2.6
私は役所へ仕事を探しにいった。しかし、どうにも空気が妙であった。理由はすぐに分かった。戦争である。
いまだ開戦前ではあったが富国強兵をうたっており、兵隊と工場の職員がこぞって人々を手招きしているのであった。魔法関係の仕事など、一つも募集していなかった。私は活気にやられ足早に去り、公園のベンチで一人休み、途中酒屋で買った質の悪い酒を飲んだ。
その際、自分の手を見るとなんとも貧弱で、とてもじゃないが鉄砲など持てそうになかったし、鉄火場の工場で働くこともできないと思った。昨晩の覚悟は一夜の夢として消え、私は今、この飲んでいる酒がなくならないで欲しいと一杯一杯後生大事に身体に入れるのが精一杯であったのだ。
さて。私が安酒に逃避し空を見ていると、人影が私の前に現れ、突然に声をかけたのであった。
「君。こんな昼間から何をしているんだね。みなお国のために働いているというのに」
初老の男性であった。手には杖をつき、見事な髭を風になびかせた貴族風の出で立ちである。
「酒を飲んでいます」
「見ればわかるよ。恥ずかしくないのかね」
「大変、恥ずかしいと思います」
本当に恥ずかしかった。情けなかった。しかし、何もすることができなかった。男性はしばらく一方的にまくし立て、辻説法に満足したのか去って行った。私も立ち上がり女の家に帰った。すると女は「どこへ行っていたの」と聞いてきたものだから、「仕事を探しに」と答えた。
「そう。見つかりましたか?」
「いいや」
「いいんですよ貴方。仕事なんてせず、ずっと家にいてください。お金は私がなんとかしますから」
「しかし……」
君に身体を売ってほしくない。そう言うはずだった。言葉が出なかった。現実を直視できず、生々しい言葉を使うのが躊躇われたのだ。いや、はっきりと言おう。私はこの生活を終わらせたくはなかった。気ままに暮らす毎日は私にとって何事にも変え難いものであった。
私は初老の男性に言われたことを思い出す。「恥ずかしくないのかね」との言葉に私は確かに「大変、恥ずかしいと思います」と返した。だが、しかしだからといって今日から私自身がまったくの別人となり、数多の困難を乗り越え、艱難辛苦に立ち向かい、人のため、お国のために質実剛健な立ち振る舞いができるかといえばできないと言わざるを得ない。私は自分を情けなく思う。にも関わらず、変わらない。変わる事ができないのだ。私はうつむき涙を落とした。
その瞬間に人の温もりが私を覆い、柔らかな芳香が鼻をくすぐった。女が私を抱きしめたのだ。互いに、震えた。
「大丈夫ですから。貴方は大丈夫ですから」
女の声は湿っていた。彼女の顔をなぞった雫が、私の肩に落ちる。私はその時初めて彼女の心に宿る影を見た。孤独を恐れる弱さを感じた。私が彼女に声をかけたのは、決して肉欲の赴くまま、誰彼構わずというわけではなかったのだ。私は、彼女の持つ闇を、深淵を感じ取ったのだと理解したのであった。
「泣かないでおくれ。私はどこにもいかないよ」
酷いことをしていると思った。まさしく悪漢の極みであると自覚していた。私は死後、あるのであれば地獄に堕ち無限に続く責め苦をうけるであろう。しかし、私は彼女に対して他に報いる方法を知らなかったのだ。働けもせず、救うこともできない私は、彼女の側にいる事しかできない。
互いに抱きしめながらしばらく泣いた。唇を交わし、淡い火が影を作る中でお互いを慰めあった。なんと惨めな愛であろうか。なんと哀れな傷の舐め合いであろうか。私達は荒野に残された、羽根のもがれた鳥のようにただ、はいずり、届かぬ声を響かす事しかできないのである。
それから私は変わらず女の稼ぎで酒を飲んだ。特にやることもなく、日がな一日無為に過ごし、時折起こる自己嫌悪に頭を悩ませた。
妹の事を思い出した。妹も、私のために働いて、終いにはどこかへ売られてしまった。妹は今どうしているのだろうな。私を恨んでいるだろうか。何もできず、ただ苦しむためだけに産まれたような我が妹に、私は何もしてやれず、こうして一日中酒を飲む。妹と同じく、私のために身体と心を傷付け働く女の金で。
生きている意味が分からなかった。
死ねない意味が分からなかった。
私はまさしく生きていてはいけなかった。死なねばならぬと分かっていた。しかし、しかし私は生き続けている。死ねないでいる。
時が過ぎていく。その中で私は、さらに自身の価値がなくなった事を知る。エーテルが、完全に消滅したのであった。
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