2.9
しかしそんな不安をよそに、私の生活は順風……とまではいかないが、事立てるような問題とは無縁であった。上役の人間がこれこれこう言う風に書いてくれと言われた通りに記事を書き、レイアウト内にきっちりと収めるのが私の仕事であった。
記事の内容はプロパガンダが六割。反国家主義者の批判が三割。どうでも事が一割という分配であった。元々この組織は社会風刺的な報道を得意としていたらしいのだが、これも時流である。ぼちぼちと検閲が始まるとの噂もあり、あまり過激な事は書けないのであった。
そんな中でとある記事を編集しろと言われた。草稿を読んだ際に、一匹の魔物が私の心を引っ掻いていった。それは、感傷という名の魔物であった。
魔法関係の組織、総解体。時代は鉄と油。
見出しの案はそう書かれており、私が勤めていた観測所も写真付きで紹介されていたのであった。しかもインタビューを受けた人間は私の同期であった。名前こそ匿名ではあったが、見る人が見れば一目瞭然で誰だか分かる書かれ方をしていた。
彼はいかに理不尽な目にあったかという事をツラツラと述べたようで、括弧書きで、この者我が国民に非ず。惰弱なる精神に怒髪天を突く思い。と書くようにと指示されていた。
他にも薄弱とか白痴が如くとか恥知らずとか、ともかく思いつく限りの罵倒が並べ立てられ、最後には国賊という最大級の誹りをもってして締められていた。
特にいい思い出があったわけではない。特別彼らと親しかったわけでもない。しかし、心苦しくはあった。私だけ一人、過程はどうあれ安穏に暮らしているのが、とても罪深いように思えた。
考えてもみれば、子を宿した女を捨て、世話をしてくれた女を死なせてしまったのだ。そうして私だけが生き残り、あれ程恐怖していた戦争を煽る言葉を書き綴り、かつての同僚達を貶める文句を記事にしようとしている。
私は原稿の最後に、彼らが戦える人間となるよう弊誌は願っていると書き加えた。上役はそれを見て何か言いたそうな顔をしていたが、結局無言のまま完成としそれは本紙に載ることとなった。小さな、本当に小さな事であるが、罪滅ぼしになればと思った。
仕事が終わると私は一人帰る。たまに誰かが酒の席に誘ってくれるが、全て断っていた。人付き合いが煩わしいのもあるのだが、このところ、どうにも酔うと自然と落涙するようになっていた。何かを考えているわけでも想っているわけでもないのになぜか悲痛な呻きが漏れ出し、その場で蹲りただ咽び泣く以外に動きを取る事ができなくなってしまったのである。故に私はいつも、あてがわれた狭い部屋の中で飲むばかりであったのだ。そして何を血迷ったのか、それをエマに打ち明けてしまったのだからほとほと度し難いと思った。
「貴方付き合い悪いんじゃないかしら、一度くらい、みんなでお酒を飲みましょうよ」
そんな事を言われ、私はどうしようもなくなり、つい自身の恥ずべき習慣を白状してしまったのだ。またこの告白には私の浅ましい策略があった。彼女の同情を誘い、何かしら私の特になれば良いという愚考があったのだ。
「あら、それはいけないわね。そんなに辛いなら、一ついい方法があるのだけれど」
思いの他エマが親愛のある態度を見せてくれたものだから、私はまったく情けない声で「是非」と懇願した。エマはカバンから濃緑色をした瓶を取り出し「手をお出しになって」と私に指示をした。私は言われた通り手の平を空に向けて出すと、エマは瓶を振って中に入っている錠剤をその上に落とした。茶こけ色の、妙な錠剤であった。
「スティムラントっていうんだけれど、効果は折り紙つきよ。すぐ元気になっちゃうんだから」
「聞いた事ない薬だね。売っているのかい?」
「ううん。軍からの横流し。でも、近く市販されるって噂よ」
「どうしたってそんなもの。違法じゃないのかい?」
「さぁね。いらないのなら、返して頂戴」
私は差し出されたエマの手を払い、「頂くよ」と言ってハンケチに錠剤を包んだ。エマは「一日一錠。寝る前はおよしなさいな」と言ってにこやかに笑った。
私は帰宅してすぐ、エマから譲ってもらったスティムラントを飲み込んだ。すると少し間を置き、目の前が輝き、空気がクリアになっていった。澄み渡る無色。音の反響が視認できるのではないかと思われるほど辺りがよく見え、光の届く音が聞こえるくらいに耳が敏感となった。
全てが新しい感覚であった。何より脳が軽かった。風も雨も太陽も、全てが私の為に与えられていると思った。世界が私を肯定してくれていると思った。生きているだけで幸せだと思った。
全てが美しかった。何もかもが喜びであった。幸せだった。幸せだった。幸せだったのだ!
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