2.3
私は彼女に伝えるつもりであった。結婚しようと。共に暮らそうと宣言するつもりだった。情熱……とは言い難いのだが、彼女に対する想いは強かった。それを愛と言い切ってしまうのは些か抵抗はあるのだが、結婚してもいいと思った。
彼女は相変わらずであった。今までの生活となんら変わりなく、小遣い程度の金でよく働いてくれた。月にいくらと決まっているわけではない。時折私が支払いを忘れても彼女は何も言わなかった。それに関し私が「ちゃんと言ってくれないと」と苦言を呈すと、彼女は微笑んで「あまり使いませんもの」と返すのだ。「それでは困まる」と言っても聞かないのだから。
彼女は私に尽くした。私が求める事を、望む事をだいたいやってくれた。酒を買ってこいと言えば買ってきたし、タバコを買ってこいと言えば買ってきた。それも心底嬉しそうに、喜びに満ちた表情で。彼女から押掛女房のような厚かましさを感じていたのはいつからか、思い出せない。
「私、幸せでございますのよ」
彼女がある日そう言った。
「馬鹿を言っちゃいけない。端た金でこき使われて、何が幸せなもんかね」
「幸せでございます。幸せでございます」
両の目から涙が流れていた。お互い横になって目を見ているものだから目尻と目頭が濡れ、私はどちらを拭ってやっていいのかわからずそのままにしていた。
「私、逃げてきたんです。夫と、子供もいるんです」
彼女は過去を話し、自らをチェルシーと名乗った。驚く事に、私はそれまで彼女の名前を知らなかった。
チェルシーは名家の娘であったが、職人の男(こちらの名も聞いたが忘れてしまった)と駆け落ちし、貧しい暮らしをしていたそうだ。遁走している時には、既に子を宿していたという。子が生まれ、金が出ていき、知らない土地での生活が二人の精神を蝕み、夫はチェルシーに暴力を振るうようになったそうだ。
安い台本だと思った。その話を聞いた途端に、私が抱いていた劣情は霧散し体外へと排出された気がした。彼女に対し、チェルシーに対して私はもはや愛と思っていた感情が消え失せてしまっていたのだ。
私はこの事を相談したかった。しかし話す相手はいなかった。唯一交友のあるシュタインには、もはや彼女と結婚すると誓約してしまっていたのだから。
「ちょっと出てくるよ」
私は彼女にそう言って家を出た。馴染みの酒場に行き、紙とペンを借りた。綴る言葉は別れと再会を約束する、言い訳がましい妙なものであった。
酒を煽っても一向に酔う気配がない。気持ちだけが沈んでいく。飲めば飲むほどに深淵がこちらを覗き込んでいると錯覚する。これから先どうしていいのか私には分からなかった。なぜだか責められているような気分になった。誰に?
それすら分からない。錯乱に近い状態で私は無理に酒を飲んだ。口から溢れるアルコールが首元を刺激し、ヒリヒリと軽い疼きを与える。この疼きが次第に強くなり、果ては私の首を締め上げていくのではないかと思われた。私はそれでいいと思った。
気付けば家のベッドで眠っていた。私は酒場で寝てしまい、店主がチェルシーに連絡をして彼女が私を連れて帰って来たそうだ。チェルシーは「馬鹿ね」というだけで私を咎めなかった。
しばらく経って、チェルシーは私に言った。「子供ができた」と。
「そいつはよかった。僕はね。君に結婚を申し込むつもりだったんだよ。今まで機会を逃していたがちょうどいい。どうだろうか。結婚してくれるね?」
チェルシーは私のプロポーズを受け入れた。幸福を凝縮し、眩しいくらいに輝いた笑顔の中にもはや影はなかった。その日に私は幾らかの金と手紙を置いて家を出た。手紙の内容はこうである。
書にして残すのは、君にいつまでも僕の事を憶えていてほしいからにほかならない。僕は誓って戻ってくるからそれまで辛抱して待っていてください。
もし嫌気がさし、僕の事を嫌いになったのなら好きな時に出て行ってください。その事で僕は貴女を怨みはしませんし、貴女が怨むのも甘んじて受け入れます。
最近は寒くなってきました。お身体を労わり、ご自愛くださいますようどうかお願いいたします。
追伸
子供の事は大変嬉しく思います。できてよかったと思います。しかし、貴女にとってすれば二人目であり、二人とも、不慮の事故というか、突然湧いて出てきたようなものにございます。それは貴女にとって決して良い事とは言い難く、これから先を考えるのであれば、僕との子はなかった事にした方がいいでしょう。どうか堕胎してください。貴女のために、どうか。
知らない土地に来た。仕事もなく、当てもない。気持ちばかりの金が唯一の支えであった。私は学生だった頃、妙な意地を張って一人街を彷徨っていた時のことを思い出していた。あの時と同じで、私にはもはや帰る場所がなくなっていた。
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