2.4
しかし私は最初楽観的であった。どうにかなるだろうとタカをくくっていた。その余裕が、私に自堕落をもたらした。この自堕落が、後々自分を苦しめた。
ともかく宿を一ヶ月借り、毎日酒に溺れた。宿の近くに酒場を見つけ、連日連夜そこで飲み続けた。
一人でいると必然他の客の話が耳に入る。私はそこで、戦争が秒読み段階まで来た事を知った。
「徴兵される前に、志願しておくかい?」
若い男達がそんな話をしていたのを私は聞き逃さなかった。徴兵……
いよいよ戦争が現実味を帯びてくると人間は大まかに三つに分かれた。一つは不安がる者。二つは意気勇む者。そして三つ目は、関係ないさと酒を飲む者である。私は三つ目の者が一番臆病で、一番戦争を恐れている事を知っていた。なぜなら、私自身がそうであるのだから。
死を思い始めて以来。私は兵役を務めようかと考えてみたことがある。あぁまで死ぬために必要な道具と環境が揃っているところが他にあるだろうか。しかし、いざ自分が鉄砲を担ぎ、行軍し、勇往邁進に大陸へ向かう姿がまるで想像できなかったのである。それは恐怖であった。軍隊を、戦争を私は恐れた。
徴兵。この言葉が、私に酒を進ませる。許容量以上に身体に入り毒を吐き出す。すると酔いが覚め、身体中を恐怖が支配する。また、酒を飲む……
私の不安は戦争だけではなかった。見る毎に減っていく金に焦燥を覚えた。こんな事ならチェルシーに残す事などせず、すべて持ってきたらと思うことも度々あった。
それでも私は家に帰らなかった。帰ったところで両親が敷居を跨がせるわけがないし、許しを得たところでどうしようもないからである。
以前。シュタインが酔って神学校時代の知り合いの話をした事があった。
その知り合いは青春の全てを勉学に捧げてきたそうで、神学校でも優等生で通していたのだが精神を病み退学となったのだという。仕方なしに地元に帰ったはいいが、成績優秀で将来が有望視されていた彼は酷い劣等感に苛まれ悩んでいたという。それでも、彼は職人として生きようとしたそうだ。勉学しか知らなかった彼が、生きるために、必死になって。
そして彼は川で死んだそうだ。死因は事故死という発表であったが、シュタインは「自殺だね」といってはばからなかった。
私はその話を聞いたとき、えもしれぬ恐怖と羨望を抱いた。彼の家は、彼が少年の時に持っていた環境は彼を受け入れ、また彼もそれを受け入れようとしたのだから。その上で、シュタインの言う通り自殺だとしたら何と儚く哀れで、美しい死に様だろうか。悩み、苦しみ、新たな道を歩もうと決意したにも関わらず。彼は死を選んだのだ。何を思ったか、何を覚悟したのか。私には分からない。分からないからこそ、焦がれ、恐れる。死を、終焉を、永遠に続く救済を。
私は思った。もし、私に帰れる家があれば、彼のように美しく死ねるだろうかと。
私は死にたかったが、死を恐怖していることにこの頃気が付いた。死の持つ絶対的な力の前にうずくまり、震えながら望んでいた。
憧れと忌諱は相容れぬものではない。同居し、共存し、互いに根を張り大きく膨らんでいく……
知らぬ街であったが作りはだいたい同じであった。家があって道がある。裏には入れば空気が淀み、浮浪者がジロリとこちらを見るのである。
私はそれを見るのが楽しみであった。シュタインの趣向が感染したのか、人の不幸を愉しく感じた。ただ彼と違う事が一つ。私は、彼と違って希望が見えない不幸が好きだった。救いようのない絶望を好んだ。それは、きっと私自身に襲いかかってきてほしいという願望からくるものであろう。絶望から生まれる、避けることのできない死を!
金と戦争。そして死。それらは私に不安を与え、不安は情動へと変わっていった。脳に火が入る感覚。身体中を掻きむしりたくなる衝動。気が触れそうなほど湧き上がる肉欲。
私は一人の女に目をつけた。酒場でよく見かける女だった。歳は私よりかなり上で、それを隠すように若い言葉を使うのであった。
「姉さん。付き合ってくれたまえよ。寂しくって仕方がないんだ」
随分と粗野になった気がした。これはグレイの真似だったが、どうにもしっくりこなかった。その為か女は私を笑い、恥ずかしかった。
「あら可愛いじゃない。いいわ。遊んだげる」
花弁を思わせる女の唇。それが動く度に心臓が大きく鼓動した。恋とは言えなかったが、私が初めて味わう心の躍動であった。話しているだけで気を失いそうになる。のぼせ上がるとは、よくいったものだ。
「そろそろ行かなくっちゃ」
二時間程だろうか。女はそう言って私にウィンクをした。「また会ってくれるかい」と尋ねると「橋が降りたらね」と言った。(流行りの芝居のセリフだそうだ)残された私はもう一杯飲み勘定を済ませようとすると、連れが払っていったと断られた。あの女であった。私はこれを口実にまた話す事ができると思った。橋は、降りていたのだ。
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