく、私には魔法しかなかった。そのせいで妹が辛い思いをしたのであった。

 こんなことならば、魔法学校など行かなければよかった。最初から妹を連れ出して逃げていればなんとでも……!


 虚しい空想であった。当時の私がそれをできるわけがなかった。意志薄弱で、保身の事しか考えていなかった私が、どうして着陸地点の分からない逃避行などできようか。こうなったのは、半ば運命なのだ。呪われた我が血脈が呼び込んだ業なのだ。そう自分に言い聞かせる以外にできることはなかった。





 ある日。女が酷く泣いて帰ってきた事があった。「どうしたのかね」と聞けば、「何でもないの」言い続け、私の身体を求めたのであった。

 翌日。私はどうにも気になり街に出て、適当な売春婦に話を聞いてみたところ、案外早くに真実を知る事ができた。


「酷い客がね、たまにいるのよ。女を物かなにかと思っているような男が。そういう客は避けるんだけど、あの子は最近誰彼構わずついて行くから心配だわね。ところで貴方は優しそうだけれど、遊んでいかないかしら」


 私は「ありがとう」と言って帰った。家には女がいた。どこに行っていたのと聞かれたので「散歩さ」と答えると、また涙を流しながら私を求めてくるのであった。

 心許ないランプの明かりで、私は女の身体をよく見る。痣や傷があった。それも秘部に執拗に刻まれたそれは、痛ましく、悲しく、また、いいたくはないのだが、非常に汚らわしく見えた。私は何とも言えない気持ちとなり、女から離れた。


「どうして……」


 女が落とす言葉には悲劇と不幸が混ざり合った暗黒があった。深い絶望の色があった。拒絶への恐怖。失望。悲痛。全てが私に向けられ、愛が、憎へと裏返り、絶叫となって吐き出された。堪らず私は家を出た。夜風が身に染みる。灯の少ない街角を当てもなく歩いた。


 静まり返る街道。遠くで色街の光が怪しく煌めく。女はあそこで金を得ていたのだなと今更ながらに考えた。私が仕事をしていたのはもっと遠くで、ここからでは到底見ることができなかった。

 もしあのまま。エーテル観測所で働いていたらどうなっていただろうか。エーテルの消失と共に魔法研究職の意義が失われてしまった以上。国にとって無用の長物と化したであろうあの組織と、そこに勤めていた人間はトカゲの尻尾のように切られ、お役御免でただ外に排出されるだけなのだろうか。なれば、遅かれ早かれ私はこうなっていたに違いない。道がなくなったから別のルートを探そうなどという気概が私にあるとは、私自身が思えなかったからである。


 しかしそれは他の者も同じだ。魔法関係の職に就く人間の大半は、権威主義が服を着て歩いているような者ばかりだ。自立など、別の道を歩く事などできようはずがない。

 そう考えると、普通に生きている人たちが特別なような気がした。凄まじい偉業を達成しているように思えた。私にはまるで耐えられない苦労を毎日当たり前のようにこなしているのだから。

 それは、あの女も同じである。毎日男に抱かれ、私の腹を満たす分も金を稼いでいるのだ。当たり前のように抱かれ、蔑まれ、唾を吐かれながら……


 悪い事をした。女に罪はないのだ。罪があるのは私の方だ。罰せられるのは私の方だ。彼女が涙を流したのならば、私も同じく悲しみを共有し、悲壮に生きなくてはならないのだ。彼女の全てを受け入れるのが、私の義務ではないのか。その私が逃げ出しとどうするというのだ。最後に残った、人としての矜持をも捨てようというのか。


 夜空には月が出ていた。雲一つない、絶海の空が広がっていた。瞬く星々が、煌めき燃える。幾光年離れた天体の光がここまで届いている。黄金。白銀。赤光。全てが私を勇気付けてくれた。全てが私の命を輝かせてくれた。


 戻ろう。


 息を切らせ、もつれる足を叩きながら私は元来た道を引き返した。謝らなければならぬ。愛さねばならぬ。その想いは彼女に近づくにつれ強く、重くなっていく。速く。速く。速く。脳が痒くなるほどに焦り、心臓が破裂しそうなほど焦がれる。彼女の顔を見たかった。涙を拭ってやりたかった。再び愛し合いたかった。


 叶わぬ夢となった。女は、姉と同じような姿となって死んでいた。糞尿を垂れ流し、醜く舌を放り出した状態で。

 その時。私は初めて他人の為に涙を流した。初めて愛を喪った気がした。姉の死も、妹の苦労も等しく悲しく、辛いことではあったが、この時よりは、これほどまでには私の心を打ちのめしはしなかった!


 釣り下がった身体をそっと抱きしめる。酷い匂いと、温もりが私を迎えた。その時私は声を上げて泣いたのであろう。雄叫びをあげたのだろう。気がつけば人集りができていた。警備隊によって、私は彼女から引き離された。


 体に染み付いた糞尿の臭いが、私が最後に感じた彼女の存在であった。皆が口々に何か言っているのが聞こえた、そんなことはどうでもよく、どうしようもなかった。

 これからどうしようかと考え出したのは、警備隊の聴取を受け解放された後であった。

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