2.10
スティムラントの効果は絶大であった。鬱々とした気分はなりを潜め、私の過去の重責から解放してくれた。
反面、薬が切れた時の脱力感と無気といったらなかった。死にたいとすら思えぬ程に、脳と身体が活動を拒むのだ。それは大体、薬を服用して一日後に起こった。考える事が。目醒めている事が。息をする事さえもが。なにもかも億劫に感じる虚脱。それが数時間続き、長い眠りに誘われる。そしてその眠りから醒めると、孤独と絶望に苛まれまたスティムラントを飲む……
堕落以外のなにものでもなかった。しかしもはや、私はそうならざるを得なかった。薬に頼らねば頭も身体も機能せず、心さえ腐っていくようであった。血が冷たくなるような感覚。指を動かすたびに、身体が軋む。もはや取り返しがつかない。どうしようもない。
それでも仕事はなんとかなっていた。自らの責務をこなし、給金分の働きはしていた。なにせスティムラントを飲んで出勤しているのだから、作業効率が落ちることはなかった。たまに誘われる酒宴にも顔を出すようになった。酷く疲れるが、それでもエマがいうように参加した方が人間関係は上手くいった。
そうしていく中で世は戦争ムードにそまっていった。街を出歩けば殺戮を推奨する広告がズラリと貼り付けられ、そこかしらで若者が演説を行っている。「戦う時はきた」だの「我らが勝利」だのと好き勝手のたまい、狂気を含んだ熱弁を振るって他を扇動しているのだ。戦争を知らぬ者が盲信的に戦いを肯定し英雄のあり方を語る様は、私の両親の姿と被った。奇しくも私は雑誌上で母から聞いた先祖の話を書いており運命じみたものを感じていた。
好きで書いたわけではなかった。本来は空いてしまった記事の代替として別の内容を用意しなくてはならなかったのだがそれが間に合わず、おふざけ半分の悪戯で書いて上役に提出したのだがそれが何故か気に入られしまい、そのまま連載という形になってしまったのである。エマが「あら小説家になられたの」と皮肉を言ってくるくらいには稚拙な書き物であったが、我が祖の活躍は血気盛んな若者にシンパシーを与えたらしく、極たまに応援していますという旨が書かれた手紙が届いた。誰もが痛みを、悲しみを、破壊を肯定的に捉えている。戦争など経験した事もないのに、耐え難きを耐えられると、忍び難きを忍べると、敵を打ち破りて喝采を浴びるだろうという未来を想像していた。この国は豊かであった。故に、争いの凄惨さえ知らず、自らも戦えると思い込むほどになってしまったのである。逆に苦しみを中で生きている人間の声は二つに分かれた。
「戦争なんてまっぴらだ」
「結構な事じゃないか。これで死ねる」
ある日、スティムラントが回り調子よく作業をしていた私は、上役から手紙を渡された。
「小説の作者様へと書いてある。つまり、君宛にだよ。女の名前だ。やるじゃないか」(私は名を非公表にしていた)
上司の軽口に合わせ愛想笑いを浮かべながら差出人を見る。
母の名が、刻まれていた。
しかし旧姓であった。父が死んだか、それとも……ともかく私は手紙の封を解き、滅入る気持ちを抑える文字を追うのであった。
突然のお手紙失礼致します。私は貴方が書いている小説の内容を知っている者です。更にいえば、貴方が誰かも当てる事ができます。ヨウでしょう? この話は我が一族に伝わるものですから、貴方以外、この話を書ける者はいないのです。ですので、私はこの手紙を読んでいる貴方をヨウとして、言葉を綴ります。
ヨウへ。悪い事は言いません。帰って来なさい。貴方が蒸発した事は水に流します。今の現状を思えばエーテル観測所を辞めたのは正解だったでしょう。そして、我が一族の輝かしい歴史を世に知らしめんとする貴方の熱意には頭が下がる思いです。しかし、しかしです。私に何も伝えず行方をくらますのは到底看過できるものではございません。私がどれだけ心配したか分かりませんか? お父様も随分お怒りでした。家族の仲が、貴方のせいで不和となったのです。
ですが、先にも書いた通り、水に流しましょう。貴方を許しましょう。母として、貴方の罪を無償の愛で受け入れましょう。だから帰って来なさい。いつまでも心配をかけるものではございません。小説は、家でも書けるでしょう。帰って来なさい。お父様が死んだのです。母は一人です。私の子は、貴方しかいないのです。
ヨウ。帰って来なさい。そして我が一族を立て直しましょう。子を作り、血脈を繋ぐのです。母一人で生きるには、難儀な世の中です。ヨウ。帰って来なさい。貴方の家は、ここしかないのですから。
感情が逆流する。暗転。目眩。スティムラントがマイナスに作用していく。震えが止まらない。不安が津波となって私を襲う。母が哀れなわけではない。父の死を悼んだわけではない。しかし、不安が、悔恨が私に襲いかかりどうにも抑え難い、溺れているような、焼かれるような苦しさを覚える。
私は早退した。上役が心配そうに声をかけてきたが、もはや声を返すこともできなかった。歩く事もおぼつかず、馬車を拾い自室へと辿り着いた。そのままベッドに沈み、起きたのは二日後の朝であった。
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